夜の金魚
金魚がさ、蛾を食ったんだよ。
それが、始まりだったんだ。
蛾っつったって、小さいやつだよ。茶色いの。家の中に、いつの間にか入ってくるだろ?
いっつも電気のカサの中で、羽虫と一緒に、たくさん死んでるやつだよ。
くるくるくるくる顔の周りを飛び回って、バチンって叩くと手のひらに、茶色のキラキラした鱗粉がべっとりついてさ。
それがその夜は、家ん中にやたらと飛んでたんだよ。
ショータが、……俺の息子な。一年生なんだけど。
お祭りで、金魚をすくって来やがってさ。
いや、すくったんじゃねぇな……カネなんか持たせてない。
夕飯のあと、友達とお祭りに行くから小遣いくれって、小っちぇえ声でゴチャゴチャ言ってたけど、うるせぇって一喝したらビクッと肩を震わせて、黙って出てったよ。
ショータは、いつもビクビクしてるよ。俺はこいつのことは、めったに殴らねぇんだけど。
だって殴り始めたら俺、ついブチ切れて、殺しちまいそうだからさ、アハハ。
そのかわり、嫁には厳しいけどな。ガツンといく。
だからショータの躾は、嫁のリサに任せてる。よく引っ叩いてるよ。俺から見てもたまに、可哀想になるくらいな。
でもショータは、嫁の猫に八つ当たりして、蹴飛ばしたりしてるからな。ハハ、猫は災難だけどな。
まあそんな感じで、うちは嫁も子どもも、厳しく躾けてるんだよね。
一時間ほどしてショータは、汗びっしょりかいて、息を切らせて戻ってきた。
金魚すくいのビニール袋を、ぶら下げて。
ほら!って見せられて、一瞬ギョッとした。
ビニール袋の中の金魚、やたらでかくて、なんかキモいんだよ。……ぶくぶく太って、大きなヒレが、ビラビラしてて。
赤黒いような色だから、一瞬、水に沈んだ血まみれの肉の塊みたいに見えた。
飛び出したでっかい目玉が、頭の上の方に付いてて、それが左右別々に、ギョロギョロ動いてた。
体の割にいやに大きな丸い口を、ぽかーっと開くと、奥から小さい泡が出てきて、ぷつぷつ水に浮いた。
どうしたんだって聞いたらさ、カネないから、友達が金魚すくうとこをじーっと隣で見てたら、金魚すくいのおっちゃんが、くれたって。
「後ろの方に隠してあった、おっきいのくれた!」
え、金魚ってこんなにキモいもんだっけ、って思ったけどさ。
ショータがえらく興奮して、やったやったってはしゃいでるからさ、仕方ねぇじゃん。
水槽もねぇからさ、とりあえず洗面器に入れてさ。
そしたら嫁が、すっげぇ嫌な顔すんの。
洗面器に金魚入れるの、臭いからヤダとか言うのさ。
うるせぇっつーの。それ言ったら、お前の猫の方が臭ぇだろっつーの。
リサはバカでさ、飯の作り方も掃除の仕方も、なーんも知らねぇの。パチンコ狂いの親にゴミ屋敷で育てられた女だから、仕方ねぇんだけどさ。
せめて子どもの面倒くらいちゃんと見とけってのに、俺が見てないとこいつ、ショータのこと、無視しやがんの。飯も食わせてない時もあるんだぜ。
いくら怒鳴っても殴ってもこいつ、ちっとも学習しないで何度も同じことするんだよ、バカだから。
そのくせ、飼ってる猫のエサは忘れねぇの。
あーこの女、絶対、ショータより猫が大事なんだなって思うときあるわ。マジむかつく。
まあそれでもさ、一晩だけだからって、洗面器に金魚入れてさ。
部屋の隅の電気スタンドの下に置いて。
ショータはずーっと、それを覗き込んでた。
そんで俺と嫁はテレビ見てて、そしたらショータがいきなり、あっ!て言ったんで、振り返ったらさ、
「金魚が、蛾、食べた!」
って。
え? って聞いたらさ、洗面器に小さい蛾が落ちて、金魚がパクッと食べたんだって。一生懸命、まくしたててさ。
せがまれて覗き込んだら、蛍光灯に照らされた洗面器の水の表面に、キラキラした粉が浮いてた。
汗ばんだショータの頭の臭いと、生臭い水の臭いがむわっとして、赤い金魚の黒い目が、俺の方をギョロッと向いて、ぶくぶく膨れた白い腹が、いっそう膨れてるように見えた。
「キッモ……」
そのとき俺が言おうとしたこと、俺の肩越しに覗いてきた嫁が、先に呟いちゃったよね。
うえっキモい、と俺も思ったよ。
でもあいつが言うと、なぜかムカつくんだよな……なんなんだよこの女、子どもが可愛がってんだろーがよ、そーいうこと言うんじゃねーよ、って、……
そしたら、さ。
バシャッ! って、水が跳ねて。
一瞬。なにが起こったのか、わかんなかったんだけど。
猫が。
いつの間にか近くに忍び寄って、金魚を狙ってた猫が。
洗面器に前足突っ込んで、そのでかい金魚を、水からすくい飛ばしたんだ。
「きゃっ!!」
リサが叫んだ。
ほんとに、一瞬のことだったんだよ。
水から飛ばされた金魚は、すぐそこの絨毯にベチャッと落ちて、猫はそれに、飛びかかった。
にちゃ、っていう音が、したのかしなかったのか……とにかく、なぜかいきなり野性に目覚めやがって、狩りに成功した猫はさ、気づいたときにはその金魚をがっぷりと口に咥えて、得意そうな顔して、こっちを振り向いて見てたよ。
金色の目がらんらんと光って、赤黒い血の塊みたいな金魚のヒレが、つり上がった口の端から、だらりと垂れてた。
「……」
俺は咄嗟に、声も出なかったんだけど。
「アァアアーーーーー!!」
ショータがいきなり、ぎょっとするような金切り声で、叫びだしたんだ。
「ぼくの、きんぎょォーー!
ア、アァア、ァアァアアーーー!!」
ヤバい、と思った。目が、イッちゃってたもん。
顔から血の気が引いて、白茶けた変な色になってた。
紫色の唇をワナワナ震わせて、見開いた目を釣り上げて、引きつけでも起こしそうな顔でショータは、叫び続けた。
そして叫びながら、遊んだままそこらに散らかしてたミニカーを、手当たり次第引っ掴み、猫に向かって、狂ったように投げつけはじめたんだ。
「おい、ショータ……」
声を掛けた、そのとき。
ショータの投げたミニカーの一つが、なぜか猫の眉間のあたりを、直撃した。
ボグッ……という、鈍い音がした。
「ニ゛ィ゛ァ゛ァ゛……」
喉の奥から、押しつぶされたような声を絞り出した猫は、突っ張らせた四本の脚を別の方向にねじり、その場に転がった。
「ぎゃあぁぁぁあ!!」
今度はリサが、ものすごい悲鳴を上げた。
まあ、さすがに俺も、びっくりしたよ。
だってまさか、子どもが適当に投げつけたものが、モロに猫を直撃しちまうなんて、思わなかったもんな。
「ミーたん! ミーたん!」
倒れて痙攣する猫の口から、なんか、白い泡と赤黒い血が混じったようなものが、糸を引いて溢れてきた。
たった今かぶりついてた金魚の、ちぎれた死骸だ。
薄い白い腹が裂けて、灰色のドロッとした内臓が、猫の胃液と一緒に、絨毯にこぼれる。
「……なにすんのよぉ!
この、クソガキっ!!」
リサがいきなり、ショータの顔を、ひっぱたいた。
な? こういう女なんだよ、悪いのは手癖の悪いてめえの猫なのにさ、子ども相手に、ブチ切れてさ。
「おい! やめろよ!」
「ふざけんな! よくもぉ! ミーたんをぉっ!
ふざけンナァアッ!
……フ、ザ、ケンナァアア……!!」
俺の言葉も、全然聞かねぇの。
リサは、根元の黒いパサパサの金髪を振り乱してギャンギャンわめきながら、息子に掴みかかったんだ。
ひどい騒ぎだった。
ショータは、顔面蒼白のまま、アーアー叫びながら、両手にミニカーを握り締めて、めちゃくちゃに振り回した。
リサはリサで、首筋に血管を浮かべて、口から唾を飛ばして、甲高い声でフザケンナフザケンナ叫びながら、ショータの顔を何度も、バチンバチンひっぱたいた。
「いい加減にしろつってんだよ!」
錯乱したガキと錯乱した女が、わめきながら殴り合ってんの、マジ地獄よ。テレビの声も全然聞こえねぇのよ。勘弁してくれって。
さすがに俺も立ち上がったんだけどさ、その瞬間、リサの手のひらが、ショータの側頭部を、クリーンヒット。
ぐらぁっとよろけて倒れたショータの頭が、ちゃぶ台の角に叩きつけられて、勢いよくバウンドした。
ショータは、首を変な角度に曲げたまま、床に転がって、ぐるんと白目を剝いた。
さすがにリサも、こんなでも一応母親だからかな、ハッと息を呑んで、手を振り上げた格好のまま、固まったよ。
その手の指が、こびりついたショータの鼻血で真っ赤だったのを、覚えてる。
仰向けに倒れたショータの、裸足のつま先が、ビクッビクッと震えてた。
「リサてめぇ! なにしてんだコノヤロォ!!」
枯れ草みたいな髪を鷲掴みにして、力任せに振り回したらガクンと手応えがあって、リサは長い甲高い悲鳴を上げながら、床に倒れた。
そのすぐそばで、白目を剥いて倒れているショータの顔は、鼻血の赤色でまだら模様に染まって、ぽかっと開いた土気色の唇が、まるであの、金魚の口みたいで。
「どうしてくれるんだ、テメェ、
……ショータ、死んだぞ、これ!」
「え、……」
目を大きく見開いて俺を見上げた嫁の顔が、きゅーっと引きつって歪んでいくとこが、スローモーションみたいに見えたよ。
顔の周りを、茶色い小さい蛾が、くるくるくるくる飛び回った。
バチンと自分の頬に叩きつけて手のひらを見れば、こびりついた茶色い鱗粉が、キラキラ光ってる。
ベロッと舐めると、苦い油の味がした。
頭の中で、小さな泡がぷつぷつと弾けるような感覚があった。
「……この、バカが!
死ね!
テメェが死ねよ! クソ女、テメェが死ね!」
怯えて体を縮めた嫁の腹のあたりを、俺は、いつも以上に思いきり、蹴飛ばしてやったんだ。
女のねじれたうめき声を聞きながら、柔らかい腹につま先が埋まる感触を足先に感じたとき、なにか、ジグソーパズルのピースがパチッと嵌まったときみたいな、気持ちよさがあったね。
「ぅう……ひぃー……ぃい……」
苦しげに喘ぎながら、床を這って逃げようとするリサの、頭の方に回り込んで顔を蹴り上げれば、ガクンと首を仰け反らせた鼻と口から、赤い血が垂れ落ちた。
蹴られたはずみに舌を噛んだのか、歪めた唇からダラダラ血が溢れて、全然止まらねぇんだ。
絨毯に血溜まりができて、錆びた鉄のような血の臭いが、むっと立ちのぼる。
それに、腹を裂かれて内臓をぶちまけられた金魚の、ドブのような生臭さがかぶさって。
猫の獣臭と、胃液の刺激臭と。
ショータの、日に焼けた髪と甘ったるい子どもの体臭。
リサの、酸っぱい汗と脂に、化粧品の人工的な芳香が混ざった、吐き気のするような女の臭い。
蒸し暑い部屋の中に、そんないろんな臭いが、充満している。
でも不思議と、俺の心はすっきりして、迷いはなかった。
「死ね!
死ね!
死ね!」
俺はリサを、蹴り続けた。
蛾が、金魚に食われた。
金魚は猫に。
その猫はショータに殺されて。
そしてショータは、このバカ女に、殺された。
ひとつひとつ、順番に。
だから今度は、こいつの番だ。
次はこの女が、死ぬんだよ。
そうだ、それが、自然のセツリってやつだ。……食物連鎖だ。弱肉強食だ。
「……ひーっ…………ひぃ……っ……」
リサの掠れた悲鳴は啜り泣きに変わり、やがて細く、しゃくりあげるような、途切れ途切れの浅い呼吸になった。
とどめを刺さなきゃ、と当たり前のように俺は思って、丸まったリサの体を仰向けに転がし、痩せた腹に馬乗りになって、血と汗で濡れた細い首に、手を掛ける。
「死ね……!」
細い呼吸と、ヒクヒクという脈動を感じながら、喉の骨に当てた親指に、体重を乗せた、そのとき。
「……?」
腹の底が、ぞっと凍りついた。
なにかが、こっちを見ている。
俺が、こいつを、殺すのを。
待っている。待ち構えている。
ゆっくりと顔を上げるとそこには、見慣れた部屋の隅の、暗闇があった。
その闇が、広がっていく。
薄汚れた床を、壁を、溶かして飲み込んでいく。
おぼろな暗さを透かして、こちらを見上げる、車のヘッドライトみたいな、丸いふたつの目玉が見えた。
まぶたのない、魚の目玉、……ギョロギョロと左右別々に動く、巨大な黒い目玉。
「……あ、……」
唐突に気づく。……罠だ。これは、罠だ。
罠だったんだ。
ショータのもらってきた、アレは。
「……くそぉッ……!」
駄目だ、この女を、殺しちゃいけない。
ここで俺がリサを殺したら、次は。
次は。
ヒュ、……と最後の微かな息が漏れ、リサの細い首が俺の手の中、脈動を止め、がくりと脱力し、そのまま動かなくなった。
「……!」
ぴちゃん、とひそかな水音がして、さざなみが立つ。
もとは確かに部屋の床だったはずの場所には今、暗い生臭い水面が、広がっている。
その、ぬるい水の下に、アレがいる。
赤黒くぬめぬめした、巨大な、アレが。
俺を。
狙って。
コポッ……と大きな泡が浮かび上がり、ぱちんと弾けた。
目の前の闇が割れて、赤黒い洞窟のような巨大な口が、ぽかーっと開き、
ひといきに俺を、飲み込んだ。