11.魔法の効力
メインディッシュの際に提供された赤ワインの残りと、新たなグラスに注がれた白ワイン。どちらも楽しめるようにという配慮なのか、チーズの種類はフレッシュなものからしっかりと熟成されたものまで、実に様々だ。
その一つを、同じ皿に乗せられていたクラッカーに乗せて口へと運び、口の中に広がるミルクのコクや独特の風味を楽しんでから、赤白好きなほうのワインを口に含むことでマリアージュを楽しむという、ある種最も優雅な時間でもあるのだが。先ほどからの流れのまま、本来であれば会話を楽しむべきこの時間まで、なぜか無言のまま。
(ど、どうしましょう……)
若干の気まずさを感じつつも、口の中でフレッシュなチーズと甘めの白ワインのマリアージュを楽しんでいたソフィアは、どうしてこんな状況になっているのかを一切理解していなかった。
とはいえ、それも当然のことだろう。なにせ先ほどまでの自分が、今までにないほどにフェルナンのことをどれだけ褒めたたえていたのか、全く自覚がなかったのだから。しかもブランシェ伯爵領の領民たちにまで、そのことが伝わっていると口にしていたのだ。
確かにソフィアが領地を離れる以上、どんなに詳細を伏せたとしてもある程度の人物にまでは知られてしまうであろうことは、フェルナンも覚悟していた。だがまさか領民にまで知られているとは思ってもみなかった彼からすれば予想外すぎる展開だったことは、普通の貴族同士であったとすれば想像に難くないだろう。しかし、他の領地に比べるとどうしても領主一家と領民たちとの距離が近いソフィアからすれば、そういった普通の貴族としての感性が抜け落ちてしまっているため、最後までその理由にに気付くことはなかった。
そのため、結局は。
「ところで、話は戻るけれど。あれ以来、ソフィアは部屋の中に本を持ち込むことはなくなったのかな?」
ようやく衝撃から立ち直ったフェルナンが、まるで何事もなかったかのように声をかけてくるまで、無言の時間が続いてしまっていたのだった。
「あ、はい。目の前に本があると我慢ができなくなりそうだったので、図書室以外の場所では読まないことに決めました」
だが逆に、先ほどまでの雰囲気を一切引きずることなく投げかけられたその言葉のおかげで、ソフィアも変に意識せず普段通りに返すことができたのは事実で。けれど、だからこそ油断してしまっていたとも言えるのかもしれない。
「睡眠や食事の時間を忘れないのならば、本を持ち出して別の部屋で読むことは別段問題ないと思うよ?」
「いいえ、むしろそこはしっかりと分けて考えるべきだと学習しましたから。図書室の本は持ち出さずに、その場で読める分だけにしています」
キリリとした表情でそう返すソフィアからすれば、今この時すら普段と変わらぬ夕食の席。それを疑う必要など、彼女にはどこにもなかったのだから。
「この間購入した書籍たちは? あれらも図書室に持ち込んで読んでいるのかい?」
「いえ、そちらは談話室を使わせていただいています」
「そう、それならよかった。私のせいで図書室にばかりこもらせてしまっていたらどうしようかと、それはそれで心配していたんだよ」
「お天気のいい日には時折お庭を散策させていただくこともあるので、本を読んでばかりというわけでもないのですよ?」
本気でホッとしているような表情のフェルナンに、定期的に体を動かすこともしているので問題ないのだと伝えるソフィアの表情は、至って普段通り。ただし、本狂いのはずの彼女がわざわざ時間を割いてまで体を動かしている理由が、ブランシェ伯爵領へと戻った時は庭仕事という名の農業を再開する予定なので、その際に体力が落ちて動けなくなってしまわないようにという意図からだということは、わざわざ言葉にして伝えるようなことはなかった。
しかしこの直後、まさかこの雰囲気が一変するとは思ってもみなかったソフィアは。
「屋敷の中で、ソフィアが快適に過ごせているのならよかった。それに私は、真剣に本と向き合っている君の表情を見ているのが好きなんだ。だから、図書室よりも明るい場所でそれを見つめていられる日が今後あるかもしれないと考えると、早く帰ってくるのがとても楽しみになってくるね」
「っ……!!」
唐突に魔法の効力をこれでもかと発揮し始めたフェルナンの言葉も視線も、真正面から受ける形になってしまい。ここまで完全に油断しきっていた彼女は、麗しい侯爵様から向けられる砂糖菓子のように甘い愛に、思わず硬直してしまった。
だが、一度火が着いたフェルナンはソフィアのそんな様子などお構いなしに、愛おしさを隠そうともせず優しい眼差しを彼女へと向けたまま。ただただ心の赴くままに、言葉を紡ぎ続ける。
「ソフィアはきっと知らないだろうけれど、こうして毎日一緒に食事の席に着けることも、私にとっては望外の幸せなんだ。食事中は君の顔をずっと眺めていられるし、言葉を交わす時間もたっぷりあるからね」
「っ……」
魔法のせいだと頭では理解していても、真っ直ぐに見つめられながらそこまでハッキリと言葉にされてしまうと、さすがのソフィアでも受け流すことも受け止めることもできず。ただ羞恥から顔を赤くして、下を向いてしまうことしかできない。
けれど、そんな彼女の仕草さえ愛おしいとばかりに、フェルナンはさらに饒舌になる。
「朝の挨拶を交わして、ソフィアに見送られながら出かけて、帰ってくればすぐに出迎えてくれて。朝夕は共に食事の席に着き、他愛もない会話を楽しみながら、最後には君を部屋まで送り届けて寝る前の挨拶を交わす。そんな風に夫婦か婚約者にでもなったかのような日々が、とても愛おしくて大切で。ソフィアと過ごす時間全てが、私にとっては何よりの癒しなんだよ」
「~~~~っ」
耳元で愛をささやかれることには、随分と慣れてきていたソフィアだったが。止める者がいないこの状況下で、もはやささやきとは言えないほどの声量でここまで真っ直ぐな言葉を向けられることには、さすがにまだ慣れてはいない。そのせいでどう対応すればいいのかも分からず、最終的には両手で顔を覆うことしかできなくなってしまうのだ。
偽物の愛情だと理解していることと、ある種のときめきを覚えてしまうのは別物だということを、最近ソフィアは理解し始めてきていて。だからこそ、これはもう仕方がないことなのだと溺れそうなほどの愛を向けられながら、それでも夫婦だとか婚約者だとかという部分にだけは否定しておかなければと、頭の中のどこか冷静な部分では考えているものの。
(……無理よっ!)
真っ赤になってしまっているであろう顔では、説得力も何もあったものではない。
そうしてソフィアが顔を上げられずにいる間に、話題はさらに進んでしまっていて。結局、それらを否定するための言葉を紡ぐタイミングを、彼女は完全に見失っていたのだった。




