山家の修行
ツァーラン村の入り口には悪神が入り込まないようにするための門があった。7メートルほどの楼閣である。門を抜けて1・5キロほど行くと村に着く。
村長の仏堂に招かれ、慧海はそこに住み込むことになった。チベットでは家と別に仏堂を建て、僧侶の接待所にしている。経典を備えるところもある。これは読むためでなく、供養のためにただ置いてあるだけだ。
仏堂の向いには小さな離れがあってモンゴル人のギャルツァン博士はそこで暮らしているという。村長は温厚で、2人の働き者の娘が農業をしていた。
慧海は毎朝3時間、博士の講義を聴き、昼からは修辞学や作文を学び、時には議論することもあった。チベットの修辞学は仏教に関係するものが多いが、時に男女関係にまつわる卑猥な教えを組み込むものもある。古代のインドにあったようなものだ。
この男女和合の教えを開いたのは蓮華生という僧侶で、肉食妻帯をするような人である。慧海にとっては仏法を滅するために現れた悪魔のような存在だが、博士はこれを仏の化身として尊崇しているので意見がかみ合わなかった。そして村人も蓮華生を篤く信仰している。
とはいえ博士は20年もセラ寺で新教派の修行をした僧侶だ。女性のために身を崩してモンゴルに帰れなくなり、このツァーランに落ちぶれているのだと噂されている。しかし、非常に博学な人だった。
修辞学をめぐって慧海と博士の議論は尽きなかった。ある時、博士は「あなたは外道だ」と言って3日間、講義を休んだことがあった。が、怒りやすく冷めやすいモンゴル人である。しばらくすると博士のほうから折れてきた。
こんなこともあった。インドの仏教学者、無着菩薩の講義で、博士が「無着の説く唯識より上のものはない」と断言したので、慧海は「いやいや龍樹菩薩の中道論には及ばない」と反論すると、しまいに博士は「チベットで尊ばれる無着菩薩が下だと言うのか。チベット仏教に対する侮辱だ」と、慧海の胸ぐらを捕まえて、経典の締木を握りしめ殴りかかってきた。
慧海はこの時、外に聞こえるほどの大声で笑った。声に驚いた博士は締木を置いたが、それでも胸ぐらは離さない。慧海が「無着の仏法を論じながら、そんなに執着するというのは困ったものだ」と言うと、ついに博士は手を離した。
こうして慧海は日に6時間の講義を受け、下調べを含めて12時間以上勉強した。休みの日曜日は石を背負って、山を駆け抜ける訓練をした。
一方、村人の楽しみは女と戯れ、肉を喰い、酒を飲むことで、娯楽といっても摩尼講で説法を聞く程度。人々はとても不潔で、体を洗うこともなく顔や首筋を洗う程度で体は真っ黒である。着物も洗わず、年に一度しか新調しない。2年着れば褒められる文化である。夏が過ぎれば男女間の話に熱中し、食事と夜の営みにエネルギーを傾ける。それは老若男女問わずである。
日曜日になると、慧海の元に村人が病気を診てもらいに訪れることもあった。また未来を聞きに来る者もあり、どちらともつかない返事をしてやると、それで満足して帰っていった。そうするうちに慧海は村の評判となり、娯楽のない村の噂の的になった。先日の喧嘩は、慧海が乞食に金をやったことを博士が怒ったのだ、などと世間の評判になっている。
慧海は日頃から誰に対しても親切に振る舞うように心がけているが、世間では純粋な親切心だけでは成り立たないらしい。利害や愛情の有無によって、交際ができなかったりもするのだ。人の心とは、世間とは妙なものだと慧海は感じ入ったのだった。