メダカの水槽
メダカって、全然仲良くないよね。
本校舎の正面玄関を入ってすぐの所にあるメダカの水槽を眺めたまま、千花はノールックでそんな言葉を放った。相変わらず掃除をサボって何をしているのかと呆れつつ、小夏はしゃがんで水槽に齧り付いているショートカットの後頭部に言葉を返す。
「サボってないで掃除しなよ。ていうか、そもそも魚に仲いいとか悪いとか無いでしょ?」
千花は熱心にガラス越しに泳ぎ回る小魚を目で追いながら言い返して来た。
「いやいや、なんかこのオレンジの奴が白い奴を追い払ったり突っかかったりしてるんだよ?」
箒を動かす手を止めて、小夏は夏服の背中に忍び寄るようにして近づくと、少し屈んでぬっと千花の右横から顔を並べる様にして水槽を覗いた。
「どれ?」
「うわっ!足音消さないでよぉ、幽霊かっ」
千花の抗議を無視して水槽を覗き込む。学校の近所の人が寄贈した色とりどりのメダカは、まるでガーベラの花びらをばら撒いたように水槽に散らばっている。
「一緒に泳ぐわけじゃないんだ」
その中で数匹いるオレンジ色のメダカの一匹が、近づいてきた別のメダカに体当たりする様に直進して、逃げた後もしばらく追いかけたりしている。
「なんか怒らせるようなことしたんじゃない?」
「いや、ないない、つか魚だよ?」
イテッ。子馬鹿にする様にヒラヒラ手を振って笑う同級生の頭頂部に軽く手刀を振り下ろした。
「仲悪いって言ったの誰よ?」
「でも、実際仲悪いじゃん?ほれ」
「いや、一方的に絡まれてるだけでしょ?」
「何やってんの?つか、掃除しろよ女子」
小夏が半分だけ振り返ると、茶髪の男子生徒が立っていた。
「誰が男子だっ!」
「おお、心の声聞こえるようになったんだ。絵里ちゃん」
「わざとちゃん付けすんな」
絵里は見た目こそ耳にピアスが並んでいるし、制服も着崩しているし、明るい茶色に染めた、耳が出るくらいの短髪に切れ長の目で睨まれると一瞬心臓がギュッとなるが、中身は几帳面で真面目で素直な女子だった。
「言いたい放題言うな。つか、お前らが見た目以上に真面目じゃないだけだろうが。何だよ色白の黒髪ロングで補習の常連って」
「偏見は良くないと思うけど?そもそも授業なんて必要ないことしか教えないんだし」
「まあまあ、二人ともしょうもないこと言ってないでメダカでも見てさ?……」
二人の女子生徒に睨まれて、千花は引き攣った笑みを浮かべたが耐え切れずメダカの水槽に視線を戻した。
「いや、戻んなよ」
「そう言えば、絵里ちゃんって理科の成績よかったよね」
「せめて今は科学とか言って欲しいな。もう高校生だし」
「メダカが仲悪い理由、知らない?」
「ん?知らんよそんなん」
でも、と不意に絵里が首に手を当てて首を回しながら言うので、千花と小夏は殴られるのではないかと身構えた。
殴るか。と拳を固めて見せてから、絵里は、前にどっかで聞いたことあるんだけど、と前置きして言う。
「メダカが小競り合い?みたいなのをしてる時って、環境がいいときらしいよ?落ち着かない場所だったりしたら、仲間同士で喧嘩してる場合じゃないから、そうやってバチバチ突っかかっていくってことは、その場所自体の環境は悪くないって」
敵に襲われる心配がないから、仲間内で無駄に揉めたりできるんじゃないの?絵里は微かに憂鬱の表情を浮かべて独り言のように言ったので、小夏は少し気になって聞きかけたが何となくやめた。能天気な声が横から流れてくる。
「へえ~、じゃあ、この水槽はいい環境なんだ」
千花に合わせるように少しわざとらしく小夏が言った。
「うちの教室みたいなもんかと思ってた」
どういう意味?と小首を傾げる絵里に、小夏が長い黒髪を靡かせながら振り返って言う。
「クラスメイトに噛みついて強いんだぞアピールする誰かさんみたいなのかと」
「普通に喧嘩売ってる?つか、誰がオラついてるって?」
「自覚はあるんだ。中学まで可愛かったのに」
「よし、シバく」
バチバチと眉間の間から火花を散らす二人に、千花は特に真剣に止めるともなく言う。
「まあまあ、そういうのは小学校で終わりにしなよ?二人とももう子供じゃないんだし」
お前が言うなっ!と声が重なるのとほぼ同時に予鈴が鳴り、結局一度も掃除に戻ることはなく、三人は教室へ戻って行った。