29.婚約の許可
「侯爵様……今、なんと……?」
馬が負担を感じることなく走れるよういくつかの魔法がかけられている特注の馬車に乗り込み、必要最低限の荷物を乗せて屋敷を出発したのが昨日のこと。
いくら一日で到着する性能を持つとはいえ、先触れもないのに遅い時間に訪ねては失礼すぎるだろうということで途中の宿で一泊し、馬や御者のためにも途中休憩を挟みつつようやく到着したブランシェ伯爵領のカントリーハウス。我が家の紋章を見て慌ててブランシェ伯爵本人が出迎えてくれたのだが、その直前まで伯爵自身が土いじりをしているように見えたのは気のせいでも錯覚でもない。その証拠に彼の手には汚れないようにと着用していたであろう、作業用の手袋が握られていたのだから。
「突然の申し出で混乱させてしまっていることは承知しているのだが、そのうえで伯爵に許可をいただきたい。私とソフィア嬢との、婚約の許可を」
「!?」
さらには軽い挨拶の直後に、私がこんなことを口にしているのだ。これで驚くなというほうが、伯爵に対して酷だろう。
だが私は、この時すでに確信していた。今ここでソフィアの父であるブランシェ伯爵が首を縦に振ってくれさえすれば、私自身長年諦めていたこの淡い恋心が叶う時が訪れるのだと。
そもそもユゲットの魔法は、ソフィアが私をどれだけ受け入れてくれているかで変化するというものだった。つまりそこに私の想いの強さは関係なく、ただただ彼女との距離を縮め男として意識してもらうことだけが重要であり、それは同時にソフィアの心が私に向いているかどうかを表す指標でもあった。
(外交へと出発する日の朝、本当はその淡い唇へとくちづけたいと思う気持ちを、どれだけ抑え込んでいたことか)
ソフィアが小さく声を漏らした瞬間など本当に理性を総動員しなければ、あのまま本能の赴くままにくちづけていたことだろう。そしてそれは逆に考えると、それだけソフィアが私を受け入れてくれているという証拠でもあるのだから、彼女の逃げ道を塞ぐためにも先に父親を攻略しておくのは有効な手段なのだ。
それと、もう一つ。ソフィアと再会するよりも先にどうしても伯爵と話をつけておかなければならない理由が、私にはある。
(ユゲットの話し方からして、私が冷静でいられるのは今のうちだけなのだろう)
魔法を重ね掛けされた際に言われていたのは、発動条件は国を出た瞬間に設定しているということだけだった。そのためユゲットも十日間という日程を理解しており、さらには体に負担がかかるとも口にしていたことから、てっきり解除に関しては時限的なものになっているのだと思っていたのだが、それが大きな間違いだったと知ったのはこれもまた昨日のこと。つまり今の私は気を付けなければ、簡単に理性も冷静さも失ってしまう可能性があるということなのだ。
ソフィアの前でだけならば、それでもいいのだろう。だが父親であるブランシェ伯爵の前となると、そうもいかない。婚約の許しを確実に得るためには、それにふさわしい相手なのだと認識してもらわなければならないのだから。
「そ、その……」
「もちろんソフィア嬢の気持ちを最優先に考えてもらって構わないし無理強いするつもりもないので、伯爵もそう構えないでいてくれると助かる。ただもし私に機会をもらえるのであれば、一度だけ彼女と話をさせてもらいたい」
「ソフィアと、ですか? それは構いませんが……侯爵様は外交からお戻りになられて、すぐに我が領へとおいでになられたのですか?」
事情がうまく飲み込めていないような表情を浮かべながらも、不思議そうに問いかけてくるブランシェ伯爵の言葉で、私は大体のことを察した。アマドゥール公爵家の内情を口にするわけにはいかないと考えたソフィアはおそらく、私が外交のため屋敷を空けるのでその間だけ領地に戻ってきたと説明していたのだろう。だからこそ最初から向けられていたのは困惑のみで、怒りや憤りなどの感情は一切見受けられなかったのだ。
(確かに彼女からしても、突然の出来事だっただろうからね)
どう説明すべきなのかも分からない状態で、唯一話しても問題ないだろうと判断できる部分だけを口にしていたのだとすれば、十分納得できる。むしろ、それだけソフィアは今回の件や私にかけられた魔法について、口外すべきでない重要な事項だと捉えてくれていたのだろう。同時にこんなところでまで気を遣わせてしまったことが、とても申し訳なく思えてくる。
だが彼女がそう説明してくれている手前、今ここで私がその気遣いをなかったことにするわけにもいかない。
「一度屋敷に戻ってはいるのだが、一刻も早くソフィア嬢に会いたい気持ちが強いあまり先触れすら出さずに突然の訪問になってしまったことは、本当に申し訳なく思っている。すまない、ブランシェ伯爵」
全てを明らかにするのではなく、けれど事実だけを伝え嘘は口にしないことで誠実さを示しつつ、同時に先触れも出さなかった非礼を詫びる。本来の手順を守っていないのはこちら側なので、特に謝罪に関しては当然のことだろう。
だが、むしろそのせいで彼を焦らせてしまったらしい。
「い、いえ! そんな! むしろ我が家にとっては侯爵様のお申し出も大変ありがたいことですし、嫁がせてやる先がないと考えていた私といたしましても願ったり叶ったりではありますが、実はこの時間ソフィアはいつも領地内の畑の見回りに出ているものでして……!」
流れで色よい返事がもらえそうだと分かったあたりはありがたいことなのだが、そこまで急がせるつもりもなかったので一度落ち着かせるために声をかけようとした私よりも先に。
「誰か! すまないが、ソフィアに急いで屋敷に戻るようにと伝えてくれないか!」
「はい領主さま! ただちに!」
ブランシェ伯爵が屋敷の敷地外へそう声をかけると、止める暇もないまま領民なのだろう若い男性の声で返事が来るのと同時に、こちらとは反対方向へと駆け出して行ってしまったようだった。
「その……話を持ち掛けた私がこんなことを言うのもおかしな話なのだが、そこまで急がなくてもよいのでは……?」
行動に移すのが早すぎる領主と領民に思わず私はそう口にしてしまうのだが、ブランシェ伯爵はどうやら大変決断の早い人物のようで。
「こういったことは、なるべく早く本人に確認すべきですから」
先ほどとまでとは違い、しっかりとした瞳でこちらに視線を向ける姿は、領主の姿であり父親の姿でもあるように私の目には映っていた。
ただ、やはり心配ではあるらしく。
「むしろ、その……。ほ、本当によろしいのですか……?」
念を押すように確認してくる伯爵は、直前の凛とした姿はどこへやらという雰囲気ではあったのだが。
「えぇ。もちろん彼女に受け入れてもらえれば、の話ではありますが」
それに私は安心させるように笑顔を向けて、ハッキリと言葉を返す。
そしてこの直後、無事ソフィアとの再会を果たすことになるのだが。ユゲットに重ね掛けしてもらっていた魔法が解除され、様々な感情の波が一気に押し寄せてきた私は、当然のようにソフィアに駆け寄りその華奢な体を強く抱きしめてしまっていたのだった。




