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お兄ちゃんは過保護  作者: ねがえり太郎
別視点 再び
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7.蓮(3)


俺が鍵を解除すると親父は無言で車の助手席に乗り込んだ。エンジンを掛けると狭い車内に、繋ぎっぱなしだった携帯音楽プレイヤーからジャズが流れて来る。狭いと言っても車高の高いゴツイ車だから比較的広い方かもしれない。スノボが趣味なのでやはりこういう雪に足を取られにくい車を選んでしまう。


「会社に送ればいいの?」


むっつりと偉そうに腕組みをしている親父に、こちらもぶっきらぼうに問い掛ける。親父の放った言葉は気になるが、不機嫌に黙り込む親父を宥めすかすのがどうにも嫌でならなかった。


「ああ―――でも、その前に」

「見合いならしないよ」


何だか苛々してしまって、話の腰を折るように急いで返答した。

嫌な予感がした。親父が振りまく怒りのオーラに、心の深い所で警戒音が鳴っている。


「蓉子の事だ」

「……」

「アイツが不倫なんかする訳ないだろ」


憮然として真っすぐ前を見て、腕組みをしたまま親父は呟いた。

俺の胸に正体の見えない靄のような物が湧き上がる。親父の言っている言葉の意味が、理解できなかった。


「でも離婚した後直ぐに結婚したよね?親父は蓉子さんと付き合っていたんじゃないの?」

「付き合ってない」

「そんな訳無いでしょ?付き合ってないのに、2ヵ月程度で結婚って。どう考えてもおかしい」

「確かに俺は蓉子を気に入っていた。柚葉とはその時はもう何年も碌に顔を合わせていなかったし、アイツは結婚前と変わらず気に入ったデザイナーにすぐに夢中になって入れ込むから、夫婦だなんて意識は薄かった。だから問題ないだろう、なんて軽く考えていたが―――だけど俺が少し冗談で好意を匂わしただけで、ゴミを見るような目で威嚇されたよ。懐かない猫みたいにな」


今まで親父から俺の母親の話が出る事はほとんど無かったから、辛辣と言うか事務的な物言いに『愛情の無い結婚』という事実を改めて実感する。そして結婚する前の蓉子さんが既婚者の親父のアプローチに嫌な顔をしていたと聞いて、驚くと共に不思議と胸がスッとするのを感じた。『ざまあみろ』って、思ってしまう。何だか若い頃の蓉子さんの、苦々しい表情まで想像してしまった。


「離婚した後、プロポーズしたんだ。それで漸く態度を軟化させてくれた」

「……本当は親父の事が好きだったって事?」

「『上司として尊敬している、経営者としては素晴らしいと思う』とは言われてはいたがな。まあ今思うと俺が適当に女遊びしているのも秘書として脇にいれば気付いていただろうし、奨学金で大学行って真面目に質素に暮らしてきた蓉子からすれば―――10も離れた素行の悪い既婚者の上司に遊び目的で手を出されては堪らないって考えても、不思議じゃなからな」

「下種野郎だな」

「……ああ、確かに。俺がアイツの父親だったら、そんな上司がいたら地獄をみせてやるって思っただろう。凛が生まれてから、改めてそんな風に思うようになった」


蓉子さんはシングルマザーの母親に育てられたと聞いている。貧乏だったので奨学金とアルバイトで大学を出たそうだ。彼女の母親は長年の無理が祟って、大学在学中に亡くなったらしい。


「じゃあ、何で蓉子さんは……付き合ってもいない上司の息子に構ってくれたの。貴重な休みまで潰して」


俺の中にあった前提がガラガラと音を立てて崩れている。


聞きたい。

聞きたいけど、聞きたくない。


きっと、蓉子さんは―――俺が最初思っていた通りの、俺が心底夢中になった蓉子さんそのままの人だったんだ。察しの良い俺は、うどん屋で親父が呆れたように放った台詞で何となく気が付いていた。


だけどそれを知ってしまったら―――俺が中学生の頃意地を張って蓉子さんに余所余所しく接していた……軽蔑さえ抱いていたあの頃が、全て完全な誤解の上で行っていた八つ当たりだったのだと、判明してしまう。いつも明るかった蓉子さんが時折見せた寂しそうな瞳。蓉子さんや親父の不貞の所為で俺が傷ついたって言う前提が崩れてしまえば―――ただ俺が何の罪もない蓉子さんを傷つけただけって事実が明らかになってしてしまうだけだった。


「それを俺に聞くのか?」


親父がゆっくりと……運転席でハンドルを握りしめる事しかできない俺の方に、顔を向けた。親父の視線にこんなに居心地の悪さを感じた事は無い。いつだって親父は傲慢で我儘な独裁者で―――俺はそれに反発心しか抱いていなかったから。


「お前の事が気に入ったからだろ?同情もあったかもしれない。アイツも子供の頃親が家にいなかったから、お前に自分を重ねたんだろう。柚葉が気まぐれでバスケの試合にお前を迎えに行くって言っておいて『やっぱり無理』だと直前で連絡して来た事があっただろ?いつものタクシーの担当が休みを取っていて、あの時初めて蓉子にお前を迎えに行かせた」


俺は頷いた。

その日の事は良く覚えている。物凄く鮮明に―――。


母親が迎えに来るって聞いて『どういう気の迷いなんだ』と素直になれずに苛ついていたんだ。けれども―――内心で気持ちを沸き立たせている俺がいた。偶に気まぐれに構って来る女に笑い掛けてやるもんか、なんて子供っぽい反発心で、母親に対する対応を想像しながら。母親から来れなくなったと連絡が来て―――思った以上にガッカリして傷ついている自分がいたんだ。連絡を受けた後暗い気持ちで一杯で、試合に身を入れる事が出来なかった。


そこに現れた蓉子さんの包み込むような笑顔を見た時、何だか無性に―――腹が立ってしょうがなかった。悔しくて悔しくて―――優しく接してくれる綺麗なお姉さんに、いつもどおりテンプレの綺麗な笑顔を返す事が出来なかった。


母親以外の女の人にそんな対応をした事は、俺にとって初めての事だった。

次の日は恥ずかしくていたたまれなくて―――だけど、それからミニバスに迎えに来るのが、タクシーじゃなくて蓉子さんの中古の軽自動車に代わる事が多くなって行って。当り前のように、俺は蓉子さんに心酔していった。


蓉子さんは俺の救いの女神だ。そう思ったし、実際そうだった。

おそらく知っている筈なのに母親や父親との冷えた関係には敢えて触れず、面白おかしい話ばかりしてくれた。仕事でやらかしてしまった自分の失敗談や、大学の頃の貧乏生活の事なんか。

すっごく楽しかったな。

そうして―――俺はますます蓉子さんに夢中になったんだ。


「お前を家に送り届けた後の蓉子に初めて叱られたよ。アイツはそれまで決して秘書としての自分の立場を踏み外す事は無かった。上司の俺から一歩引いた姿勢を貫いていたから―――驚いたし……正直、怖かった」


親父は再び前を向いて、懐かしむようにクスクスと笑った。


「10も年下の若い女の子に叱られて、呆気に取られちまった。いつも落ち着いていて感情を露わにするような事がほとんど無い―――大人びた奴だったから、まさかそんな事で上司に盾突くなんて思いも寄らなかった。俺、社長だぞ?下手したらクビだよ。アイツはお前を両親でほったらかしにしている事に腹を立てたんだ。俺も上司だし、部下に叱られて『はいスイマセン』なんて言えないから『じゃあお前がかまってやればいいだろ』って腹いせに言ってやったら『そうさせていただきます!言質は取りましたからね!』って言って……後はお前の方が詳しいだろう。俺も蓉子に叱られて以来、アイツに更に本気になってしまったんだが―――お前には甘い癖に、俺には手厳しかったな。少しでも粉を掛けると辛辣に返されてハイお終い。仕事は今まで通り、熱心にやってくれたが―――」


目を細めて昔を振り返る親父に、俺は喘ぐように尋ねた。


「何で……そんな状態なのに、蓉子さんは親父と結婚してくれたの」

「お前の為だろ」

「え?」

「お前の事を、本当の弟か息子みたいに思ってたんだろ。だから付き合ってもいない俺のプロポーズを受け入れてくれたんだ。まあ、半分はな。そうは言っても嫌いな相手と嘘で結婚できるような女じゃないから、本心では俺の事も憎からず思ってくれていたんだと……今は思うが」


そう言って、ニヤリと意地悪い微笑みを浮かべて。

親父はドスンと偉そうにシートに沈み込んで命令した。


「話は終わった。会社に車、回してくれ」

「……」


いつもなら嫌味をひとつ呟いてから、親父の傲慢な物言いに対応するのが常なのだが―――俺は体を起こし、無言でハンドルを握り直してアクセルを踏み込んだのだった。




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