8.もう心残りはございません
並み居る貴族たちの大きな拍手の中、二人は組んでいた腕を惜しみながらほどき、一歩下がってお辞儀をする。
「殿下。素晴らしいひとときを、ありがとうございました。
もう心残りはございません」
顔を上げたジュスティーヌは、妙なことを口走った。
まるで、俗世を離れる挨拶のようだ。
あれほど鮮やかに笑っていたジュスティーヌの顔が、せつなげに歪んでいる。
「なにを言っているんだ、ジュスティーヌ」
ぽかんとアルフォンスは聞き返した。
ジュスティーヌは、ためらいがちに唇を開く。
「……いずれ、わたくしは神殿に入ります。
父にも許しを得ました」
「は!? なんでそんなことを!?」
公爵夫人が早くに亡くなってしまい、公爵が後添いを娶るのを拒んだため、公爵家にはジュスティーヌの兄と、ジュスティーヌ、そして養子のドニしかいない。
3人しかいない子の一人、しかも唯一の娘が神殿入りするなど常識ではありえない。
「だって、……だって。
わたくしが殿下をお支えするには、それしかないじゃありませんか」
涙で潤んだ眼で、ジュスティーヌはアルフォンスを睨む。
アルフォンスはようやく悟った。
ジュスティーヌは、アルフォンスの妃選びから自分は外れていると思っているのだ。
王家の分家であるシャラントン公爵家は、昔から宮廷政治には関わらず、常に超然と振る舞っている。
だが、次こそサン・ラザール公爵家から妃を出すべきだという声があることは、さすがに耳に入っていたに違いない。
諸々を吟味して、王家はカタリナを王太子妃に選ぶと判断した公爵は、ジュスティーヌにそう伝えた。
そして、ジュスティーヌは他の嫁入り先を探すのではなく、神殿入りを望んだ。
女神フローラを奉じる神殿は対魔獣戦を担う組織でもあり、魔力のある神官は皆、前線に立つ。
ジュスティーヌは、生涯未婚のまま、家族とも離れて戦い続ける過酷な人生を選ぶ覚悟をしていたのだ。
たとえ会えなくても、やがて来るアルフォンスの治世を遠くから支え続けるために。
自分の本命はジュスティーヌだと、これから折々示していけばいいと呑気なことを考えていたアルフォンスは慌てた。
慌てに慌てた。
そんな風に公爵家とジュスティーヌが考えていたのなら、自分の今夜の振る舞いは、カタリナを娶るのが決まっているのに、未練がましくジュスティーヌのまわりをうろうろしているとしか見えなかっただろう。
こんな哀しい決意までしていたジュスティーヌの誤解を解かなければならない。
今すぐ。
「ジュスティーヌ、それは違う。
私達の未来は、今日、ここからはじまるんだ」
アルフォンスはジュスティーヌの手を取り、必死に訴えた。
「え、どういうことですか?」
混乱しているジュスティーヌの手をもう一度ぎゅっと握りしめてから離し、一歩下がる。
その場で片膝を立てて跪き、ジュスティーヌを見上げた。
言うまでもなく、求婚のポーズだ。
ふおおおおお!?と大広間全体がどよめき、すぐに静まり返った。
王家も公爵家も貴族たちも、皆が固唾を飲んで見守る。
「ジュスティーヌ、私の心は生涯君のものだ。
どうか、私と結婚してほしい」
アルフォンスは、ジュスティーヌに結婚を乞うた。
は!?とジュスティーヌの眼が大きく見開かれ、瞬時に耳まで赤く染まる。
両手で口元を覆ったまま、ジュスティーヌは固まった。
アルフォンスは言ってしまってから気づいた。
本来なら、ここで指輪など婚約の証を差し出すべきなのに、なにも持っていない。
やってもうたと気が遠くなりかかったが、左胸にカトレアを挿していたのをギリギリで思い出した。
色は淡い紫。
無意識に選んだ花だが、ジュスティーヌの瞳の色だ。
これしかない。
どうか受け取ってほしいと願いをこめて見上げながら、カトレアを差し出す。
「殿下……」
ジュスティーヌの頬を、はらはらと涙が伝った。
唇を強く引き結んだまま、何度も何度もジュスティーヌは頷く。
「幾久しく、おそばに置いてください」
どうにかそれだけ口にしたジュスティーヌが、わななく手でカトレアを受け取った瞬間、大広間は歓声に包まれた。