8.蓮(4)
親父を会社に下ろし、車を走らせる。ふと気が付くと助手席に先ほどの封筒が置き去りにされていた。それを見ても何故か先ほどのような怒りは湧いて来ない。
と、言うか混乱していて頭が纏まらなかった。
俺の両親が離婚後、蓉子さんが直ぐに仕事を辞めて家庭に入ったのは―――もしかして、俺の為だったのだろうか。
あんなに明るくて優しい女性が、親父と不倫関係にあって両親の離婚を願いつつ親父の為だけに俺の機嫌を取ろうとしていたのだと知って衝撃を受けた。騙されたのだと思った―――俺はそうずっと……誤解していた。彼女が親父と結婚した後、俺は暫く彼女を避けるようになった。これまで彼女の前では作った事の無い表面上の笑顔を取り繕い、さり気なく家に帰る時間を削った。
だけど色々あって―――親父の為だけじゃない、俺の事も大事に思ってくれていた彼女の真心は本物なんだって……感覚で分かっていた事を改めて受け入れる事ができるようになって。俺は反抗期を抜けて、やっと素直に彼女に接するようになったんだ。
でも実際は。蓉子さんは俺を構ってくれていた時、親父と付き合ってすらいなくて、むしろ擦り寄って来る親父を跳ねつけていたんだ。そして俺の扱いに腹を立てて、逆らった事の無い上司に盾突いてくれてまでいたなんて。
社会人になって10年。32歳の今の俺よりずっと年下の24歳の女の子が―――あんな傲慢な上司に向かって立ち向かうなんて、どれ程勇気が必要だった事だろう。就職して2年くらい……?そこで仕事を失えば、再就職にてこずる事は必至だ。条件ももっと落とさなきゃならなかったかもしれない。賢い彼女ならそんな事は分かっていた筈だ。
確かに彼女は親父の事を嫌ってはいないと思う。嫌いな相手と、自分を偽って結婚できるような女の人じゃない。でも本当に親父が言うように……俺を弟か息子のように気に入ってくれて、家にポツンと残されていた俺の為に家庭に入ってくれたのだとしたら。
俺は―――トンデモ無い阿呆だって事になる。
自分の為に尽くしてくれた相手の事を勝手に誤解して、反発して。
蓉子さんはいつも明るかったけれど、俺が自宅に近寄らなくなった期間元気が無いように見える時が時折あった。俺は馬鹿だから、そんな風に自分が蓉子さんを傷つける事ができると言う事実に―――密かに溜飲を下げていた。俺が蓉子さんの気持ちに少しでも爪痕を残せるくらいには好かれているのだと言う事を、目の当たりにできたようで。
その時思考の海に嵌り込んでいた俺の気持ちを、切り替わった音楽が過去へと引き摺り戻した。
彼女の軽自動車に乗ると、いつも流れたあの曲。
その曲が流れだすと嬉しそうに彼女は歌い出すんだ。英語が得意な蓉子さんの口から、滑らかに歌詞が滑り出して来て……。
メロディも歌い方も優しくて楽し気で。
最初はその歌詞が切ない意味を含んでいるなんて分からなかった。
蓉子さんも、もしかしてその時考えたのだろうか。
その曲の歌詞のように『心の中にある想いを、目に見える形に出来たら良いのに』って。
後で探して、その歌詞の意味を知った時―――何て俺の心情にピッタリした曲なんだろうって思った。
今ではもう……その時の切ない様な焦燥感やもどかしい衝動は、すっかりナリを潜め、温かで優しい何かに形を変えている。
だけどこの曲を聞くたび―――俺の中にあの頃の甘やかな記憶が蘇るんだ。
そして今。
その気持ちが―――本当に真実、そう許しを得たような気持ちになった。
『それで良かった』のだと。
俺の判断も、恋心も……一滴の間違いも混じってはいなかった。俺があの頃彼女を好きになった思いは―――正しかった。そう改めて認められたような気がしたのだ。




