4.朝の約束
それからは興味のある本を黙々と読み進めていって、ウラリーも驚くほどの集中力を見せていたソフィアだったのだが。
「あの……ソフィア様」
「……っ、はい!」
「昼食のお時間になりますので、そろそろ一度食堂へ――」
「え!? あっ、もうそんなに時間が経っていたの……!?」
ウラリーが自分を呼ぶ声に反応して急いで顔を上げたソフィアは、告げられた言葉に驚いたような表情で問いかける。それにウラリーは使用人らしく一度頷いてから、ソフィアが開いたまま手に持っている本にそっと目を向けた。
「お食事のあと、またこちらにお戻りになられますか? もしくは、お部屋に本を運ばせることも可能ですが。いかがなさいますか?」
まだ半分ほどページが残っているからこその、確認だった。これが例えば、読み終わった直後や次の本へと手を伸ばす直前であれば、また違ったのかもしれない。
いずれにせよこの短時間で、ソフィア一人で好きなだけ本に向かわせるのは危険だ、とウラリーはしっかりと判断したのだが。それは決して間違いではなく、仮に今この場にソフィアだけだった場合、昼食の時間を過ぎていたとしても気が付くことは確実になかっただろう。
「そう、ね……。まだ気になる本はたくさん残っているから、一度戻ってきてもいいかしら?」
「承知いたしました。では、そのようにいたします」
ソフィアの言葉に恭しく頭を下げるウラリーだが、同時にこの瞬間に彼女は、今後は自分がしっかりと時間を確認していかなければと心に決めていたのだった。
ウラリーから差し出された短いリボンをブックマーカーとして本に挟んでから、ソフィアは一時図書室をあとにする。時間も差し迫っていたので、一度部屋に戻るようなこともなく、このまま食堂へと直行することにしたのだが。実はまだ少しだけ、本来の屋敷の主であるアマドゥール公爵家の面々が誰もいない状態の食堂で、一人食事をとることに慣れていないという事実は。ソフィアだけの、小さな秘密だった。
とはいえ今日は、このあとにまた読書の続きができるという嬉しさから、むしろ違う意味でソワソワしてしまっていて。今までとは違い緊張することなく食事を終えると、そのまま直接図書室へと戻り。選んでもらっていた本の中から、さらに気になるジャンルをウラリーに伝えることで、より専門的な内容が書かれたものを読み進めていたのだが。さすがに一日では時間が足りず、結局数冊は部屋へと持ち帰ることにした。
選んだ本は、別の使用人が後ほど部屋に運んでくれるということだったので、そちらは全て任せることにして。フェルナンの帰宅を知らされたソフィアは今、ウラリーを伴い玄関ホールへと向かっていた。図書室への執着から、というわけでは決してないのだが。今日一日で完全にその道のりを覚えたソフィアは、すでに屋敷の中のほとんどの道を間違えることなく歩けるようになっており、おかげでウラリーに常に案内を頼むようなこともなくなっていたのだった。
「お帰りなさいませ、フェルナン様」
暑い季節とはいえ王宮へと通う必要があるフェルナンは、外出時は常にベストとジャケットという、大変キッチリとした服装をしている。仕事である以上、仕方がないことではあるのだが。それでもやはり、暑いものは暑いのだろう。そのため帰宅して早々に、毎回ジャケットを玄関ホールで脱いで男性使用人に渡しているので、知らせを受けてからソフィアの足で向かっても間に合っているのだ。
「あぁ、ソフィア。ただいま」
おかげでしっかりと業務が遂行できているので、ソフィアとしては大変ありがたくもあったのだが、同時に。
「ようやく君に会えたよ。会えない時間が長すぎて、寂しさで死んでしまうかと思った」
「っ……」
先ほど帰宅の挨拶時には、とても爽やかな笑顔を浮かべていたはずなのに。その次の瞬間には、もう耳元で熱のこもった言葉をささやくフェルナン。
そう、彼の帰宅とはすなわち、ソフィアの業務再開の合図。つまり、フェルナンから愛をささやかれる時間であることを、明確に表しているのだ。そしてこれがソフィアの仕事である以上、避けては通れない。
(魔女様は本当に、どうしてフェルナン様にこんな魔法をっ……!)
このおかしな状況に、どうしても毎回、会ったこともなければ顔すら知らない相手に、恨み言の一つでも言いたくなってしまうのだが。それをグッとこらえて、ソフィアはフェルナンへと笑顔を向ける。
「お疲れ様でございました。このあとは、少しお休みになられますか? それとも、まだどこかへお出かけになられますか?」
夕方とはいえ、日が落ちるには少し早い。そして夕食の時間もまだ先のため、この時間に帰ってきた時のフェルナンは以前、別件の用事を終わらせるためにと一度着替えて出かけたこともあった。そのため確認も込めてソフィアがそう問いかければ、彼は柔らかい表情でゆったりと首を振ってこう答える。
「いいや、今日はもう出かけないよ。それよりも、今日は夕食時までソフィアとゆっくり過ごしたいと思っているのだけれど、どうだろうか?」
「私と、ですか?」
神秘的なアメシストの瞳に優しく見つめられて、ソフィアは驚きから思わず反射的にそう返してしまっていた。というのもこの暑さの中、しかも朝から仕事に出ていて疲れているのではないのだろうかと、つい心配になってしまったからだ。
実は帰宅したばかりのフェルナンに何かに誘われたことは、今日まで一度もなかった。朝夕の食事は彼の希望もあり、基本的には食堂で共にとるようにしているのだが。逆にそれ以外の時間を共有するということは、挨拶の時間を抜けば初日以来、全くといっていいほどなかった。
だからこそ、突然のことにソフィアは驚いてしまったのだが。
「朝、約束しただろう? 帰ってきたら色々と感想を聞かせてくれる、と」
「……あ」
フェルナンに言われてようやく、そういえば、とソフィアは今さらながらに思い出す。確かに今朝、彼が出かける直前にそんな約束を交わしていたのだということを。
本に夢中になりすぎるあまり、ソフィアはその約束のことをすっかり忘れてしまっていたのだが。しかし彼女のそんな様子に、フェルナンは怒るでも呆れるでもなく。ただただ、柔らかい表情と優しい視線を向けながら。
「私はそれを楽しみに今日一日頑張って、いつもより早く仕事を終わらせてきたんだよ。だからそんな私に、ご褒美をくれないかい?」
そんな風にソフィアに向けて、甘く言葉を紡ぐのだった。




