僕らしいって何ですか
出る杭は打たれる
こんな諺がある。それはきっとこの言葉を残した誰かは、自分のことで何かトラブルが起きてこう思い、また他者もそのことに共感し、現代まで残っているのだろう。
特別なものなんていらない。普通でいい。
学校生活での一番最初の合宿行事として、オリエンテーション合宿があった。班は先生が決めていて、男女混合だった。昼間はレクリエーションなどが催され、僕にも話せるぐらいの仲の奴はでき、それなりに楽しんでいた。女子とも会話を交わし、穏やかであることの平和さを噛み締めた。
うまく人間関係を切り抜けていくこと、それが僕に求められた。いやきっとそれは僕だけじゃない。だけど、なんの取り柄のない僕が、生き延びるために必要な方法なだけ。人気者には自然と周りに人が集まる。何にも考えなくても、無意識にできる能力。羨んでも手に入らないから、僕ができることをやるだけ。それは簡単なこと。何も期待せずに、ただただ穏やかであることのありがたさに、感謝すること。たったそれだけ。そうしてればなにも困らないと、過去の僕は今の僕に告げる。
過去の経験を生かすということを、どんな生物でも無意識あるいは意識的に行う。それを人間は<学習>と名付けた。学習に学習を積んだ僕らはいったいどこへ向かっているのか。最終目的地はだれもが平等に、必然的にたどり着くわけで、その過程をどう寄り道するのかをあいまいに考えているだけなのではないのか。目標や夢なんかを創造するから、まるで本当のことを知っているようなふりをして、それに到達するための一本道のルートを構築して進んでいるように見せかけるから、そんな勘違いを起こすのではないか。いや待てよ。人を二分割する方法として、過程重視か結果主義かという区別がある。ということは彼らは前者で、僕が後者というわけか。
くだらない論理を考えながら、僕は彼らと会話し沈黙になれば、だれかが必死で話題を提供するという至極初期のころには起こりうる光景を創りつづけた。
夜は外に出て、学年全体で星を見ることになった。あいにくの天気だからか、それともそこまで田舎ではないからなのか、大して星は見えなかった。観察する時間を先生は設けたが、周りは喋ることに夢中のようだ。どうやら夜だからか、テンションがみんな高い。僕は空を見上げた。
薄く雲がかった青鈍の空と、まばらにちらつく星。
ずっと見ていると、自分という存在が空に吸い込まれる。途中まで浮かび上がるけれど、途端に空が青鈍の壁となり、僕を地球に押しとどめようとして、また地面に足がつく。そんな浮遊感を僕は頭の中で、繰り返していた。
僕だけの世界。
「ねえ"キミ"、星が好きなの。」
いつの間にか、××は隣にいた。
「びっくりした。驚かすなよ。まあ、星は好きだよ。」
彼女は首をかしげながら、でもどうでもいいといった様子で、そっかと呟いた。そして空を眺めた。
青鈍の空とまばらにちらつく星。
僕も空を見上げた。素直に綺麗だと思った。満天の星空なんかより、風情があるように思えた。今までで一番きれいな空だと思った。
その時僕は、僕だけの世界を××と共有した。