16.驚異的な集中力
目的の場所に到着してからのソフィアは目の輝きはそのままに、けれど一度本のページを開き始めると夢中になって読み進めていく。それは彼女にとって何よりも至福の時であり、同時に知識の吸収のための大切な時間だったのだが。その様子をフェルナンがどんな表情で見つめているのかなど、一切知らぬままで。
というよりも一度本に夢中になってしまうと、完全に外界との意識を切り離しているかのように興味を失ってしまうのだ。それは学園時代から変わることのない部分でもあり、ソフィアがその驚異的な集中力を最も発揮する瞬間でもあった。
彼女の興味を引きそうな本棚へと案内したフェルナンは、初めこそ気を遣わせてはいけないと考えたのか自身も一冊の本を手にして、ソフィアの向かいの席に座っていたのだけれど。その特技とも言えるような集中力を見せ始めた姿を確認してからは、彼女とは対照的に本のページをめくる手が完全に止まってしまっていた。それ以前にそのアメシストの瞳は、そもそも手元にすら向いていない。
「本当に、君はすごいよ」
誰にも聞こえないほど小さな声量と、口の中だけでフェルナンが呟いた言葉は、当然のようにソフィアの耳には届いていなかった。
残念ながら、たとえこれが普段と同じ声量であったとしても、きっとこの状態のソフィアには一切聞こえていなかったことだろう。彼女に悪気があるわけではなく、そういうものなのだ。
ちなみにソフィアの左側には、まだ読んでいない本が何冊も積まれていて。反対の右側にも同じように、今度はすでに読み終わった本が数冊重ねられているのだが。これは本棚の間を歩いているうちに、あれもこれもと気になった本を片っ端から手に取っていくソフィアを見かねて、途中でフェルナンが大部分を強引に引き受けた結果だった。とはいえそれを見てようやく我に返ったのか「一度全てを読み終えてからにします」と、珍しく彼女のほうが自分から口にしたのだが。フェルナンとしては純粋に好意で手伝っただけだったので、「まだまだ持てるよ?」と一応伝えたものの、結局はソフィアに断られてしまったという経緯がある。とはいえその時点でかなりの冊数になっていたので、この状態が生まれているわけだが。
そんな本の山たちが、次から次へと反対側に積まれていく光景を眺めながら。フェルナンはただまっすぐに、けれどとても優しい表情のまま、飽きることなくずっとソフィアの顔を眺めているのだった。
そうして、ソフィアの左側に置かれていた最後の一冊が、いつの間にか出来上がっていた右側の山の一番上に置かれると。
「それじゃあ、私はこの本たちを戻してくるから。ソフィアは新しい本を持っておいで」
「え!?」
まるで当然のようにその山たちを持ち上げて、フェルナンが立ち上がってしまう。対して、ようやく本の知識の中から現実世界に戻ってきたばかりのソフィアは、いきなりのことに対応できないまま声をあげてしまった。
「しー」
「っ!!」
けれどその声量に、片手に本の山を持ったままのフェルナンが唇に手を当てて、注意を促してくるから。思わず両手で口を押えて、ソフィアは何度も頷いてしまう。
「そう、いい子だ。それじゃあ、またあとで」
そんな彼女の様子を見て、どこか柔らかい笑みを浮かべたフェルナンは、そのまま本棚の向こうへと消えていってしまって。ソフィアはその姿が見えなくなってから、ようやく思い出す。
(って、だからその本は、私が持ち出したものなのに……!)
本来であれば、本棚から抜いた自分が元の場所に戻すべきだと思っていたものを、全て彼が持っていってしまったのだ。ありがたいと思うよりも先に、申し訳なくなってしまう。
そもそも王立図書館に用があったのはソフィアだけで、本棚の場所さえ分かってしまえばフェルナンは好きに行動していいはずだったのに。なぜかずっと側にいてくれたのだと、それすら今さら気付いて、さらに申し訳なさが増してしまったソフィアである。
とはいえ、すでにいなくなってしまったのならば仕方がない。新しい本を持っておいでと本人が言っていたのだから、ここで何もせずに待っているのも失礼だろうとソフィアは考えて、言われた通りに次の本を探しに席を立ったのだった。
そんなことが、何度も繰り返された後。
「ソフィア」
後ろから声をかけられるのと同時に、両肩に手を置いた状態で軽く体を揺すられる。そこでハッとしたソフィアは。
「そろそろ、時間だよ」
「っ!?」
吐息がかかるほど耳元に近い場所にフェルナンがいるという事実と、その言葉の内容の両方に驚いて。思わず体をびくりと震わせてしまう。
けれどフェルナンは、それに気付いているのかいないのか。それとも今はそんなことは関係ない、ということなのか。同じ距離感で、普段よりも低い声でささやいてくる。
「ほら、ソフィア。もう行くよ」
「っ……」
先ほどまで一切気が付いていなかったのに、意識をした途端急に口から変な声が出そうになってしまったソフィアは、急いで本から片手を放して口元を覆うと、こくこくと頷いてみせた。しっかりと聞こえているという、その意思表示も込めて。
「続きはまた、今度にしようね」
「っ、は……はい」
けれど静かな図書館の中だからなのか、その距離感もささやき声も変えることなく、フェルナンがそう言葉を続けたので。今度は言葉でも同意してみせると、すぐ真横でふっと微笑む気配がした。
「それじゃあ、私は本を戻してくるから。少し待っていて」
そして、なぜかフェルナンは今日一日ずっとそうしてくれていたように、全ての本を一人で持ち上げて。最後にソフィアの手の中に残っていた本を抜き取ると、本棚の向こうへと姿を消してしまう。
今日何度目か分からないその後ろ姿を見つめながら、ソフィアはつい先ほどまで彼がささやきを吹き込んでいた、己の耳を手で押さえることしかできないまま。フェルナンが戻ってくるまで、立ち上がることすらできなかったのだった。




