行商の中傷
マルバ村への出発にあたり、慧海はネパールで購入した白馬をツァーランの寺の住職に譲った。代わりに住職は経文を4帙と仏教辞典などの書物をくれた。おそらく6千ルピーほどになるだろう。3月10日、ツァーランを立つことにした。
慧海は村人の病気を診た時、酒やかみたばこを止めるよう約束させた。そんな餞別に加え、懇意な人たちは蕎麦やパン、バター、チーズなどをくれた。午後に、荷物を負わせた馬を2頭連れて、村人に見送られながら村を出た。
慧海はツァーラン村へ来た時の道を引き返してキミイに泊まり、翌日、カリガンガー河岸のツク村を訪れ説教し、この日の夕暮れにマルバ村に到着した。
村長のアダム・ナリン氏はまだ帰っておらず、父親のソェナム・ノルブー氏が慧海を綺麗な仏堂に導いてくれた。この仏堂には経文だけでなく仏像も多い。
窓の外には桃園が見えた。マルバ村はツァーランより標高が低いため二毛作ができる。畑の向こうに川、その向こうに低松が生え、その上に雪山がそびえていた。
村長宅では長くとどまって一切経を読んでほしいと言われたが、慧海は雪がなくなる季節までと決めていた。
半月ほどたつと、ツァーラン村で暮らしていた頃、カルカッタに行く行商へ託していた手紙の返事が届いた。サラット居士からの手紙である。
返書の中には雑誌が入っていて、大谷派の能海寛師がチベット国境まで行ったものの、関所で追い返されたという記事が掲載されていた。「無理な事をして命を落さないように」とサラット居士からの注意書きもあった。
ところがこの手紙のせいで慧海に噂がたった。「英国政府の高等官吏あてに手紙を送るのは怪しい、実は慧海は英国人で、英国から金をもらってスパイをしているのではないか。英語も分かるようだ。この村に慧海を置くべきでない」というものだ。
この噂を聞いた村長は顔色を変えた。慧海は「もし3年間、秘密を守ると誓いを立てるなら、本当の事を話しましょう」と持ちかけると、村長はその通り約束した。
そして慧海は日本の外務省発行の旅券を見せた。村長はインドへの行商を行っているので、英語のつづりくらいは分かる人物である。