戯言にさせないために
お互い素直じゃないのに、お互い正直すぎて崩れてゆく。積み上げてきたものが一体何だったかわからないのに、残骸を見て失望する。
「お気に入りの場所」を見つける手がかりとして、彼の家に行った。インターホンを押すと彼の母が出て、家に入れさせてもらうことができた。
彼女とは葬式以来となる。
「いらっしゃい。」
あれから彼女は老けたようだ。白髪が急に目立ち始め、皺も増え、目は赤く、隈ができていた。身体は水分が抜けて、萎びているようだった。
「部屋に入ってもいいですか。」
彼が生きていた頃、私は彼の部屋に入ったことがなかった。どうぞと許可をもらった。
「お邪魔します。」
私は深々とお辞儀した。
彼がかつていた場所。懐かしい日々と、惨々たる事件が入り混じって少し気持ち悪くなった。部屋にある芳香剤の香りだろうか、妙に甘ったるく絡みついてくる不愉快な空気が、余計に気分を悪くさせた。彼女の光のない目で、ギロッと私を眺める。まるで私から彼の気配を探しているようだ。
そんなもの、どこにもない。
今日、ここに来たのは間違いだった気がする。まだ早すぎたかもしれない。なんて言ったって、葬儀から一週間しか経っていないのだ。そんな時に、私なんかが来たらどうなるのか。でももう遅い。気づかないわけないだろう。そうされてもしょうがないと自分でも思うから。
私は後ろを振り向いた。急に私が振り向いたからか、彼女はさっと隠し、少し動揺する。
少しの静寂は余韻を醸し出す。
「ごめんなさいね。」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「別にね、あなたを恨んでいるわけじゃないのよ。むしろ感謝してるわ。あなたは私の息子と仲良くしてくれた、とてもいい子よ。ええ、それはわかっているのよ。こんなことをしても、あの子は喜ばないし、帰ってこない。ちゃんとわかってるのよ。でもね、でもね、どうしてなの。あなたはあの子の隣にいたのよ。それなのにどうしてなの。どうしてあの子だけ死んで、あなただけは生きているのよ。ねえ、どうしてなのよ。」
彼女は私を揺さぶった。私が何も言わないでいると、彼女は泣き崩れた。からんと鋭利なものが滑り落ちる。なりふり構わず泣き噦る声だけが響いた。子を思うがゆえに見失いそうになる親。彼が何も知らないで受けてきたものを、無防備な私は浴びせ続けられた。哀しいくらい浴びてしまった。
失敗したな。もう泣かせたくはなかった。彼のことで苦しむ彼女は苦手だった。しかし、私には彼女に希望を持たせるような嘘と幻想は持ち合わせていない。ただただ彼女を見下げることしかできなかった。
二階へ上がると彼の部屋があった。全く知らないのに、懐かしいような気がした。机に向かっていく。シャーペン、消しゴム、赤ペン、ノート。どれもよく使い込まれていた。机の辺りから手がかりを探そうとするけれど、これといったものはない。
彼の「お気に入りの場所」はどこだろう。
彼は何を好んでいたのだろう。
彼と関わって、そう短くはないけれど、特別に長いわけではない。お互い何も話さなかった。うわべだけの、だれも傷つくことのない、穏やかな会話。きっと彼と私はこれを望んだ。
彼がかつて座っていたであろう、椅子に座る。頬杖をつき、少し顔をを右に向けると、窓があり、薄く光が差し込んでいた。 こうやって彼も空を眺めていたのだろうか。
彼はよく空を眺めていた。ことあるごとに眺めていた。私も彼の真似をして空を眺めると、空の青さに吸い込まれそうになったり、逆に青さが障壁となって地球という場所に、自分が閉じ込められているような気がした。
よく空や海の広大さに圧倒されて、自分はちっぽけだと感じる、という風に言う人がいるが、そんなことは一度も感じたことはない。
ただいつも胸にぽっかりと穴が空くだけだ。穴が空いたままだと、冷たいものが溢れてきそうになるから、その度に嘘で蓋をするだけ。たったそれだけだと思えば、なんということはない。
彼は何故あんなにも空を眺めていたのだろう。彼は何を想い、何を胸に、生きていたのだろう。
私は彼を知らない。いや知ることから逃げてきた。知りたくなかった。知って傷つくことがあるなら、何一つ、知りたくなかった。二人で過ごした時間や思い出がはっきりとあるわけじゃない。気付くといつも私のそばにいた。あまりにも日常的すぎて、そのことに慣れてしまった。誰かがいつもそばにいるということの異様さと、いつか失うかもしれないという恐怖を忘れていた。決して忘れてはいけなかったことを、当たり前の日常は壊してしまった。
もう"キミ"はここにいないから。
もう私の隣にいないから。
彼のたった一つの言うこと、聞いてあげようか。
だってそれが彼の最期の言葉だったから。