受身と使役の関係
人の話を聞いて歩いてきたつもりなのに、どうやら道に迷ってしまった。どんなに目的地の場所を聞いて教えてもらっても、全く着かない。でも本当は目的地がどこにあるかは知っている。目も耳も塞いで、温かいものを感じる方へ歩けば、たどり着くのだ。だけれども、どこにも温かさが見つからない以上たどり着けないのだ。
家の鍵を開け、部屋の電気をつける。今まで洞窟のような空間だった世界に、途端に光が支配する。今はそんな気分じゃない。もう一度電気を消し、そのまま部屋の中へ入った。荷物を置いてふうとため息をつく。足はキッチンへ向かい、冷蔵庫の中身を確認してみた。今日は魚の日だなと呟きながら、幾つかの野菜を取り出し、粗っぽく切っていく。
心はどこにも見えないから、何かに投影される。投影されるものはなんでもいいわけで、つまり料理にでも投影されるわけである。だからそうじゃないように誤魔化しを入れる。自分の作る料理に嘘をつく。だって正直に言ったところで何も変わらないから、嘘をついたってなんの問題もないだろうと、そんな言い訳をしてみたり。要は暇なのだ。暇だからあれこれと悩んで、悪い方向へと考えてしまうのだ。だからわざと頭の体操のように脳内を忙しくさせて、考えるべき重要なことを後回しにする。逃げてしまう。どうせいずれ考えなきゃいけないことだから、つきまとわれることに変わりはないのだろうけれど。それは水面下から必死に呼吸するために、水をかき分けて顔を出すような作業と変わりない。結局身体はまた水面下へと落ちていくのだ。
冷蔵庫から肉を取り出して、焼き始める。その間に普段着に着替え、それから野菜を炒めた。
ドアが開いて、母という名の人が入ってきた。ただいまとおかえりを交錯させる。家に帰ってきた瞬間に、あれがなってない、これをこうしておいてって言ったでしょ、だなんだと次から次へと文句が飛び出してくるものだから、聞いてる側としては嫌になる。家事をやってあげてる身なのにどうしてここまで言われなきゃならないのか。
晩御飯を食卓に並べ、二人で食べた。たわいもない話を聞き、適当に返事する。誰かの悪口は神経をすり減らし、嫌味ったらしい話は心を抉る。聞かなきゃ面倒なことになるから、曖昧な返事をするしかない。
いつからこんな仲になったのか、憶えていない。物心がついたときからだった気がする。母も父もずっと働いていて、私なんかにかまってる暇なんてなかった。ずっとそう言いつけられて育ってきたし、そういうものだと思い込んでいた。
母は体裁を気にする人だった。母のしつけは全て母の体裁をよくする、もしくは悪くならないようにするためのものだった。母が怒るときは決まって、そうでなければ恥ずかしくて街を歩けないと言うのであった。私のために注意するのではない。身を守るためだけに怒るのだ。そのことに気づいた時、私は装飾品だと思った。道具の一部だと思った。母は私によく結婚して、子供を産みなさいという。そうでなければ老後の面倒を自分で見なきゃいけないからって。母が私を産んだのは、私に老後の面倒を見させるためだったのだろうか。私はなんのために産まれて、なんで生きているかわからない。母がなんで私を産んだのかもわからない。子供がほしいと思って産んだのか、それとも快楽の副産物なのか。なぜ子供が欲しいのか。
産んであげたということと産まされたという事実。
母は言う。
この家で産まれて育ててもらってるんだから、家に奉仕することは当たり前でしょ。
私は生まれたくて、生まれてきたわけじゃない。