カフカの夏休み
彼女の名前を僕は知らない。本が好きだった。ただ、本を読むのは苦手そうな女の子であった。
僕はカフカと呼んでいる。僕が名付けた訳じゃない。自分から呼んでと彼女が言っていた。
だから、その痛々しい名前を口に出さずに、心の中でそう呼んでいた。
図書館でいつも一人で読書している、ように見える。しかし、僕は知っている。平日のお昼時、市立図書館にいる年頃の子供は学校に行っていないか、不登校の二択に限られる(僕とカフカは後者)。
彼女は誰にも見られていないときには、一切本を開いていないのだ。読書をしているときも、頻繁に手元の端末を弄っている。
最初は人に絡みたくないからかと思っていた。彼女は読書する自分が好きらしい――という結論に至ったのは、出会ってから割とすぐであった。
艶のある黒髪を、青の無骨なヘッドホンで挟み込む。だらしない、一つ周り大きいパーカーとジーパンが彼女の標準的な、無駄な時間を潰すスタイルである。
「それでは私が素敵な名言を紹介してあげよう」
学校の昼休みの時間帯に話をする。暗黙のルールがここ数年でできていた。
彼女はよく喋る女性だった。自らの知識を見せつけるときが彼女は一番自慢げであった。本の文字の海から得たものではない、手元にある電子端末で五分前に予習した、安っぽいベニヤ板のような情報である。
「問題を解決する最も簡単な方法は、その存在を――」
「否定することである。アシモフ」
「何で知ってるの!??」
自らの口から出た言葉が痛々しい。身についていない。僕らは治らない傷の舐めあいをしている。ふと、自分に戻ることがある。前に進んでいる記憶がない。休息をしている。その休みが、学校のチャイムでこれから授業ですと、切り替えられるようなことはなかった。
文字を追いかけても、幾ら名言を聞いても、経験で補填されることはない。裏付けようと動いてみることもない。動きたくない。行動せずにずっと知識だけを蓄えたい。大人じゃない僕らの、子どもになりきれない子どもらしさが、いつも僕らを邪魔していた。
「じゃあこれは、知ってる?」
「何?」
どうしたの、カフカと僕は心の中で付け足した。
「……人生はいつも夏休み!」
「知ってる。君の名言」
「正解。なら、これは!? 木下高校の三年生の女子が一人、行方不明になった。一年前の夏休みからずっとね!」
「知ってる」
「最後に目撃情報があるのはこの図書館」
「知ってる」
「監視カメラの映像を見る限り、出ていった様子はない」
「それならまだここにいるってことになるね」
「そう! そこで問題です。彼女はどこに消えたのでしょう」
「……隠れられるスペースはほとんど無い。隠れてもすぐに見つかってるはず。出入り口にはカメラは全部ある」
「見当はついてるの?」
「ああ」
カフカは僕を覗きこむ。背景の本棚から僕の瞳に、瞳孔がズームしていく。
ずっと笑顔だった彼女の表情が凍り付く。僕は目を反らした。僕以外を見つめて欲しかった。彼女の瞳は僕を鏡のように反射する。僕は僕が僕を見続けるのが嫌で、目を反らす。彼女は僕を見続ける。
「なら早く見つけてよ。私の夏休みを終わらせてよ」
そう言ってカフカは僕の前から煙のように消えた。昼休みにいつも現われる。恨むように僕を睨み付けて最後は消失してしまうのだ。
毎日彼女と話す習慣は、彼女が死んでも続いている。
僕は手元の小説に視線を戻す。時計は十三時を回っていた。今日もいつも通り読書に戻った。
僕の夏休みもまだ終わってはいなかった。
久しぶりに衝動で一発がきしました。
楽しかった。