僕は中途半端な甘さでできている
「ねえ、私と取引してよ。」
ある日、僕はある女の子に呼び出された。待ち合わせ場所は以前僕がその子を呼び出したところだった。今日の授業がすべて終わり、皆が帰宅していく中、僕は待ち合わせ場所へ向かった。
彼女から呼ばれる用事は皆目つかない。あれやこれやと頭をひねってみても出てくる気配はないから、無心に階段を上る。目的地に着くと、すでに彼女は来ていて壁にもたれかかっていた。
「やあ、待ってたよ。」
「何の用だ。」
僕はその場でそう言った。すると彼女はその台詞を言った。
「何の取引だ。」
「君の知りたいことを教えてあげるよ。」
いたずらっぽく笑う彼女は僕に近づいて来た。僕と彼女の距離はおよそ30センチ。完全にパーソナルスペースに入っている。恋人との距離関係だ。
このまま下がってしまえば階段だし、なんだか癪だったので、僕は動かなかった。
「知りたいこととは。」
「君は××の過去のことについて、知りたがってるでしょう。だからそのことを教えてあげる。」
にっこりと笑う彼女に僕は嫌な予感がした。とにかく彼女との距離が近い。息が詰まりそうだ。
「確か君は彼女の過去について、詳しく知らないのじゃなかったっけ。」
「ええ、確かに私自身は知らないわ。だけれども私は彼女の唯一の幼馴染なのよ。小学校も中学校も同じだし、教師も友達も知っているわ。そこと連絡を取ることも容易なのよ。利用しない手はないでしょう。現に、君は私を使って彼女の情報を聞き出そうとした。どうかな、この取引。」
苦しげに出した僕の声とは対照的に、彼女の声はよく通る。彼女はさらに近づいてくる。
「要求は何。」
彼女の足は止まる。15センチ。
「私と付き合ってよ。」
彼女は上目遣いで僕を見つめてくる。
僕はこの光景を知っている。既視感を覚える。日々薄れてゆく記憶を、少しだけ忘れなくさせたこの状態を脳裏から離すために、やっと距離をとった。少し乱れた呼吸を戻しながら、言葉を紡ぐ。
「つまり、貴女はその、僕のことが好きなのか。」
他人から好意を受けることは気持ち悪く、照れ臭く、むずがゆい。ましてやそのことを他者に確認するのはなおさらである。
「うん、好きだよ。」
やはりむずがゆい。相手の顔を見れなくなる。僕の中にその言葉が身体中を駆け巡って、むずむずさせるのだ。
「だったら、こんな取引の条件に使わずに告白でもすればよかったじゃないか。」
ふうと小さく彼女は溜息をついた。壁の方に戻ってもたれ、けれども身体は僕と対面するように向きを変えた。
「もし告白したら、付き合ってくれたの。」
呆れたように言う彼女に申し訳なかった。まさにその通りだった。
「付き合わなかったね。」
「でしょ。わかってたよ、そんなこと。だからこうしたの。だって君の中に私はいないもの。」
これだから彼女と話すのは苦手だった。いつだって僕の予想もしない真理を発言する。そして僕は何も言えなくなるのだ。
「私は××になりたい。可能なら××を超えたい。彼女はいつも私の欲しいものを取っていくの。私がどんなに頑張っても私は得ることができないのに、彼女は簡単に手にしてるの。いつだってそう。今回だってね。」
合わせる顔がない。ちらりと様子を伺えば哀しそうに笑っていた。
「貴女は××になるために僕と付き合うというのか。」
「もし付き合えたら、それは彼女を超えることになるだろうね。だって君の中に私が存在するだけでなく、付き合えるのだもの。彼女は君とは付き合ってないわ。」
この申し訳なさをどう扱えばよいのだろう。誰も悪いわけじゃない。たまたまの運と生来の性質の問題なのだ。
「別に××にならなくても、貴女は貴女のままでよいのに。」
「でも私が私のままだったら、君は振り向くどころか君の世界にすら入れてくれないでしょ。」
「僕の世界ってどういうこと。」
「君は私のことを名前で呼ばないじゃん。いつも“貴女”と呼ぶ。それって私以外の他者と区別してないってことでしょ。だから誰にでも当てはまることのできる二人称で呼ぶんだよ。本来名前というのは個体を区別して認識するためにつけるものなんだよ。それなのに君は私を他者と区別しようとしない。それは君が生きている主観的な世界で、私という存在は一般的な他者であって、特定の人物だと認識してないからだよ。でも君は××のことは“××”と呼ぶ。それは君にとって××が特別な存在だと思ってるからだよ。」
「けれど、貴女だって僕のことを“君”と呼ぶじゃないか。」
「それは××が君のことを“君”と呼ぶからだよ。何事も彼女の通りにしようと思ったの。」
この子の人生はずっと××と比較していくものなのだろう。常に自分よりも上の存在が目に前にいる。嫌という程に見せつけられていくのだろう。どれだけ自分が頑張っても、全然努力していない人が自分よりもよいものを手にしてゆくのだ。それをずっと体験してきたのだ。けれど…。
「それは二番煎じでしかないのに。」
自分らしいや個性がこの世に存在するか、価値があるかわからないけれど、それでも。
「そんなの、しょうがないじゃないか。」
今まで溜め込んでいた不満や言い知れない辛さや怒りが爆発したような声だった。
「どんなに頑張ったって私は××になれないし、どんなに私が君に話しかけたって、君にとってはずっと私なんてどうでもいい他人だったじゃん。強いていうなら利用価値があるかないか、特定の個人ですらなく道具として使えるかどうかだけだったじゃん。だったら君の中で特定の個人として区分されている××になりきる以外にないじゃない。君、この世で一番辛いものって何か知ってるの。それは自分に対して無関心でいられることだよ。例え君が私に対して、恨みや怒り、負の感情を抱いていたっていい。それでもいいから、君の世界の中で生きていたい、存在していたい。」
彼女は僕に抱きついた。隠すように彼女は下を向いているけれど、僕は彼女が泣いていることに気づいている。
「せめてさ、私の名前だけでも呼んだよ。」
声は明らかに震えていた。抱きついている腕に少し力が入ったのもわかった。
僕は小さい子をあやすように、彼女の頭を撫でた。
「ーー川崎。」