11.蓮(7)
「『真剣に……きいて』?」
「ちがう。『母さん』って、もう1回言って」
あ……。
「初めて……言ってくれた」
先ほどまで浮かべていた柔らかい笑顔が消えて。まるで怒っているような緊張した面持ちで。
「ねえ、もう1回言って」
怖いくらい真剣に、蓉子さんが俺に訴えている。
うっかり口に上らせた言葉は―――今まで俺が頑なに使おうとしなかった呼称。
『母親』だと認めてはいるのに。心の何処かで……まだ一部諦めきれずに、踏みとどまっていたかったのかもしれない。彼女との関係を完全に『母子』と認めるのを避けていた。俺は意固地になっていたのかもしれない。
けれども。それも、もう今となっては……随分下らない意地だったのだと、すっかり自覚させられてしまった。その気持ちの緩みが―――きっと言葉となって表出したのだ。
そう気付いたからには……彼女の要望を叶えるためだけに、そう、彼女を呼ぶ事は―――俺にとって吝かでは無い。
しかし妙に気恥ずかしい。
数秒キョロキョロ視線を彷徨わせて―――それからやっと覚悟を決めた。
真正面から彼女に向き直り、彼女の肩に手を乗せてまっすぐに彼女の未だに美しく、なのに年齢を重ねて更に嫋やかな柔らかさを増した―――相貌をしっかり見据えて口を開いた。
「……『母さん』、その。ええと……」
なんと続けて良いか分からず、俺を見つめ返す真剣な黒い瞳を覗き込んだ。ゴクリと唾を飲み込み、そして再び口を開く。
「『母さん』……貴女に育てて貰って、俺はこんなに大きく育ちました。だから―――もう少し頼って。今度は俺が貴女を守るから。もう守られるだけじゃなくて……俺にも、母さんを守らせて欲しいんだ」
「―――っ」
息を詰まらせ、声にならない言葉が発した蓉子さんが。
俺の胸に飛び込んできた。
「ようこさん……」
俺が恐る恐る肩を抱き寄せると、蓉子さんも俺の胸の頭を付けるようにして、ギュッとしがみついて来た。
そして―――堰を切ったように。わんわん泣き出したのだ。
その時俺は自分の犯した大きな罪に気が付いた。
俺の気持ちなんか……恋心なんか、屑みたいなモンだ。
何故たった一言、彼女を『母さん』と呼んであげることが出来なかったのだろう。
俺はギュッと細くて華奢な肩を抱きしめる。
こんなに小さな肩で―――俺を精一杯守って、育ててくれた。
なのにたったひとつ俺にできる―――細やかで簡単な親孝行を惜しんで、ただ彼女の細い肩に寄り掛かってしまうだけの子供だったんだ。
自分の不甲斐なさを嫌と言うほど、彼女と出会ってから20年も経って……俺は漸く実感したのだった。
次話で蓮視点最終話となります。




