8.甘かった
そうしてようやく知った彼女の名前は、ソフィア・ブランシェ伯爵令嬢。ブランシェ伯爵家の長女で、私と同じ年齢であることや歳の離れた弟がいるということ、領地が比較的貧しい部類に属していることなど、私は彼女にまつわる様々な情報を一人で調べ上げていった。
その間にも彼女は次から次へと新しい書籍に目を通しては知識を吸収していき、そして同時に年々美しく成長していったのだ。
初めて言葉を交わした十二歳の頃のかわいらしい見た目と比較すると、留学のため国を離れる直前の私と同じく十六歳となっていた彼女は、輝くエメラルドグリーンの瞳や透けるような白い肌はそのままに細すぎる体形は女性らしい丸みを帯び、傷んでいた雪原を彷彿とさせるスノーホワイトの髪は本来の美しさを取り戻したのか、早朝に積もったまだ誰も足跡を付けていない新雪を思わせるような癖のないものへと変化しており、それはそれは大変美しい令嬢となっていた。
これで領地が貧しい伯爵家だからという理由で婚約者の一人もいないというのだから、彼女の周囲にいる男たちは見る目がない。だが反面、そのおかげで私の心は常に穏やかなままだった。
(正確に言えば、ブランシェ伯爵家からの婚約の打診をすでに両親が断っていることを知って、悔しい思いをしている人物も数人存在していたわけだが)
そこは貴族として、ある程度の分別はついているということなのだろう。基本的には彼らにもすでに婚約者がいたので、信頼を裏切るような行為だけはしないようわきまえているともいう。
(まぁ、私も彼らと同じようなものだな)
正式な婚約者が存在していないというだけで、彼女を将来の妻にと望めないという点では、私もそんな彼らと何一つ変わりはない。
結局、四年の間にブランシェ伯爵令嬢と言葉を交わすことができたのは、あの初回のたった一度のみ。それ以降は遠くから誰にも悟られないよう彼女へと視線を向けることしかできないまま、本当に何の進展もなく留学の日を迎えてしまったのだった。
そうして今、あの頃のことを思い出しながら考えることは――。
(殿下もご存じなかったということは、当初の予定通り誰にも気付かれずにいられたということなのだろう)
私の周囲にいた令嬢たちが彼女へ話しかけている姿は見たことがないし、そんな噂も聞いたことがない。そして最も近くにいたはずのオーギュスタン殿下が一切気付いておられなかったということは、完全に隠し通せていたという何よりの証拠だ。
にもかかわらず、なぜか今になってそれを問い詰められることになるなど、誰が想像できただろうか。
「それで? いったいどんな娘だったんだい?」
ほらほら素直に吐いてしまえと、まるで私の淡い思い出を酒の肴にするかのように赤ワインを口に運びながら、そう問いかけてくるユゲット。
「場合によっては、これで君の婚約者が正式に決定する可能性もあると思うのだけれど」
それに対して、若干現実的な展開を口にするオーギュスタン殿下のサファイアのようなロイヤルブルーの瞳は、酔っているとは思えないほど真剣な眼差しをしていた。
そんな二人の対照的な様子に、さてどうしたものかと思案することしばし。
「……残念ですが、少なくとも私の婚約者候補リストの中に名前が載っている令嬢ではありませんよ」
あえて核心は突かず、わざとぼかした回答を私は口にした。というのも、ここで下手に彼女の名前を出して迷惑をかけたくなかったからだ。
せっかく四年間、私のせいで煩わしい思いをさせるようなことはせずに済んでいたのに、学園を卒業した今になってそんなことになってしまっては、あの頃の私の苦労が水の泡になってしまう。それだけはどうしても避けたかった。
そして、もう一つ。こう答えておけば、少なくとも殿下はこれ以上話題を広げようとはなさらないだろうという打算的な考えもあってのことだった。
「そう、なのか……。それならば、これ以上知ったところで意味はないのかもしれないね……」
案の定、殿下はそう呟くように言葉を落として、興味津々とばかりに乗り出していた身を引く。
(あぁ、やはり殿下は理解してくださった。これであとはユゲットだけだ)
そう安堵して、さて彼女にはどう説明して納得してもらおうかと考え始めた私だったのだが、この直後。その読みは大変甘かったのだという事実を、嫌というほど思い知らされることになる。
というのも――。
「しかし、それはそれ、これはこれ! フェルナンの心を射止めたのがどこの令嬢なのかだけは、やはりどうしても気になってしまうからね。そもそも名前を知ったところで、口外しないのであれば問題ないとは思わないかい?」
「!?」
まさか、殿下の口からそんな言葉が飛び出してくるとは思ってもみなかった私は本気で驚いて、思わずその麗しいお顔を凝視してしまう。
譲る気のなさそうな殿下と、信じられない表情でそれを見つめる私という構図。それにユゲットは何思ったのか、なぜか一人とても楽しそうな笑みを浮かべながらグラスを傾ける様子が、私の視界の端に映っていたのだった。




