ふたりぼっちにされた僕は
記憶というものは少し不便だと思う。必要な物事はするりと脳から気付かぬ間に出ていくのに、出て行って欲しいものほど、脳みそに居候してくる。じゃあどうやって追い出すかというと、その物事についてこれでもかというくらいまで考え抜くのがいい、というように知ったとき、あまりにも救いようがないと思って、忘れる方法を捨てたことがある。一度知ったもの、一度見たものというのは自分では覚えていなくても、無意識下に記憶を貯蔵しているために、全てをなかったことにしてしまうのはあまりにも困難なことなのだ。
日々は僕が望むように穏やかに流れていった。不満が募りやすいテスト期間も、大きな問題を抱えることもなく無事終了し、蝉の鳴き声がせわしなくなる季節が近づいてきた。周りの奴らは、どうやら夏休みのことで頭がいっぱいらしい。ずっと夏休みをどうやって過ごすかで、話題は持ちきりである。こういう時に本来なら友達と一泊二日ぐらいの旅行をして、友情を深め合うのだろうが、あいにく僕にそのような関係の奴も、そうなりたいと思う奴がいないため、家でのんびり過ごすことになりそうだ。本当の平和が始まる。何も気を使わなくていい。何も気にしなくてもいい。何も無理して周りに合わせる必要もない。僕が没個性になる必要がない。
夏休み。なんと良い響きだろう。やっと誰とも会わなくて済むのだ。やっとまたあいつと向き合える。
しかし、この時期には先にやらねばならぬことがある。
「文化祭の出し物を考えていきたいと思います。案がある方は手を挙げて発言してください。」
学級委員が仕切って、周りの奴らは楽しそうに案を出す。どれもこれも似たような案だ。どれだっていい。どうせ僕が目立って行動するわけじゃない。
結局展示と劇をすることになった。別に僕はどちらでもよかったが、展示のほうが目立たないだろうと思い、そちらを担当することとなった。何を展示するか話し合い、その日は終わった。
次の日から皆がわくわくしているのか、夏休みのことよりも、文化祭のことが話題となった。展示物のチームは何班かに分かれて、制作することになり、僕がいる班に××もいた。たまたま僕らの班はかなりやる気のある奴らが多かったため、早速買い出しに行こうということになり、放課後に班のみんなで買い出しに行った。
放課後を誰かと一緒に過ごすことは杞憂しかなかった。会話を楽しみつつも、妙な息苦しさを覚える。楽しくないわけではない。だが逃げ出したくなる。特に無言になったら、そこから走り出してどこかの片隅に座り込み、小さくなって縮こまりたくなる。ただでさえ学校では一人の時間がないというのに、こんなにも長い間誰かと過ごすのなら、どこかで息継ぎしたい気分だ。
隣町の大型デパートへ向かった。中で必要なものを揃えていく。僕はただ付き添っているだけであった。横から偉そうに口出しもしないが、だからといってかごを持ってあげるほどの優しさもない。急にふっといなくなったって誰も気付かないだろう。僕なんかがいなくたって、少なくともこの買い出しに関しては問題ない。けれども逃げ出そうと試みようとも思わないのは、不思議なことだとも思う。息苦しいという理由と脱走可能という条件が揃っているのに、そんなことを起こそうとする気すら出てこないのは、平穏第一というよりは、むしろ何事においても面倒だという感情が強いからか。
帰り道、各々が散っていき、電車の中に残っているのは、とうとう僕と××だけになった。僕らは空いている席に移動し、一人分よりはいくらか小さいが、その程度の距離を空けて座った。
沈黙が僕らを支配し、がたんごとんという単調な音が響き、長閑な風景が目に映る。これといって話すことがあるわけでもない。話したいことがあるわけでもない。さっきまで、班でどうやって会話をしていたかわからない。向こうも窓に目をやったまま動かない。僕らはまるで赤の他人同士のようであった。いつまでも続きそうな沈黙に、どうか早く駅に着きますように、と祈るしかできなかった。
「ねえ“キミ”。」
いつの間にか、彼女は僕の方を見ていた。あどけない瞳が、僕をじっと見つめてくる。
「”キミ” は一体何のためにいるんだい。」
あまりにも唐突すぎる質問だと思う。そんな真意を汲み取ってか、彼女はさらに続ける。
「ねえ“キミ”。”キミ”は一体何の役に立ったんだい。たわいもない話に適当に話を合わせるくせに、肝心の文化祭についての議題には一切干渉せず、かといってかごを持つわけでもない。なんの役にもたっていない。そのことに対して幾分の反省もない。それなのにどうしてぼけっとした顔でいられるんだ。“キミ”の存在意義を何が肯定しているんだい。」
嫌味ったらしい皮肉。とても面倒だ。こいつにどうしてそこまで言われなきゃならないのだ。ほっといてくれよ。どうだっていいじゃないか。役に立たなかったのは確かに悪い。議題に参加しなかったのも僕が悪い。けれど、僕の存在意義に関して他者から言われる筋合いはない。僕の存在意義は僕でしかないのさ。他人なんて知らない。
「あの時も“キミ”はそうだった。“キミ”は何処かで聞いたことのあるフレーズを、適当に並べただけの言葉を吐いた。私に投げつけた。私は他人の言葉を聞きたかったんじゃない。“キミ”の考えを“キミ”の言葉で聞きたかったんだ。“キミ”に意志というものはないのかい。本当に“キミ”はつまらない奴だ。」
察するに、あの時というのは入学当初に質問された時のことだろう。本来ならこんな風に怒られていても、適当に受け流していただろう。だが一瞬の気の迷いだった。その時彼女の言葉がなんらかの形で、僕に突き刺さったのだ。
「随分と勝手だな。どうして僕がその質問に対して、僕の考えを僕の言葉で提示する必要性があったのだ。それは僕の自由だろ。勝手に期待して、その期待に応えなかったからといって、そんな風に言われるのも迷惑なんだよ。」
そうしたら彼女は突然とびきりの笑顔で、こう呟いた。
「やっと剥がしたな、化けの皮。」
僕はその顔を忘れることができない。