8.究極の二択
かくしてソフィアのここ数日の行いは、全てフェルナンの耳へと届くこととなり。その結果、何が起きたのかというと。
「フェ、フェルナン様!?」
帰宅して早々、いい笑顔を浮かべて近づいてきたフェルナンに、どうしたのかと疑問を持つ暇さえ与えられず。いきなり抱き上げられてしまったソフィアは、突然の出来事にただただ焦るばかりだった。
「ど、どうなさったのですか!?」
「ただいま、ソフィア。君に会えない時間が長すぎて、とても寂しかったよ」
「お、お帰りなさいませ……。って、そうではないのです! 突然どうなさったのですかと――」
「聞いたよ、ソフィア。君、ここ数日まともに寝ていないそうだね」
「っ!?」
その表情は相変わらず笑みを形作っているにもかかわらず、なぜか言葉にはトゲが含まれているようにも聞こえたのは、ソフィアがそれを後ろめたいことだと認識しているからなのか。それとも単純に、そういう意図を込めてフェルナンが口にしたからなのか。あるいは、そのどちらもなのか。
「勉強熱心なのはソフィアのいいところだと私も思うけれど、それで体を壊してしまったら元も子もないからね。寝室まで運んであげるから、今日は夕食の時間まで仮眠をとること」
だがそれを確かめるよりも先に、ソフィアにとって衝撃的なことを口にしながら、フェルナンは当然のように歩きだしてしまう。役職としては文官であるにもかかわらず、なぜか女性一人を軽々と抱き上げた状態で、悠々(ゆうゆう)と屋敷の中を歩いているものだから。これにはさすがのソフィアも盛大に焦ってしまう。
「つ、つい本に夢中になってしまっていただけで、今日こそはしっかりと寝ますから……! フェルナン様のお手を煩わせる必要など、どこにもございません……!」
このままいけば本当に寝室の、それもベッドまで運ばれてしまいそうで。だから下ろしてほしいのだという意味も込めて、必死にそう言い募るソフィアだが、フェルナンの笑顔が崩れることはなく。むしろ先ほどよりもずっと近い位置からアメシストの瞳がのぞき込んでくるものだから、違う意味でも心臓に悪いと、この時初めて彼女はその顔の良さを恨めしく思ったのだった。
「すまないけれど、それは信用できないんだ。君はきっと夢中になってしまえば、簡単に時間を忘れてしまいそうだからね」
「うっ……」
直接見られたわけではないはずなのに、あまりにもその言葉は的確すぎて。事実今まで、ソフィアは何度時間を忘れて読書に没頭してきたのかも覚えていない。そう、覚えていられないほど、特に実家では完全に寝食を忘れるようなことが多発していたのだから。
だが、今ここで諦めるわけにはいかない。誰にも知られることはないだろうが、それでも夫どころか婚約者ですらない未婚の男性に、しかも寝室まで運ばれるというのはあまりにも羞恥がすぎるというもの。さすがのソフィアでも、貴族令嬢として最低限の感覚は持ち合わせているのだ。
「お、お約束しますから……! 必ず! 今日こそは必ず! お部屋に本を持ち込むこともしませんし、しっかりと睡眠をとることをお約束します! ですから、どうか……!」
「それなら、今から談話室に向かおうか。せめてそこで少しでも仮眠をとること。もちろん、夜もしっかり眠るのは最低条件だよ」
「そ、それくらいでしたら――」
「ただし、その場合は私の膝の上で、だけどね」
だが、必死なソフィアの言葉に返ってきた言葉は、ある意味で無情でもあり。そしてある意味では、究極の二択を迫るようなものだった。
「え……?」
一瞬聞き間違いかと思ったソフィアは、その鮮やかなエメラルドグリーンの瞳を数回瞬かせる。だが残念ながら、それは聞き間違いでもなんでもなく。フェルナンは他の女性が見ればとろけてしまいそうな、それはそれは甘い笑顔を向けて、さらに言葉を重ねる。
「ソフィア、私はね。君がしっかりと眠っているという、その確証が欲しいんだ」
「……っ!?」
驚きで、もはや声も出ないソフィアだったが。笑顔とは裏腹にそれで許されるほど、この状況もフェルナンも甘くはなかった。
ソフィアを抱き上げたまま屋敷の中を歩いていたフェルナンが、ふと立ち止まって。そのままそっと、ソフィアの耳元に自らの唇を寄せる。
「さぁ選んで、ソフィア。私にベッドまで運ばれるか、それとも私の腕の中で眠るか。二つに一つだよ」
「っ!!」
表情と同じ甘い声でささやかれた言葉は、今まで聞かされてきたどんな愛のささやきよりもソフィアに強い衝撃を与え、同時に耳元にかかる吐息を初めて意識させた言葉でもあり。そうして今、近すぎる距離にあの綺麗な顔があるのだと認識した彼女の視界は、満月に例えられる優しいクリームイエローの髪一色に染まっていたのだった。




