5.一瞬の出来事
真剣な表情で本と向き合い、次から次へとめくられていくそのページ。明らかに早いそれは読書慣れしている証拠なのだろうが、私が釘付けになっていたのはそこではなく、その美しい横顔にだった。
客観的に見れば彼女の顔立ちは、かわいらしいと言われる範疇なのだろう。だが私にとっては顔の造形が美しいかどうかというよりも、一つのものに真っ直ぐに向き合うその姿勢と視線、そして表情こそが美しいと感じられるものなのだ。
彼女の名前も年齢も分からないままだが、私が知っている令嬢の中でこんなにも何かに真剣に向き合っている姿というのは一度も見たことがなかったので、あまりにも新鮮で目が離せなくなる。
(いったい、どこの令嬢なのだろう)
まだ十二歳の私は夜会になど当然参加したこともなく、時折王家の開くガーデンパーティーなどに呼ばれるくらいでしか他家との交流はない。だが彼女も私とそう変わらない年頃に見えるというのに、そういった場所で一度も目にしたことがないという事実から推測するに、おそらく基本的に王都で暮らしている公爵家や侯爵家の出身ではないのだろう。高位貴族の令嬢でありながら王家からの招待に応じることができないような人物であれば、こうして学園に通うことも不可能なはずだからだ。特にあれほど体が細い理由が病気であったとすれば、なおさら。
しかし彼女は今ここにいるのだから、そうではないのだろう。
高位貴族の場合はその地位に見合った役職が与えられていることが基本のため、王都に屋敷を構え当主はそこに住んでいることがほとんどとなる。そういった地位にある家に生まれた子供たちは両親が先々のことを考え、幼い頃から親が参加する昼間の社交に連れ出されるのが一般的なのだが、反面特に役職を持たない家の子供たちの場合は学園に入学するまで、基本的に領地から出ることはないのだという。
また伯爵家から下の家格の当主の場合も、そもそも普段から領地経営のため地方に滞在していることが多く、王都に赴くのは必要最低限かつ子供が成人していない場合は夫人のみを伴うことがほとんどなのだとか。
つまり、アマドゥール公爵家の嫡男である私が知らない令嬢という時点で、すぐに頭に浮かんでくるような家名は全て除外できるのだ。
余談ではあるが、外交を主に担当するアマドゥール公爵家の人間は幼い頃から大勢の人物と顔を合わせる機会が多いためか、代々人の顔と名前を覚えるのが大の得意である。そのため一度会ったことのある人物であればすぐに見分けがつくという、ちょっとした特技を持ち合わせているのだ。
そしてそれに付随してなのか、他者との会話内容や詳しい容姿に関しても人より覚えていられる量が多いようで、今まで他家との交流で話題に困ったことなどは一度もなかった。
そして、今。その特技を生かし、これまで蓄えてきた知識の中からスノーホワイトの髪色やエメラルドグリーンの瞳を持つ貴族がいなかっただろうかと必死に思い出そうとしているのだが、かなり特徴的であるにもかかわらず該当する夫婦に一切覚えがないということは、令嬢の家族にすら一度も会ったことがないのではないのかと思い始めていた。
(貴族名鑑を読めば、あるいは分かるのかもしれない)
学園の図書室ならば、最新版が置いてある可能性は高いだろう。そう考えた私は手元の本を一度閉じて、彼女に意識を向けつつどのあたりの本棚であれば置いてあるだろうかと思考を巡らせる。
と、その瞬間。
(あ……)
最後のページを読み終えたらしい彼女が満足気に本を閉じ、小さく息をつく。欲しい情報を得られたのか、その口元はほんのわずかに笑みを浮かべているようにも見えた。
そのままその本を持って立ち上がり、何かを探すようにあたりを見回し始めたところで、ふとその理由に思い至った私は急いで手元の本を再び開いて視線を落とす。まるで、内容を吟味しているかのように見せかけて。
最後まで読み終わったのならば、あとは元の本棚に戻すだけでいいはずだ。だがそれをせずに彼女が周囲に目を向けるなど、理由はただ一つ。
「お待たせいたしました」
私の姿を見つけて、先ほどと同じように小声で話しかけてくれた彼女の鈴を転がすような声が聞こえた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
そう。私が本を差し出した時、確かに彼女にお願いをしていたのだ。読み終えた時に姿を見かけたら声をかけてほしい、と。だから彼女は律義にも私がまだ近くにいるかもしれないと周囲を探して、こうして声をかけてくれたということになる。
「ありがとうございます」
差し出された本を受け取って笑顔を浮かべてみせれば、彼女もふんわりと微笑み返してくれる。それが嬉しくて、先ほどもう一度会話できるのではないかと期待して願いを口にしておいて正解だったと、そんなことを考えつつ。同時にこれ以上関わりすぎてあまり人目についてはいけないという冷静さも頭の片隅にあり、さてここからどうしようかと思案したその瞬間。
「では、失礼いたします」
「っ……」
両手でスカートの裾をつまんで小さくお辞儀をしてみせた彼女は、そのまますぐに本棚の向こう側へと消えてしまう。私が声をかける暇もないほどの、まさに一瞬の出来事だった。




