逆向き電車
長時間労働に疲れた男は会社から無期限の無給休暇を取らされ、誰に指示されるわけでもなく引き込まれたように逆向き電車に乗り、揺られだす。車内は満員に近いが何故が騒音に邪魔されても熟睡することができた。
揺られること3時間、ふと目を覚ますと、先ほどまでほぼ満員だった乗客は主人公を含め3人そしてワンマンの運転手のみとなっていた。車内ドア上部に設置された電光掲示板を見ると『丘上』とオレンジの文字が流れている。
どこだ? と思い携帯で調べるためにポケットに手を突っ込んだところで気づく。朝、むしゃくしゃして川に投げ捨てていたと、はぁ、男は深いため息をつきスーツの上着を脱ぎ誰も座ってないロングシートに投げ捨てようと体を傾けると緑が明るい田園地帯が車窓から視界の端に映り込み、スーツを投げる手が止まる。
茅葺き屋根の古い家が5軒固まって建っている。
田んぼで稲を植えている人は歴史の教科書で見るような編笠を被り服装も胴長などではなく泥だらけのズボンであった。
周囲に軽自動車や農機具などはなく手作業で植えている。
男は目を擦る。先ほどで電光掲示板があったところを見てばっと立ち上がる。
そこには電光掲示板などなく5駅しか書いていない紙の行き先表がノリ付けされている。しかし先ほどと変わらず終点と思われるところには『丘上』と書かれている。
見覚えがある。男は急いで振り返りながら立ち上がり窓に貼り付く、車窓に流れる田園地帯で1人、農作業をしている老人を見つけた。
『爺ちゃん………』
そこで農作業をしている爺さんは男のお爺さんであった。その隣で小さい身体を懸命に動かしている少年がぬかるみに足を取られ泥だらけになる。
男は転んで泥だらけになった少年に既視感を覚え、無意識に言葉が出る。
『なんで……俺が?』
泥だらけになった少年は爺さんに起こされ、畦道に転がされる。その子は半べそかきながら白いシャツを脱ぎ捨てた。
電車にブレーキがかかり始め。ゆっくりとスピードを落とす。男は運転席を見ると左前にコンクリートの台のような屋根もない駅が視界に入る。そこには錆びた看板が一枚あるだけであった
『丘上』
電車が止まり看板が視界に入ると男はここがどこか完全に理解した。
『なんで……』
ドアが開くと男は急いで電車を降り階段を降りて先ほどの爺さんがいた田んぼに全力で走って向かう。
息が上がってもなお、男は走ることをやめない。足が重くなっても脇腹が痛くなっても彼は止まらない。
先ほどまで遠くに見えていた編笠を被った老人がどんどん大きくなり男は声を上げる。
「爺ちゃん!」
その声が届いたのか田んぼの中で稲を植えていた爺さんは振り返り田んぼから出てくる。
「……正明? なのか、大きくなったな」
「爺ちゃん……」
爺さんは正明の肩に手を当て頬を触る。
「お前にはいるべき場所があるだろ、正明」
「どういう事? 爺ちゃん」
「ここはお前が来ては行けない世界だ。」
「………」
「ここは、わしの思い出の世界だ。だから小さい正明がそこでどろんこになってる。ほら! シャツを着ろ、風邪引くぞ。……未来の正明に何があったか、わしは知らんが、疲れてるな、ちゃんと寝てるか? 飯食ってるか? 遊んでるか? 彼女は出来たか? 家庭は持てたか?」
その声音は男を包み込むように優しかった。
「爺ちゃん……家族が出来たよ、子供も2人男の子と女の子
上は10歳下の子は7歳だよ、上の子の名前は大地、下の子はさくらって名付けたんだ」
爺さんは微笑み先ほどの駅を指差す。
「正明にはまだ大切な者が残ってるじゃないか。わしはお前に何があったか知らん。だからこそ言えることがある。大切なものがあるなら、お前はそこにいるべきだ。さぁ、おゆき、あまり長くここに居過ぎると帰れなくなる。あの電車に乗ってお前がいる場所に帰れ。」
『爺ちゃん……おれ、おれ、』
「謝らなくていい。おまえが決めたことだ。お前の人生はお前が決めろ!」
爺さんは男の背中を思いっ切り押し出し、5m程度進んだところで彼は止まり振り返る。
『爺ちゃん、ありがとう!』
「おう! 正明、俺の墓にはビールと枝豆を供えてくれや! 頼んだぞ! 」
『爺ちゃん、わかった!』
爺ちゃん『かはっは』という、子供の頃よく聴いた嬉しそうな笑い声が男の背中に届く。
男は足を進める。涙が流れてくるのを爺ちゃんに見せないように。
「いつもワンカップの酒と花じゃ美味くもねぇ! もう振り返るな、先を見ろ、失ったものを数えるな、これから出会う全てのものを数えろ、嫌なら忘れろ、嫌なら逃げろ! 俺だって戦争から逃げた。逃げたら恥? そんな事ない! 逃げるも立派な選択だ! だがいつか必ず逃げては行けない時が来る。それだけは逃すな! 正明!」
男は自分の鼻水を啜る声でほとんど爺ちゃんの声など聞こえてなかったが最後の3行だけは全て聞こえていた。
もう二度と会えないと何故かわかる
もう二度とここに来れないと何故かわかる
もう二度と爺ちゃんの声を聞くことはないと何故かわかる
だが男は振り返らなかった。ここで振り返ったらもう二度と帰れないと何故か思った。
男はどうやって電車に乗ったかすら覚えていない、たださっき降りたところに立つと電車がやってきてゆっくりだドアが開く、右側のロングシートを見ると忘れていったスーツの上着が無造作に置かれている
一枚の手紙と共に。
『爺ちゃん……』
『枝豆とビール、待ってるぞ、正明』