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超訳 河口慧海「チベット旅行記」  作者: Penda
第一章 出国からラサまで
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チベット入国の決意


 今から100年以上も前に、ヒマラヤの山々を歩いて越え、鎖国していたチベットへ、日本人として初めて入国した男がいた。黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶、河口慧海(かわぐちえかい)だ。慧海にあるのは冒険家魂ではない。チベットにある仏教の経典が欲しい。その一念である。


 慧海は大政奉還の前年の1886年、大阪の堺に生まれ、24歳で出家した。「誰にでも読める分かりやすいお経はないものか」と、京都・宇治の大本山・萬福寺に籠もり、経典をひたすら読み込んだ。


 経典とは漢文に訳された大蔵経(だいぞうきょう)。インドから中国を経てもたらされた全6956巻の仏教経典集である。

 だがそれは、思いのほか不完全なものだった。同じインドの経典の文章であるのに訳が違ったり、順序が入れ替わっていたり、付け加えられているものもある。「こんな不確かな訳を、さらに日本語に訳したところで、完全なお経にはなりえない」と頭を抱えた。

 本来の経典の意味を探るには、原書を得る他にない。だが本場インドの仏教経典は多くが失われていた。現在はチベット語訳の経典が原始のものにかなり近いという。ならばチベットへ行こうと慧海の心は決まった。


 とはいえチベットは当時、イギリスの侵入を防ぐために鎖国政策をとっていた。入国は困難で、命の危険さえ伴う。

 そんな冒険をしなくとも、慧海は気鋭の論客として一目置かれ、26歳の若さで羅漢寺の学生住職に就いてもいる。

 「地位を捨てて、チベットに行くなど馬鹿げている」。周囲からなんと言われようが、慧海の心は固かった。お釈迦さまも王位を捨てて、出家をしたのだから。いかんせんお釈迦さまと違ってこの男、身分も金もない。だが資金がなくとも、己が信じる教えがある。

 釈迦が説くところによると、仏教の法を守るものは飢えたり凍えたりして死ぬことはない。それに、僧侶には托鉢修行という生きるすべがある。

 大物なのか、はたまた狂人か。信心は無謀な旅に勝るのか。このとき慧海、32歳。情熱は収まるところを知らなかった。


 インドの仏典の一部は古典語の「パーリ語」で書かれている。神奈川に、スリランカに留学し、上座部仏教を学んだ釈興然(しゃくこうねん)師という方がいたので、慧海は師の門をたたいた。

 最初は丁寧に語学を教えてくれた興然師だが、次第に上座部の教えを信仰するようしきりに勧めてくるようになった。師は「わたしの弟子になれば旅費と奨学金を得た上でスリランカに留学もできる」とささやく。

 だが慧海は一向に従おうとしなかった。大乗仏教こそが日本に必要だと信じているからだ。

 ついに師は「上座部仏教の教えに従わない者は寺にいることを許さん」と慧海を寺から追い出しにかかった。慧海が生活の費用を払い、寺の手伝いもするから語学を教わりたいとどれだけ願っても聞き入れない。

 慧海は「偏狭でお気の毒」と独りごちたが、どうだろう。チベットで経典を得ようとするためだけに邁進するこの男も一種、偏狂かもしれない。

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