第一話:ナロード王国国立美術文化会館
あたしの名前はローラ・ウィステリア。
二十歳。
ナロード王国国立美術文化会館に四月から働くことになった。
美術の知識なんて全く無いけど、まあ、仕事は単なる事務職で特に美術関係の知識とか技術などは必要ないみたい。
ちょっと前までは酒場でバイトしてたんだけど、その店潰れちゃってね。
新聞の求人欄に載ってたんで適当に応募したらあっさり採用された。
学歴問わず、特に資格とかも必要ないってことなんで。
あたしは中卒で頭も悪いしね。
事務室でのささやかな歓迎会で、「あたしは頭が悪いけどよろしくお願いします」って挨拶したらみんなから笑われちゃった。
実際、あたしは平凡な女で自慢できるのはせいぜい記憶力が良いってことくらいかなあ。
酒場で働いていた時は、メニューとその値段を一日で覚えたぞ。
って、えらくもなんともないか。
面接でそのことを言ったら、サルヴァトーレ事務長に笑われた。
さて、この国立美術文化会館は略して美文館と呼んでいる。
場所はナロード王国の首都メスト市。
そこの北地区にあるナロード公園と呼ばれる場所の端っこに会館がある。
このナロード公園はけっこう広くていろんな種類の木がたくさん植えられてたり、大きい池なんかもあって市民の憩いの場所になっている。公園の中には博物館や美術館、劇場、レストラン、動物園やらいろんな施設が設置されている。
で、あたしもこの国立美術文化会館って美術館かと思っていたら、どうもちょっと違うようなのよ。採用されて、初日に館内を係長のドメニコ・ニコロージさんに案内してもらったんだけど、美術作品の展示室が一部屋しかない。かなり広い部屋だけど、美術館に展示室が一部屋だけってどうなってんのかなあと思ったら、どうやらこの施設、美術館ではなく長年美術関連の芸術活動に貢献した人たちを顕彰するところみたい。
毎年、優れた美術作品とその製作者に国立美術文化会館賞というものを授与している。略して美文館賞。その授賞式には国王陛下も列席するようで、かなり権威の高い賞みたいね。それにしても、国王陛下が列席するなんて警備とか大変そう。授賞式は毎年三月にこの美文館で開催される。
あらかじめ就職先のことをちゃんと調べなかったのかと言われそうだけど、あたしは万事適当な性格なんでね。応募した理由も自宅のアパートからわりと近かったからということだけ。徒歩通勤ね。
今は先月に行われた授賞式も無事に終わったばかりで、年間行事の一区切りがついたってことで新人を採用するにも都合の良い時期らしい。あたしの前任者は一月から育児休業中。予算の都合でその代わりがやっと補充できたってことだそうだ。
受賞者を選ぶのは、この美文館の会員の先生たち。今はだいたい九十人くらいいる。だいたいというのは、御高齢の方が多くて、毎年亡くなる会員が何人かいたり、また、秋頃新会員を選出したりして人数が増減するからだ。
三部門あって、現在は絵画部門が四十人、彫刻部門が三十五人、工芸部門が十五人と、計九十名の会員が在籍している。定員は百二十名らしい。
ちなみに会員になると、国から毎年三百万エンの会員手当なるものが支給される。
貧乏なあたしからするとうらやましい。
まあ、要するに美術の世界で功成り名遂げた人たちの社交場みたいなところね。
そんな偉い人たちばかりだから、怖い先生とかいるんですかとドメニコ係長に聞くと、そんなことはないらしい。
「皆さん、優しくて礼儀正しいよ。私のような単なる事務員に対してもね」
「そういう先生だから会員になれたんですか」
「いやあ、違うと思うね。美文館の権威に負けているってところもあるね。周り全員偉い人だらけだから、他の場所では威張っていても、美文館では変な言動で目立つのを避けているみたい。特に美文館の会員になろうとしている人は職員に対しては常に礼儀正しいよ」
ふーん、そんな格式の高い場所に、こんないい加減なあたしが勤めてもいいのだろうか。
建物は大きい回廊があって平屋建て。
その周りを鉄柵が囲んでいるが、柵の上に尖ったトゲのような金属製の装飾があって、これがちょうどあたしの肩くらいの高さにあって触らないよう注意しないといけない。泥棒よけかしら。
玄関から入ると、目の前に窓口がある。左方向に行って回廊を時計回りに沿って、外側に展示室の他に授賞式が行われる講堂や会員たちが会議したりくつろいだりする談話室、他にトイレなどがある。そして、この談話室がふかふかの高級品の絨毯で敷き詰められていて、まるで雲の上を歩くようだ。
また、国王陛下をお迎えするにあたって貴賓室というものが展示室の左隣にある。年一回授賞式の際にしか使わないそうで普段は開けていないが、特別にちょっと見学させてもらった。そんなに大きくない部屋だけど、隅から隅まで調度品は最高級品で埋め尽くされている。
ドメニコ係長がこっそりと、「陛下用の椅子に座っていいよ」って言うもんだからあたしも超豪華な椅子に座らせてもらった。ふかふかで気持ちがいいぞ。なんか偉くなった気分。その椅子の左側の壁には四角い引っ込んだ箇所があった。照明器具とかで中を照らせるようになっている。なんだろうとドメニコ係長に聞いてみた。
「この場所は何ですか」
「授賞式の際には工芸品を置くんだ。授賞式が始まる前に国王陛下が手持ち無沙汰にならないようにね」
「受賞作品を置くんですか」
「いや、美文館の所蔵作品の中からある規則に従って置くんだよ。選ぶのは工芸部門の会員たちだね。新会員になった人の作品や最近の受賞作品を置くことが多いよ」
他にも貴賓室の陛下専用トイレも見せてもらった。
おお、何て豪華なんでしょう。
広々として、貧乏人のあたしが住むアパートの部屋より、このトイレの方が住み心地がいいんじゃないかと思わせるほど。
ちなみに国王陛下はこれまで、このトイレを一度も使用したことがないらしい。
なんのためにあるんじゃとも思わないわけでもない。
後は、玄関から入って回廊に行かずに右の廊下へ行くと、お客さん用の応接室、事務長室、館長室、台所、館長用トイレ、屋上へ行く狭い階段などがある。館長用トイレを見たが貴賓室と違って普通のトイレだった。
そして、廊下をはさんで事務室や守衛室がある。
廊下の端っこを出ると狭い敷地があり、大木が一本植えてある。
この敷地は壁で囲ってあり、外へ出る裏口が設置されている。
回廊の真下に地下室があって、美術品を納める収蔵庫や事務資料などを置く倉庫がある。地下室に行くには玄関から入って、すぐ左にある階段を降りると行ける。かなり広々とした地下室だ。
所蔵作品は毎年増えていくけど、当分はこの地下室に収蔵しておけば大丈夫なほどの広さがある。昔は、収蔵作品を搬出入する際には階段しかなくて大変だったらしいが、今は、昇降機が備え付けられて簡単になったようだ。
一階の回廊の内側には、全面ガラス張りで枠は鉄製の引き戸で囲まれた中庭があって細かい綺麗な石で敷き詰められており、それが模様を描いていて綺麗。他にも談話室の外側に美しい庭があり素敵。庭を照らす照明まで設置されている。さすがは美文館。
「この建物自体が芸術品扱いされているんだ」と人の好さそうなドメニコ係長に教えてもらったけど、あたしにはこの建物自体は普通の建築物にしか見えなかった。まあ、あたしはただの事務員ですから芸術のことはわかりません。
とは言え、この建物、回廊自体がまた豪華なんだなあ。綺麗な石材を敷き詰めて、まあ土足で歩くのがもったいないくらい。
さて、事務員として在籍しているのはドメニコ係長の他に、サルヴァトーレ・タッソ事務長。頭が禿げてて偉そうな感じ。陽気な感じがするが、ちょっと気が短そうだ。
それから、ベルトランド・ジーノ主任。会計と施設担当。メガネをかけてて、なんだかいつもヘラヘラしている男性。
他にジュシファー・ロッティさん。あたしと同じ非常勤職員。まだ十九才で可愛い顔をしてる。服装は地味な黒っぽいスカートに白いシャツ。その上から紺色のカーディガンを着ていることが多い。清楚な感じがする。この人もまだ採用から半年程しか経ってないそうだ。髪型は黒い髪の毛をポニーテールにしている。
ちなみに、あたしは金髪でミディアムヘア。
ロングヘアだったんだけど、最近、彼氏に振られて気分転換に髪の毛を少し短くした。
ああ、すっきりした。
と言うわけで、あたしを入れてたったの五名しかいない。
サルヴァトーレ事務長は個人用の部屋にいるから、事務室は仕事机が四つと書類棚だけのこぢんまりとした部屋だ。
こんな少ない人数で事務の運営ができるのかなと思ったが、普段は会員の先生たちはこの施設に来ないそうで。つーか、年二回の総会と授賞式くらいしか来ないらしい。
中には、会員に選ばれてから死ぬまで一度しか来なかった先生もいたようだ。
それでも毎年、三百万エンの会員手当が支給される。いいなあ。
そうそう、館長はミケランジェロ・アンプロジーオ先生。
美文館会員ではないのだけど、すごい偉い先生らしく、忙しいのか普段はいない。だから院長室はいつも人が居ない。広々とした部屋にふかふかの絨毯。デカい机に立派なソファセット。もったいないので、昼休みにこっそり入ってソファで昼寝してみようかと思っている。
他には毎日夕方から守衛のおじさんが来て、朝まで警備業務を行っている。
まあ、そういうわけで暇なとこかと思ったら、ドメニコ係長やベルトランド主任はなんだかドタバタ忙しそうだ。あたしは採用されてからまだ一週間、簡単な書類仕事に展示室の看守くらいしかしていない。今の展示室には今年の三月に受賞された作品が展示されている。
毎年、五作品から十作品ほどが受賞作品に選ばれる。今年は五作品で全部絵画作品。年によっては彫刻や工芸品も選出されるらしい。例年、三月初めに行われる授賞式後に美文館で一か月ほど受賞作品を展示しているようだ。
交代で展示室の入口近くの椅子に看守として座る。無料で一般公開してるけどあまり鑑賞にくる人がいない。美文館が目立たない場所にあるからかな。展示室が一つしかないので、「なんだよ、たったこんだけかよ」って文句を言って帰る入場者もいる。
確かに他の美術館に比べると展示室が一部屋しかないので物足りないかもしれないが、無料で絵を鑑賞したくせに偉そうにするなと思ったけど、黙っておく。国立の機関なんで、「この税金泥棒の公務員が!」って難癖つけてくる人っているからなあ。
展示室に鑑賞している人がいないときは椅子から立ち上がって、ちょっくらあたしも美術鑑賞でもするかと作品を眺めたりする。どれもこれも素晴らしい作品! じゃないかしらね。
まあ、あたしは単なる事務員ですからね。
審美眼なんてありません。
けど、素人から見ても綺麗な作品ばっかりだなあ。あと、全部寸法が大きい作品ばかりであたしの背丈の二倍近い作品もあるぞ。風景画の作品とかえらい迫力がある。あたしが一番気に入ったのは紅葉が綺麗な山を描いた作品。素人目でも素晴らしい作品だ。さすがはナロード王国国立美術文化会館賞受賞作品。
と、思いきや一つだけヘンテコな絵画があるんだな。
作品名は『深淵への誘い』、作者はミケーレ・ソアービとある。
あたしには、何が『深淵』で、何が『誘い』なのかよくわからない。
抽象画のようでもあるが、絵画全体が青っぽく、そして何とも言えない生き物が描かれているようにも見える。あたしには何となく深海に潜む軟体動物を想像させられた。よくわからないが触手らしきものが見えるような感じもする。
まあ、そもそもあたしには抽象画ってものがよくわからないけどね。
しかも、それが最優秀作品として美文館賞の他にナロード王国賞も授賞していた。このナロード王国賞とは毎年、受賞作品の中で特に優れたもの一作品だけに授与されるもので、それに伴って王室から御下賜品として銀色の盾が授与され、一緒に展示されている。
なんでこんなヘンテコな作品が受賞作品、しかも最優秀作品なんだと疑問に思ったが会員のお偉い先生方が投票で選んだのでどこか芸術的に優れているのだろう。
そう言えば、館内を案内してくれたドメニコ係長が、「なんか変な絵だよねえ。この絵画を鑑賞していて気分が悪くなって倒れた人がいるよ。私もこの絵のことを、夜、眠るときに思い出して、うなされちゃったよ」と冗談っぽく教えてくれたのを思い出した。
見ていて気分が悪くなったり、夜にうなされたりする作品なんぞに立派な賞なんて与えるなよと思ったが、そんな影響を鑑賞する人に与えるほどすごい作品ってことなの? これもゲージツってやつですか。
あたしはこの作品を見てても別に気分が悪くなることはないけどね。再び、入口近くの看守用の椅子に座る。目の前の壁にはそのヘンテコな作品が飾ってある。最優秀作品なんで出入口から入って一番目立つ場所に飾ったんだろうか。
誰も来ないので、ぼんやりとその絵を見ていたらうつらうつらとしてきた。昼食後なのでお腹がいっぱい、なんだか気分がいいなあと思っていたら、突然肩をポン! と叩かれた。びっくりして、「うわっ!」って声を出してしまった。気が付くと傍らに事務員のジュシファーさんがニコニコ笑顔で立っている。
「ローラさん、お昼寝の邪魔してすみませんが交代の時間ですよ」
あたしはいつのまにか寝ていたようだ。
「ごめんなさい」と謝りつつ椅子から立ちあがる。ちょっと、よろけてしまった。
時計を見ると交代する時間から五分程過ぎていた。
「ローラさんがぐっすりと寝ているので起こすのも悪いかなあと思って、ちょっと待ってました」
「そんなの気にしないでさっさと起こしてくれればいいのに」
「まるで深海をゆったりと漂っているような感じで気持ち良さそうにしてましたよ」
「あはは、すみません……」
ふう、事務長とか係長に見られなくてよかった。
さぼりと思われてしまう。
まあ、実際さぼってたみたいなもんだけど。
さて、採用されて翌週にドメニコ係長から新たな仕事を命じられた。
「先週で受賞作品の展示が終了したんで作品を返却しなきゃならない。ローラさん行ってくれないか」
「絵画の返却なんて運送屋さんにまかせればいいんじゃないですか」
「美文館職員の立会人が必要なんだよ。それから預り証を先方から返してもらってくれるかな」
ふーん、大事な美術作品だから立ち会いも必要なんだろうな。
そんなわけで、でっかい幌付き馬車がやってきて、運送屋さんが二名で絵画を梱包して荷台に積む作業をテキパキとこなす。あたしはその作業を見ているだけ。
最近は、蒸気自動車なんてものも発明されて往来を走っているが煙を出すので芸術作品が汚れてはまずいからか馬車で持って行く。積み込みが終了し、運送屋さんたちは御者台に座り、あたしは灰色のズボンに白いシャツ、その上に黒いジャケット、ズック靴とラフな格好で荷台に乗り込んで、いざ出発。あたしはいつもこんな適当な服装で過ごしている。髪の毛もボサボサだ。まあ、貧乏ってこともあるけど。
ナロード王国美術展覧会ってのが王国内を巡回展示していて、そこへ作品を返却しに行く。
かなり権威のある展覧会らしい。略して美展と呼ばれている。
今は首都メスト市の隣のプラシモ市の市民会館が展示会場だ。
この展覧会に出品された作品から美文館賞受賞作品が選ばれることが多いようだ。
それで展示会場に到着して、展覧会側に引き渡してさっさと帰ろうとしたら相手側の職員に、
「作品の点検お願いします」と言われちゃった。
どうやら、貸し出し中に作品に傷などが付いてないか確認するらしい。
おいおい、そんなこと聞いてないわよ。
あたしは学芸員じゃなくてただの事務員なんだから。
それも非常勤職員よ。
一週間前に採用になったド素人よ。
美術作品の点検なんて出来ないぞー!
けど言われた以上やるしかないな。
それにしても、美展の職員と一緒に作品の点検をするのだが、例えば絵の表面に黒い小さい点があるとしてそれが元からあるのか、それとも美文館で展示している間に付いちゃったもんなのか、はたまたカビなのかってあたしには全然わからないわよ。
まあ、借りるときの書類があって、そこにけっこう細かく絵画の状態について書いてある。
借りるときはドメニコ係長が行ったらしい。しかし、向こうの職員はあたしを学芸員と思っているようだ。
点検中に展覧会の職員さんに聞かれた。
「この作品の額縁に少し傷があるんですが」
あわてて、該当作品の書類を見るとちゃんと指摘してあった。
「えーと、借りる際にすでにあったようです」
あたしが書類の該当箇所を見せる。
「そうですか、それなら仕方がないですね」
それを見て、美展の職員さんも納得したようだ。
それにしても、素人のあたしにわかるのはせいぜい額縁の傷くらいだな。
専門的なことを聞かれたらどうしようかと、なんとも居心地の悪い感じで作業を進めていく。
そんなこんなで、なんとか点検作業も終わって、馬車に戻ったらまだ作品が一つ残っていた。
運送屋さんに聞いた。
「なんでこの作品は馬車に載せたままなんですか」
「これはミスカトニク市立大学芸術学部のミケーレ・ソアービ教授の研究室へ返却するんです。あれ、聞いてないんですか」
焦って、ドメニコ係長から渡された書類を見るとそう書いてある。
「ああ、そうでしたね。すみません。作品の点検で疲れて忘れてました」
適当にごまかすいい加減なあたし。
しかし、ミスカトニク市ってけっこう遠いな。
到着するのは夕方近くになってしまう。
ミスカトニク市立大学に到着したのは午後四時頃。
ナロード王国でも五本の指に入るくらい大きい大学らしい。
空はどんよりと曇っていて今にも雨が降りそうだ。もう四月に入っているがまだ授業などは開始されていないようで、学生さんも少なく人通りもまばらだ。今日は少し気温が低く寒気がする。
とりあえず芸術学部の事務室に挨拶に行ったら、担当の女性事務員さんが少し戸惑っているご様子。どうやらミケーレ教授は前から病気みたいで、自宅で療養中らしい。授賞式にも親族が代理で出席したようだ。
作品を今日返却することは美文館側からかなり前から連絡はしてあったようで、大学の事務員さんが言うには一週間前くらいにミケーレ教授が珍しく事務に顔を出したらしい。その時、返却の件を知らせると、先生本人は体調は良くないが返却の際には立ち会うと言ってたそうだ。
しかし、当日になっても出勤してこないし、自宅に連絡しても誰も出ない。先生が来るのを待っていたら、あたしたちが先に到着してしまった。研究室には他に誰もいないそうだ。おまけに先生の研究室に入れないので作品を搬入できない。
「あのー、なんで事務の方が入れないんですか。マスターキーとか持ってないんですか」
「先生が勝手に自分で鍵を交換しちゃったんですよ、申し訳ありません」
私が質問すると大学の事務員に謝られた。
仕方がないので研究室の前の廊下に置いておくかって話になったが、一応、例の作品の点検というやつをやらなきゃいかん。面倒だなあと思いつつ、預り証を大学側から返してもらう必要があるので、それなりのことはしておくかと運送屋さんに頼んで梱包から作品を取り出して廊下の壁に立てかけてもらう。
事務員さんが廊下の電灯を点けてくれた。ずいぶん明るいなあ。あたしの住むアパートはいまだに灯油ランプを使っていて薄暗い。おまけに電話は一階の大家さんのとこに一台だけ。それをアパートの全住民で共同利用している。ちなみにトイレも共同だ。
それで、肝心の作品だが、おお、これは例のわけのわからない軟体動物を描いたような感じもするヘンテコな作品ではないか。その作品を点検か。まあ、あたしは絵画作品を見ていて気絶するほど繊細じゃないけどね。
書類を見ると、丸っこい字でジュシファーとサインがしてある。この作品だけ借りる際はジュシファーさんが行ったみたいだ。けっこう細々と指摘してある。あの娘、実は美術に詳しいんじゃないかしら。このヘンテコな作品を見ていて気持ち悪くならなかったのかな。
あたしが適当に点検していると運送屋さんにまた聞かれた。
「この下賜品はどうしますか」
運送屋さんが例のナロード王国賞の銀の盾を抱えて持っている。
けっこう大きい盾なんだよね。
「うーん、絵と一緒に廊下に置いておくしかないでしょうね」
「盗まれたりしませんか」
「まあ、銀の盾と言っても銀メッキしただけで中身は鉄製だからいいでしょう。外見は立派だけど実際はたいして高価じゃないものみたいだし。盗まれたらまた代わりのものをくれるんじゃないかしら」
「じゃあ、絵の横に置いておきますよ」
「よろしくお願いしまーす」
再び、ちょっといい加減なあたし。
さて、あたしが絵を点検していると、雷がゴロゴロと鳴り、急に激しい雨が降り始めた。
すると杖をつきながら、一人の大柄な老人が建物の中に入って来た。立派な白いあご髭をたくわえている。玄関の入口で外套に付いた水滴を払うと、なんとなく手持無沙汰な感じで大粒の雨が降る外を見ながら葉巻を吸い始めた。
どうやら雨宿りをしているらしい。
その老人が何気なく振り向いて、あたしが点検している絵の方を見た。
すると、ぎょっとした表情を見せた後、大声で怒鳴った。
「おい、そんな危険な絵、どっから持ってきたんだ!」