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はじまり

すでに同じようなアイデアがあったらすみません

真夏の池袋駅、地下構内。

地上の熱気がそのまま閉じ込められたような蒸し暑さが、長野誠一(ながのせいいち)のスーツの背中にじっとりと貼りつく。空気には、汗と排気と焦燥が混じり合ったような、濁った匂いが漂っていた。


構内の一角では、講義を終えたばかりの大学生たちが大声で笑い合い、無防備に広がったリュックが通路をふさぐ。若者たちの無邪気さと無自覚な傲慢が、誠一の神経をひりつかせる。


薄暗い蛍光灯の下、柱にもたれた一組のカップルが、人目を憚ることなく唇を貪っている。付き合い始めの熱に浮かされたような接吻。それを横目に、誠一は何も言わず、何も感じぬふりで足を進めた。目指すは、JRの緑の看板。機械的な動作で改札へ向かうその歩みは、まるで重力に逆らうように鈍かった。


長野はふと、自分の踵の向く方向から、細身の若い男がこちらへ向かって歩いてくるのに気づいた。年の頃は二十代半ば、髪は無造作に伸び、耳にはワイヤレスイヤホン。手にしたスマートフォンに視線を落とし、周囲の存在など最初からこの世にないかのように、迷いのない足取りで迫ってくる。

長野の眉間に、わずかな皺が寄る。


(なぜこっちが気を遣って避けにゃならんのだ)


胸の奥に沈殿していた苛立ちが、ふつふつと表面へと浮かび上がってくる。長野は歩幅を微男との距離が詰まる。


3メートル…2メートル…1メートル…そして30センチ。


狙いすましたように、細身の男の肩が誠一の肩へと衝突した。


コン、と音がしたかのような錯覚。だが実際には、骨と骨とがぶつかり合った感触――華奢な骨格が一瞬だけ軋む。その振動が、長野誠一の肉厚な肩へと伝わり、皮膚の奥に淡く響いた。


あくまで「ぶつかられた」のは、こちらだ。

そういう“建前”が、彼にとっては重要だった。


それも束の間。視線の先に、また新たな「対象」が現れる。

今度は、しわ一つない真新しいワイシャツに身を包んだ若い男。胸元には、小さな名札が光る。おそらくは新入社員、まだ現場慣れしていない口元の緊張感が、その初々しさを余計に際立たせていた。


長野は胸中で嘆息する。近頃の若者は、相手の進路も空気も読まず、まっすぐ突き進む。譲るのは常にこちら。


このまま行けば、どう見たって衝突は避けられない。それでも、彼はまるで何も見えていないかのように歩いてくる。悪びれた様子もない。


そんな彼の姿に、長野はふと、自分の職場である池袋東口に構える家電量販店の一角、リフォーム相談カウンターを思い出していた。

今年の春、新卒で配属された男がいた。

名を、鮫島涼介(さめじまりょうすけ)という。


長野とは20も離れたその若者は、天から与えられたような清潔な顔立ちと、軽快なトーク術を武器に、来店した中年女性たちを柔らかな笑顔で手玉に取り、次々と高額なリフォーム契約を結んでいた。

(営業は顔じゃない、経験だ――)

そう心の中で呟いていた矢先のことだった。


昼休憩の終わり際、コピー機の前で肩を並べた鮫島が、無邪気な調子でこう言ったのだ。

「長野さんも、もっとこう、話しかけて欲しそうなお客様を見分けて、自然な感じで声かけてった方がいいですよ。胡散臭くならないように。」

軽い口調だった。悪意があったわけではないのかもしれない。

だが、その“無意識の上から目線”こそが、長野の心に鈍い爪痕を残した。


(俺に、何が分かるっていうんだ。お前に。)


その日の午後から、誠一の機嫌は急降下した。

大人気ない――それは分かっていた。

それでも、不貞腐れた態度は隠す気になれなかった。


いつも通りにしているだけなのに、周囲の空気が変わる。

それが何となく分かる。だが、誰かが声をかけてくるでもなく、空気だけが淡々と澱んでいく。


最近、バイトから正社員になった“みひろちゃん”でさえ、

コピー機の紙詰まりに気づいても、何も言わずに素通りしていった。


(ああ、そういう感じか)


長野は心の中でそう呟く。

別に、声をかけてほしかったわけじゃない。

――いや、そうだったとしても、そうじゃなかったことにした。

残業で遅くまで契約書の準備に追われる鮫島を見ても、声もかけず、視線すら向けずに足早に終業を迎えた。


「――あ、お疲れ様です」


背後から聞こえた鮫島の下手に気を使ったような明るい声も、まるで聞かなかったかのように、彼は振り返らず、警備ゲートへと向かった。


そんな今日の最悪なハイライト――鮫島のあの一言と、無遠慮な若さ――が脳裏に焼きついて離れない。


それを反芻しているうちに、視界の端に白が差し込んだ。

すでに、しわ一つないワイシャツが目前にまで迫っている。

「うおっ――」


反射的な声が相手の口から漏れる。

向こうもスマートフォンを見ていたようで、注意散漫なのはお互い様だ。だが、そんな理屈など今の長野には通用しない。


白いシャツの輪郭に、鮫島の姿が重なった。


心の奥底に積もっていた怒りが、もはや沸騰点を超え、表面張力を失って静かにあふれ出していく。

長野の顔は無表情のままだった。だがその目には、ひとつの確かな意志が宿っていた。


それは、譲らぬ者の目――

いや、「譲られ続けた者」の反逆だった。

目につく世間知らずの若者。

横一列で通路を塞ぐバカ騒ぎの大学生たち。

駅の真ん中でキスを交わす薄っぺらな恋人たち。

――お前らは、誰一人としてこの場所を敬っていない。


怒りは言葉にならなかった。ただ、彼の歩みだけがそれを代弁する。

ぐっと肩に力を入れたまま、長野は直進する。

避けることは、ただの一度もなかった。

それは、静かなる戦闘宣言だった。


ぶつかる。


ぶつける。


そうやって彼は、自分の存在を世界に刻みつけようとしていた。

そのときだった――

ぬるり、とした奇妙な感覚が右肩に走った。


さっきまで人混みだったはずの周囲が、妙に静かになっている。

ふと顔を上げた瞬間。

長野誠一の肩に、無言で突っ込んできた“それ”は―黒だった。


まるで墨の塊が人の姿をとったような男。

表情も目も見えない。だが確かに「意志」だけが伝わってくる。

ぶつかったのは一瞬。だがその一瞬で、長野の視界はがくんと傾いた。


耳鳴り。


心音のような低い振動。

脚がもつれ、膝が崩れる。

―意識が、溶ける。

闇が、すべてを包み込んだ。


飲み過ぎた翌朝のような、ずしりと重たい頭。

視界の奥で光がちらつくが、焦点は合わず、世界はぼんやりと霞んでいる。

(昨日…そんなに飲んだか?)


意識の底を探るようにして思い返す。だが、最後に酒を飲んだのは先週金曜。店舗の納涼会でビールを二杯と、気を遣って頼んだ薄いハイボールだけだった。

それに今日は――火曜日だ。

そこまで思い至った時点で、ようやく長野は異変を意識した。


ひんやりとした床が背中を冷やしている。

やけに広く、静かで、それでいて妙に“湿った空気”。

鼻の奥をくすぐる埃とワックスの匂い。それは確かに、どこか懐かしい感覚を伴っていた。


(…自宅じゃない)


直感が告げる。ここは、自分の家ではない。

――というより、そもそも“室内”の匂いがしない。

反射的に「何かやらかしたのか」と思った。警察に保護された? 病院か? 記憶を手繰ろうとするが、黒い人らしきものの姿を思い出したところで、その先の記憶は途切れていた。


恐る恐る、目を開ける。

天井が見えた。高い。白い。四角い照明が等間隔に並び、どこか間延びしている。

体育館だった。まぎれもなく、見覚えのある“学校のそれ”に近い。

だが、どこの施設かまでは判別がつかない。


起き上がろうとすると、横から気配を感じた。

周囲でも、同じようにゆっくりと起き上がる男たちの気配。

長野はゆっくりと体を起こし、目を凝らす。


白いポロシャツ、グレーのスラックス。

見慣れた“クールビズ”の格好をした中年の男たちが、彼の視界を埋め尽くしていた。

皆一様に表情が曇り、混乱したようにあたりを見回している。


年の頃は四十代から五十代前半。

体格もまちまちだが、その目の奥に共通するものがあった――“不満”と“疲労”の色だ。


人数はざっと見積もっても、二百、いや三百…それ以上。

何かの大型セミナーか? 防災訓練か? あるいは、悪い夢の中か。

「やぁ、初めまして」

ベタな音声加工。高音と低音が不自然に重なり合った声が、体育館の天井から響き渡った。

反射的に全員の視線が、ステージ正面のスクリーンへと向かう。

だが、そのスクリーンとやらがまた拍子抜けするほど粗末だった。

映画館のような滑らかで高級感ある投影幕ではなく、どこかの体育祭で使い回されたような白布に、雑に映像が投影されている。

映し出されたのは、マスク姿の中年男――

小太りで、白シャツの襟を乱しながら画面の中央に収まっている。

それは、どこかの会議室からZoomで参加しているような、低画質・低解像度の映像だった。

(なにこれ……オンライン説明会か?)

くだらない、と頭では思いながらも、身体の芯では確かな異常を察知していた。

周囲の男たちも同じだろう。皆、一様に沈黙し、映像に釘付けになっている。

男は語る。

「皆さんは、ある理由でここに集められています。

 最後の記憶……辿ってみてください。きっと皆さん、同じはずです」

――最後の記憶。

(黒服の男…あのぶつかり……)

「黙れ!なんなんだよお前は!」

怒号が空気を裂いた。

それまで張り詰めていた緊張が、一瞬にして破られる。

白いポロシャツの群衆が、一斉に声の方へと顔を向ける。

そこにいたのは、ひときわ大柄な男。

身長は190近く、筋肉と脂肪が共存したような、威圧的な体躯。

彼はステージのスクリーンに向かって、両拳を握りしめたまま叫んでいた。

「ふざけんな! 俺たちは何なんだ、誘拐か? 実験か!?

 こんなもん、ゲームなんかじゃねえだろ!」

その声に、周囲の何人かがうなずく。ざわめきが広がる。

だが――

「静粛に」

映像の中の男は、どこか飄々とした声で応じた。

感情の起伏を一切感じさせない口調。その落ち着きが、かえって不気味だった。

「さっさと帰らせろよ!」

「説明が終われば、解放しますよ。ルールを理解し、承認していただければ――」

巨漢の眉がつり上がる。

目線を巡らせた彼は、体育館の後方に、わずかに開かれた扉があることに気づいた。

まるで脱出口のように見えるそれへ向け、彼は重い身体をどすどすと揺らしながら走り出した。

「逃げるのは、お勧めしませんよ」

スクリーンの男の声に、かすかな冷たさが混じった。

それでも巨漢は振り返らない。扉の前にたどり着く。

重たそうな鉄製の取っ手を力強く引き――

その瞬間、閃光が弾けた。

金属音のような破裂音とともに、扉の隙間から衝撃波のようなものが吹き出す。

「うおあっ!」

巨漢は身体を吹き飛ばされるように後方へと倒れ込んだ。

衝撃で頭を打ったのか、呻き声も出ない。周囲からどよめきが上がる。

「繰り返します。逃走行為は、重大な違反と見なされます」

「安全な進行のためにも、説明が終わるまでは行動を制限させていただきます」

モニター越しの男は、まるで事務的に告げる。

体育館は再び、沈黙に包まれた。

そして――その中で、長野誠一はようやく気づき始めていた。

これは夢ではない。

ただの悪ふざけでもない。

何か、取り返しのつかないことが始まっている -そういう確信が、骨の奥に、じわじわと染み込んでくるのだった。

「あなた方に共通しているのは、『ぶつかりおじさん』という肩書き。……自覚がない人なんて、いませんよね?」


音声加工された声が、体育館に低く響く。

静まり返った空間の中、その言葉だけが異様にクリアに突き刺さる。


一瞬の沈黙。

それから、大勢のポロシャツたちが、ゆっくりと互いに顔を見合わせ始める。


どの顔も、どこかしら疲れきっていた。

目の下にはクマ、無精髭、くたびれた表情、覇気のない瞳――

長野誠一はその様子を眺めながら、ふと、(なるほど)と思った。


自分と、似ている。


笑わない。話さない。だが「ぶつかる」。

この都市に棲む、匿名の怒り。

――それが、「ぶつかりおじさん」だ。


「あなた方『ぶつかりおじさん』に、一つゲームをしてもらいます。」


その口調はあまりに事務的で、説明会の司会進行のように整っていた。

けれど、内容は――常軌を逸していた。


モニターの男が提示した“ゲーム”の概要は、以下のとおりだった:


・開始時刻は本日、7月22日(火)21時。終了は72時間後、25日(金)21時。

・舞台は池袋駅地下構内。

・ルールは簡単。ぶつかりおじさん同士で“ぶつかる”こと。


  ――ぶつかった側には1点加点。

  ――ぶつかられた側には1点減点。


・期間中、最低でも12時間は地下構内に滞在すること。

  (商業施設やトイレなど、私有空間への長時間滞在は禁止)


・ラッシュアワーにあたる7:30~10:30、18:00~21:00の時間帯は“ボーナスタイム”として加点・減点が2倍になる。


・最初の持ち点は3点。持ち点が0になったおじさんは、直ちに“消滅”する。


・また、最終時刻である25日21時の時点で5点以上を保持していなければ、それもまた“消滅”。


スクリーンの男は、淡々と、静かにそれを読み上げた。


周囲の『ぶつかりおじさん』たちは呆気にとられ、ただ素直にその説明を聞いていた。


(存在が無かったことに? そんなこと、可能なのか?)


現実味のないルールに、誰もが内心では疑念を抱きながらも、声を上げる者はいなかった。

むしろ、どこか自分には関係のない他人事のように、静かに受け入れているようにさえ見える。


だが、長野誠一は確信していた。

この場所に集められた者たち――その誰もが、日々の鬱屈を“ぶつかる”ことで発散してきた人間だ。

そして今、その行為が「ゲーム」として公式に認定された。

そしてその男は無表情のまま、手元にあった白い装置をゆっくりと持ち上げた。

それは、どこか見覚えのある形をしていた。


「この装置。見た目は、そう――みんなよく使ってるワイヤレスイヤホンに似ていますね」


白く光沢のある樹脂製。片耳にぴたりと収まる丸みのあるフォルム。

だが、ただそれだけだ。

音楽を聴くためのデバイスではない。

心地よい音を届けるためのものでもない。


「これは、“接近通知装置”です。

他の“ぶつかり対象”が半径5メートル以内に入ると、音と振動で通知が届きます」


男は装置を耳に添えるような仕草をしたが、それ以上はつけなかった。


「耳に装着するのは任意です。が、携帯は義務です」


その言葉に場内がざわつく。

男はわずかに声を低くしながら続ける。


「この装置は、あなたに紐づいています。

捨てようとすれば、警告として軽度の電気刺激が作動し、同時に1ポイントの減点が課されます。

試してみたい方は、どうぞ」


モニターが切り替わる。

監視カメラ風の視点で、駅のごみ箱に白い装置を投げ捨てようとした男が、突然肩を震わせて崩れ落ちる映像が流れる。


「……一方で、置き忘れや紛失など、意図的でない場合は装置が自動的に戻ります。

駅のトイレ、自宅の棚、通勤バッグ――どこにあっても、一定時間が経過すれば、あなたのポケットに戻ってきます。

これは、“そういう設計”です」


再びモニターが元に戻る。


男は、まるで何事もなかったかのように、装置を手の中で転がしながら言った。

その仕草に、どこか確かめるような慎重さがあった。


「……この装置は、ゲームを正しく運営するために必要不可欠なものです。

持っていてください。それだけで十分です」


一見すると、ただの白いイヤホン。


一部の参加者が眉をひそめたが、男はそれを気にする素振りもなく言葉を締めくくった。


「……以上で初期説明は終了です。

目覚めたとき、皆さんは“舞台”へ戻っています。

現在、時刻は20時57分――あと3分で、72時間のゲームが始まります」

男はふっくらとした体型に見合わないチープカシオの腕時計に目を落としそう告げた。

その声が体育館に残響のように漂った次の瞬間、

スクリーンが音もなく暗転した。


視界が白から黒へと切り替わり、

音が遠のいていく。

呼吸の輪郭すら曖昧になっていく中で、長野誠一の意識は、静かに落ちていった。


「――長野さん! 長野さん、大丈夫ですか!」


耳元で名前を呼ばれる声。

強く、そして焦りを含んだトーン。肩が揺さぶられ、頭の中で何かが水面のようにぐわんぐわんと波打つ。


(……うるさい……)


耳の奥を貫くような、改札機のピッ、という機械音。

近くでは、若者たちのけたたましい笑い声や、スマートフォン越しの通話が断片的に耳に飛び込んでくる。


湿度を含んだ空気。蛍光灯の白光。床の感触。

――長野は、自分が池袋駅構内の自動販売機の前に座り込んでいるのだと、瞬時に理解した。


あの、黒い影。

あの、体育館。

白い装置。

マスクの男の映像。


あれは夢か? 幻か? それとも――


ぼんやりと霞んでいた視界が、少しずつピントを取り戻していく。


目の前にいる男の顔が、くっきりと像を結ぶ。


(……鮫島……?)


間違いない。

同じ職場の、あの若造――

人懐っこい笑みと、妙に手馴れた接客トークで淑女客を虜にする、あの鮫島涼介だった。


「よかった……駅員さん呼ぼうかと思いましたよ」

安堵と困惑の入り混じった表情で、鮫島が言う。


「さっき僕も仕事切り上げて……長野さん汗だくだし、意識なかったし……どうしたんですか?」


どうした――? 

いや、それはこちらのセリフだ。

長野は言葉に詰まりながら、何かが右手に触れたのがわかった。


そこにあった。


ぴたりと手のひらに収まる、小さな異物。

白く、滑らかで、どこか既視感のある形状。


AppleのAirPodsのような、だが違う。

あれだ。あの装置だ。


目を見開く。

夢じゃなかった。

確かにこの手にある、それが何よりの証拠だった。


鮫島が心配そうにのぞきこむ。


長野は、口を開こうとして――やめた。

今、起きたことを説明すべきかどうか、脳内でほんの一瞬だけ葛藤した。

黒い影、あの体育館、意味不明なゲームと白い装置。

夢のようで、夢ではなかった。

だが、話して理解されるとは到底思えない。


それに。


(……なんで俺が、コイツに心配されなきゃならんのだ)


不意に、長野の中の**“不貞腐れモード”**が再起動した。


鮫島の顔を見るだけで、あの時の記憶が蘇る。

「もっと自然に声かけていけばいいんですよ、長野さん」――あの無邪気な、もしくは無神経とも言える“アドバイス”。

年下のくせに、何かを悟ったような顔をして。

しかも今も、自分を見下ろすようにしゃがみこんでいるこの構図。


長野は舌の奥で言葉を噛みつぶし、無言で立ち上がった。

ポケットに装置を滑らせ、スーツの裾を払う。


「……なんでもない」


ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。


鮫島が困ったように眉をひそめる。


「本当に? 顔色すごい悪いですよ」


「別に、ただの立ちくらみだ。気にするな」


低く、ぶっきらぼうに言って背を向けた。

シャツに染みた汗が背中にひやりと貼りつき、不快な冷たさだけが妙に鮮明だった。


振り返らなかった。

鮫島が何か言いかけたような気がしたが、それも無視した。

まるで、何も起きていないかのように。

――いや、何も“なかったこと”にしたかったのかもしれない。


呼吸が整わない。

肺の奥で空気が暴れている感覚を抱えたまま、長野はゆっくりと周囲を見渡した。


構内の柱の陰、売店の前、自動販売機の列の中――

目に入るだけで、同じように目を泳がせ、落ち着きなくあたりを見回している中年男性が4、5人はいた。


彼らの肩、腰の動きにどこか既視感がある。

そうだ、あの体育館にいた――“同類”だ。


「とりあえず、電車乗るまで付き添いますよ」


鮫島の声が耳元で続く。

昼のことがあったからか、いつもより少し低く、気遣いを含んだ声音だった。

だが、今の長野にとっては、その“善意”すらノイズだった。


(すまんが、いまお前に構っている暇はない)


脳内の処理は既に限界だった。

「……そっとしといてくれ」


絞り出したのは、それが限界だった。

それ以上の言葉を編む余裕は、残っていなかった。


「いや、でも――」


「そっとしといてくれって言ってんだよ!」


声が思った以上に荒れた。

構内のざわめきにかき消されるほどの小さな怒鳴り声だったが、確かに鮫島には届いたらしい。


「……あ、お、お疲れ様です。自分、帰ります」


声の調子が急に縮こまった。

鮫島は頭を少し下げると、バツの悪そうな足取りで黄色い看板の方向へと去っていった。


長野はその背中を見送るでもなく、ただその場に立ち尽くしていた。


(確か……鮫島は西武線ユーザーだったな)


ふと、どうでもいい記憶が頭をよぎる。

最近、職場の“みひろちゃん”と話していたのを盗み聞きした内容――「富士見台に引っ越したんですよ」――そんな断片が妙に鮮明に蘇ってきた。


(どうでもいい)


そう思いながらも、なぜか忘れられない。


目の前にあるこの“異物”と、駅構内に漂う平凡な日常。

両者のギャップが、現実感を引き裂いていく。


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