6.名前で呼んで
だがフェルナンの話は、そこで終わりではなく。驚きに固まるソフィアに追い打ちをかけるように、さらに衝撃発言を続ける。
「そしてできれば、私に君の名前を呼ぶ許可をもらえると嬉しい。もちろん私のこともフェルナンと、名前で呼んでおくれ」
「あ、え……」
それはそれはいい笑顔を向けられて、ソフィアはどう答えるべきかすぐには思いつかず、言葉にならない声ばかりが口をついて出てくる。だがその反応は、決しておかしなものではない。むしろ先ほどの「愛しい人」発言からのこれでは、まるでそれを肯定しているかのようにも思えてしまって、首を縦にも横にも振りづらいだろう。
正直なところソフィアとしては、フェルナンにどう呼ばれようとかまわないのだ。彼女にとって彼は依頼主であり、領地の借金や今後を救ってくれる唯一の希望なのだから。
だがソフィア側が名前を呼ぶとなると、それはまた別問題で。いくら彼女自身が自分は結婚できなくてもいいと考えていたとしても、フェルナンはそうではない。むしろ今後のことを考えれば、あまり親し気に名前を呼ぶようなことは控えたほうがよいのではないかとすら思ってしまうのだが。どうやら彼の考えとしては、そうでもなかったようで。
「魔法のせいとはいえ、やはり愛をささやくのであれば名前を呼び合っていたほうが自然だろう? それに私はそのほうが、君に愛を伝えやすい。どうだろうか?」
「え、っと……」
依頼主からそう言われてしまえば、ソフィアに断ることはできない。実際、ここに自分が呼ばれたのがその魔法を解くことができる可能性があるからという理由である以上、不本意であったとしても必要なことであるならば、やりやすいほうがいいのは事実だろうとソフィアは考える。
そもそも基本的には屋敷の中だけでの仕事であり、仕事場にまでついていくことはないと事前の手紙で明記されていた。であれば、この状況を誰かに見聞きされることもないはずで。さらに依頼者本人がそう望んでいるのであれば、それを叶えることも仕事内容の一つになってくるかもしれないと思い直すと。
「分かりました。では私は今後、フェルナン様とお呼びいたしますね」
覚悟を決めて、ソフィアは鮮やかなエメラルドグリーンの瞳をまっすぐにフェルナンに向けながら、そう告げたのだった。
「嬉しいよ。ありがとう、ソフィア」
それに返されるのは、とろけるような笑顔。魔法の効力がここにも発揮されているのか、その雰囲気すらどこか甘く感じられたのはきっと、ソフィアの気のせいではなかったのだろう。
と、ここでフェルナンがテーブルの上のカップを手に取ったことで、いつの間にか彼の前にも紅茶が用意されていたことにようやく気付く。話に夢中だったからなのか、それとも色々と予想外の内容ばかりだったからなのかは分からないが、どうやらそんな変化を見落としてしまうくらいには衝撃的だったのだと、ソフィアは改めて認識した。と同時に、彼に倣って自分も同じようにカップを口に運ぶ。その瞬間、今まで体験したことのない華やかな香りが鼻腔を通り過ぎていき、それは紅茶を飲み込んだあとですらしっかりと香りを残していって。思わずほぅとため息をつく。
「あぁ。それと知っているとは思うけれど、父上は現在仕事で国外に出ていて、帰ってくるのは数か月後になる。母上と妹もすでに領地で避暑中だし、私も日中は普段出かけてしまうので、その間は好きに過ごしてくれいていいよ。そのほうがソフィアも気が楽だろう?」
「それは……。確かに、そうかもしれません。お気遣いありがとうございます」
実際フェルナンの言う通り、アマドゥール公爵や他の公爵家の人々が屋敷の中にいたら常に気を張っていなければならず、結果緊張で倒れていたかもしれない。ソフィア自身の自己判断では、自分は比較的体は丈夫で神経も図太いほうだとは思っているが、いかんせん貧乏伯爵であるため高位貴族に対する免疫が一切ついておらず、結果そこは多少の弱点かもしれないと考えていたのだ。
反対に、今ここでソフィアがフェルナンに対して極度に緊張せずにいられるのは、ただ単に事前に手紙でのやり取りをしていたからということと、あくまで自分は雇われた人間としてこの場にいて、かつ目の前の人物が依頼主という認識だからであり。仮にこれが万が一にも学園時代であったり夜会会場であったりすれば、それはもう限界ギリギリまで緊張していたことだろう。
そういう意味では、こういった情報を事前に教えてもらえるのは、ソフィアとしても非常にありがたかった。
「それと、もう一つ。これからソフィアにこの屋敷で過ごしてもらうにあたって、不自由がないように専属の侍女を用意したんだよ」
「え!?」
だが直後に笑顔で伝えられた言葉に、違う意味で緊張してしまう。
そもそも貧乏伯爵家出身のソフィアに、専属侍女というものは存在していなかった。むしろ必要最低限の使用人だけを雇って、できることはなるべく自分たちでやるというのが、ブランシェ伯爵家では当然のことだったのだ。
「ウラリーを呼んできてくれるか?」
「かしこまりました」
だがフェルナンは、ソフィアの驚きの理由を知ってか知らずか。部屋の中に控えていた男性使用人にそう伝えると、彼が出て行く姿を見ることなく。
「それじゃあ彼女が到着するまでに、ソフィアに頼みたいことの詳細を伝えておこうか」
どこか楽しげにも見える笑顔で、そう告げてきたのだった。




