幽霊は人間になれない
遠い世界へ想いを馳せる。町並みや景色は少しずつ変わり、思い出の場所も色を変えていく。決して思い出とならないであろう日常が、一瞬一瞬として切り取られていき、手のひらに集まった欠片を想い出という名前をつけて、捨てられずにいる。
彼が今までに使っていたものを、一つ一つ見ては閉じ、見ては閉じ、繰り返していく。凪のような心は荒れることもない。
机の下にある引き出しの一番下の段に手を伸ばす。中からは小型の一眼レフが出てきた。中身を見てみると、空の写真だけだった。青空も夕焼け空も夜空も、似たような空が数百枚撮られていた。
一枚一枚よく撮られているものだと思うし、綺麗だとも思う。けれど、大した違いを見出せないために、これほどまでに撮る必要性がわからない。単に私には見る目がなく、価値のあるものには見えないだけなのだろうが。日付は一昨年でとまっていた。ということは、高校に入る前だろう。
確かに彼はよく空を眺めていた。その度に私も彼に倣って空を見上げた。ずっとを見つめていると、雲や星が近くにあるように思えてくる。手を伸ばせば届きそうなのに、もちろん頭の中では届かないとわかっているから、わざわざ伸ばすことはないけれど、距離感に違和感を覚えて、もどかしくなる。途中で飽きて彼を見ると、いつもまだ空を眺めていた。
何か空に思いがあるのだろうか。
階段を下りて部屋に入ると、彼の母親はリビングで、テーブルに肘をつき、頬に手を置いてテレビを見ていた。いやテレビの画面の奥をぼんやりと見つめていた。まだ目は少し紅く腫ぼったい。
「あの…」
私が言うと、すぐに振り向いてああと返事をした。少しお話がしたいという旨を話すと、彼の母親は受け入れ、お茶を注いでくれた。
「前から聞きたかったことがあったんです。」
座りながら私は話した。
「なぜ、この高校に行かせようと思ったのですか。」
私の高校は可もなく不可もなく、平均程度の学校である。彼の家から、この学校に通うぐらいなら、彼の地元にも同じレベルの学校はあるはずなのである。それなのに、わざわざこの学校に来た理由を前々から気になっていた。
「ただあの子がこの学校に行きたいと言ったから、行かせたまでよ。」
カップを持ち上げながら、彼の母親は答えた。
「じゃああなたは彼がこの学校に行きたいと言った理由を、何も知らないんですか。」
「直接的にはね。ただなぜあの子がそうしたのかはなんとなく推測することはできるわ。」
「じゃあそれを、それを教えてください。」
その理由が手掛かりになると思った。けれど、どうせ大したことのない理由だろうと思った。笑えるほど、呆れるほどくだらない理由だと思った。
「あの子は、心を失ったのよ。」
言葉を飲み込み、咀嚼してみたが、頭の中で織りなす感情は何もなかった。いやその言葉で突然空虚になった。
「大事な人に対する想いだけが、心を認識することができるのよ。」
途端にあっけなく感じた。結局彼が失ったものは、幸せの上に置かれていたたった一つのものなのだ。それによって彼がどういう風になったか知らないけれど、幸せな悩みじゃないか。くだらない。本当にくだらない。笑えないほどくだらない。私には全くわからない。
「そうですか。」
まるで重く受け止めたかのように言う。その行為に特に意味はない。
さっきまでの彼に対するやる気はどこかに消え、いつものようにぽっかりと穴が空いてきたので、また詰め物をした。
それなら私だって最初から心なんてなかった。そもそも心を見つけたこともなかった。私に心があるとは思えなかった。
カップを手に取り、飲みほす。お茶の味なんてわからなかった。微かに鼻腔を擽る香りが、お茶を飲んだということを感じさせる。
ごちそうさまでしたと消え入るような声で、悲壮感たっぷりに言う。
急に笑いたくなった。
「今日はありがとうございました。」
まるで独り言のように響いた。静かに礼をし、バタンとドアを閉める。そして勢いよく走った。自分が力つきるまで、笑いながら全速力で走った。距離にして二百メートルもしないうちに、はあはあと息がきれる。
ははっ 。
馬鹿だ、彼も私も、嘘っぽい。