7.淡い想い
どれだけそうしていたのかは定かではないが、書かれている文字より手前の虚空を見つめながら何もしないという贅沢な時間の使い方をしていた私の耳に、それは突然聞こえてきた。
「ブランシェ伯爵令嬢」
珍しく図書室の男性職員が、声を潜めながら誰かの名前を呼んでいたのだ。こんな、誰もいないような場所で。
だが疑問に思った私の予想に反して、先ほどまで利用者など一人もいなかったはずのこの読書スペースから、それに応える声が聞こえてきた。
「はい」
たった、ひと言。ただそれだけの返答だったというのに、私の耳には鮮明にその声が届いていた。それは紛れもなく、あの鈴を転がすような耳に心地の良い声だったのだ。
咄嗟に顔を上げそうになった私は、けれど寸前で思いとどまって視線だけをそちらへと向ける。その美しい横顔とスノーホワイトの髪は、その声の主が間違いなくいつもの彼女のものであったことを示していて。
「ご予約いただいておりました下巻が先ほど返却されましたので、こちらにお持ちいたしました。どうぞ」
「まぁっ。ありがとうございますっ」
差し出された本を受け取るために立ち上がった彼女は、それはそれは嬉しそうな笑みを浮かべていた。
だが、その反面。私の心は、重く沈む。
「また何かありましたら、お気軽にお声がけくださいね」
「はい。ありがとうございます」
嬉しそうに応えている彼女の瞳は、以前よりもキラキラと輝いて見えて。なぜそれを向けられているのが私ではない男なのだろうかと、悔しさから思わず両手を強く握る。せっかく彼女の名前が判明しそうだというのに、喜びよりも別の感情が勝ってしまった私の心の内は、一向に晴れる気配がない。
そしてこの時同時に、私は気が付いてしまったのだ。半年もの間彼女を見つめ続けてきた、その本当の理由に。
(……困った。まさか、婚約者候補となっている女性以外に想いを寄せる日が来るなど……)
そんなこと想像もしていなかった私は、この感情をどう受け止め今後どうしていくべきなのかも見当がつかない。
だが一つだけ分かっているのは、これからもむやみに彼女に近づくべきではないということ。そしてだからこそ、これまで決して彼女について誰かに調べさせなかったことだけは、己の行動の中で唯一褒めてやりたいとも思った。
(噂になって迷惑をかけてはいけないと考えてのことだったが)
まさかそのおかげで、私が彼女に特別な感情を抱いていることを今のところ誰にも悟られずにすんでいるなどと、あの時の私には予想すらできていなかった。
もしもあの時点で、私が功を焦り我が家の使用人に彼女のことを調べさせていたら、きっと今頃は父上にもこの事実が知られていたことだろう。そうなれば確実に彼女に迷惑をかけてしまっていたのは、まず間違いない。
そう考えると、学園内のみであれば使用人の随伴は原則免除とされている規則の在り方は、今の私にとって大変ありがたいものだったともいえるだろう。あるいは、都合がいいとも言い換えられるか。
いずれにせよ、せめて学園に通っている間だけは家や派閥に縛られることなく、自由に大勢と交流をしてほしいという開校当時の願いは、ある意味で叶えられているのかもしれない。何代も前の国王陛下をはじめとする、学園の建設決定に携わった全ての方々が望んだ姿が今ここにあるのだから、大変喜んでくださっていることだろう。
(とはいえ、だ)
彼女に向けていた感情の真実に気が付いたところで、私にできることなど何一つとして存在していない事実に変わりはない。むしろ、だからこそ彼女には今後も積極的に関わらないよう、より一層気を付けるべきなのだ。
人生で初めて抱いた淡い想いを簡単になかったことにはできないだろうし、おそらく忘れるにもなかなか難しいことだろう。なぜかそれだけは不思議と理解できてしまっている私は、視線の先でエメラルドグリーンの瞳を輝かせながら真剣な表情で先ほど受け取った書籍に目を通している彼女の姿を眺めつつ、一人心に誓う。
(決して誰にもこの想いは悟られぬよう、必ず隠し通そう)
彼女に想いを告げるつもりはない。そんな資格など私には存在していないし、私自身もアマドゥール公爵家の嫡男としての責任がある。それを放り出し、さらには彼女の幸せを壊してまで手に入れたいなどとは思わない。
それは決して、彼女に対する想いの強さがその程度のものというわけではなく。貴族として生まれた以上、己の果たす役割は全うすべきなのだと理解しているからこその選択だ。
(だから、せめて……)
オーギュスタン殿下と共に帝国へと留学するまでの間だけ、こうして時折彼女の姿を眺めることだけは許してほしい。声をかけようとも、私のことを認知してもらおうとも思わない。そんなことは願わないと、神に誓うから。
(……あぁ、でも)
せっかく先ほど彼女の家名が判明したのだから、私が個人的に調べることくらいは誰に咎められるようなこともないだろう。仮に神にそのつもりがなかったとすれば、こんな偶然にも彼女の情報を知り得ることなど、私にはできなかったはずなのだから。
(ブランシェ伯爵令嬢、か)
ブランシェ伯爵領といえば、デュロワ王国の中でも冬はかなり雪深くなる領地だったと記憶している。そしてだからこそ、あの日彼女は寒い地方でも育つ植物を調べていたのかと、ようやく合点がいった。
(まずは貴族名鑑をもう一度確認してみることから、だろうな)
己の予想していた通りの家格の出身だったことに心の中だけで笑みを浮かべながら、私は一度席を立つ。
偽装のために適当な本棚から抜いてきた一冊だけを手に持ち、それを元の場所にしっかりと戻してから、私は最新の貴族名鑑が置かれている棚へと足を向けたのだった。




