“キミ”に対して無関心でありたかった
一番彼が好きなものは何かと尋ねられたら、やはり空と答えるだろう。いつも彼は空を見ていた。空を眺める彼の眼差しはいつも真っ直ぐで、透き通っていて、悲痛だった。きっと亡くなった彼女の事を思い出しているのだろう。ということは彼は彼女が亡くなってから、いや彼女に好意を持ってから自らが死ぬまで、ずっと彼女に囚われていたのか。本当にすごいと思う。そこまで誰かに対して想いを抱けることも、誰かに抱かれるほどの魅力を持っていることも。
だって私は……。
彼が亡くなってからとうとう二週間が経った。最初の方はクラスメイトの一人が亡くなった、という事実に対して狼狽し悲しんでいた残りのクラスメイトも、段々落ち着きを取り戻し、次第に今までと変わらない雰囲気になっていった。違うのはいつまで経っても座られることのない席が一つあるだけ。決して彼の存在が忘れられた訳ではないけれど、結局彼の死は数日ほどの狼狽程度で済んでしまうのだ。
それでも彼にはずっと悲しんでくれる人がいる。そんな人が一人でもいてくれたら、この世界で生きてきた甲斐があったろう。
教室に入り、鞄を机の上に置いて自分の席につく。誰も私が教室に入ったことに気付かず、おしゃべりを続けている。鞄を机の横に掛け、一時間目に必要な教材を机の中にしまい込み、両腕をついて、体重の粗方を乗っける。
人の口から放たれた言葉は黄味がかった靄となり、空気で薄められ、色が淡くなってゆく。けれども、次から次へと放たれた靄はとどまることを知らないようだ。ぼんやりと靄が放たれていくのを眺めていると、澄んでいた空気に薄黄色の汚れた靄で満ちていき、それが呼吸する自分の口に入ってくる。周りは靄が口にのそのそと入っていこうがお構いなしに、楽しくお喋りをしている。私はどうして出来ないのだろう。皆には感じないのだろうか。
この空間から逃げるように、顔を机に伏せて眠っているふりをした。むしろできれば眠れるように努力した。
予鈴の音で起こされ、手を上げて伸びをした。頭に重くのしかかっていた憂鬱さは大方晴れ、寝起きだからかうっすらと残った重み程度となっていた。教室に先生が入って来て、授業が始まろうとする。私は机から教科書を出そうと、手を伸ばして掴もうとすると、くしゃっと音がした。とりあえず教科書を机の上に出し、ぼんやりした頭を下げて机の中を見ると、紙が入っていた。それは手のひらの大きさもないくらい小さな白の紙に、私の名前と招待状という文字が書かれていた。号令の起立という声が鳴り響いたため、急いでその紙を教科書の上に置いて立ち、皆と同じようにした。席について紙を机の中に投げ込み、授業を受けた。
授業が終わって先ほどの紙を机から取り出し、もう一度見てみる。当然のことながら文字が変わるわけもなく、丸字寄りの字体で私の名前宛のままだった。
私のこと、見えているんだ。
そのことがとても新鮮だった。誰かが紛れもなく私に目を向けている。私が生きている世界に干渉しようとしている。私が他者に干渉しようとしたのは“キミ”だけだったけれども、それも自分からだった。誰かが自らの意志で私の世界に踏み込んでくる人は初めてだ。
招待状を開けて読んでみる。
『あなたは“お気に入りの場所”を知りたくないですか。私はそれが何処か知っています。もし知りたければ、お教えしましょう。もちろん、そんな簡単には教えません。まずはあなたの意思を聞きましょう。あなたの意思を紙に書いて、教卓の中に入れてください。謎の女より。』
何故この女は私がお気に入りの場所を探していると知っているのだろう。彼は私以外の人にも、お気に入りの場所を探すよう伝えたのか。それにしても何故私にも聞かれたと考えたか。私がよく彼と居たからか。だとしても、この女は私がお気に入りの場所が何処かわかっていないことまでも知っている。何故だ。
「××、何見てるの。」
振り返ると、小学校からの幼馴染だった。
「何これ。」
私のあっと声がこぼれるは虚しく響き、ひょっと手から紙を取り上げられた。仕方なく取り返すのを諦めて、読み終わるのを待つ。。そもそも私に誰かが話しかけるなんてほとんどないことだ。幼馴染といい招待状といい、今日はやけに周りに見えているらしい。幽霊じゃないみたいだ。
「ふうん。変なの。何かの悪戯なのじゃないの。」
「そうなのかな。でも何のためにこんなことするの。」
「さあね、遊ばれてるのじゃないの。まああんまりその手紙を気にする必要はないと思うわよ。」
そう言いながら、彼女は招待状を私に返した。この手紙は悪戯にしてはすぎてると思った。何より、どうして私が探しているということを知っているのか。この謎の女は一体何者なのか。
「ねぇ、“お気に入りの場所”探してるの。」
私が手紙をじっと眺めていたせいか、彼女は訪ねた。私はこくりと頷いた。
「お気に入りの場所って普通自分で見つけるものでしょ。」
「私のお気に入りの場所じゃないよ。」
「じゃあ誰のお気に入りの場所なの。」
私は黙った。すると彼女はわかったようで、あいつねと言いながら、席に座られることのない机を眺めた。
「何であいつの“お気に入りの場所”を探しているの。」
「わからないよ、自分でも。」
本当にその言葉に限ると思う。たまに理由が頭に浮かんでは次の日には消えている。本当の目的なんてきっとどこにもない。それでも。
「私、後悔したんだ。彼から“お気に入りの場所”を当てたらいいものをあげるって言われたけど、興味なかったからないがしろにしてたの。そしたら答えも言わずにいなくなっちゃった。あの時、ちゃんと考えればよかった。それに私は彼のことを何も知らない。だから少しでも知っておきたい。特別な理由なんてないけれど、何となく知っておきたいと思うから。」
その声は自分でもわかるくらいいつになく小さくて、途中途中どもった。それでも思っていたより発しようとする言葉は流れ出てきた。もやもやとしていて、何かわからないぐちゃぐちゃな気持ちは、案外誰かに話してみると、整理されて言葉になってはっきりと意味を持ち始めるのかもしれない。
「じゃあ早く知りたいですって書かなきゃ。ほらほら早く何か紙出して。善は急げだよ。」
言われるままにおろおろ白い紙を取り出し、書いていく。
「よしっ。じゃあ行くよ。」
彼女は私の手を引っ張って、教卓へ向かう。しかしそこで止まらず、そのまま教室を出ようとした。私は教卓を通るすきに紙を入れて、教室を出た。
「ちゃんと入れられたの。」
彼女は最初からそのつもりだったらしい。私はうんと頷いた。
「なんかこうやって二人で話すのは初めてだね。」
彼女は壁にもたれながら言った。
「そうだね。小学生からずっと一緒だったのにね。」
私も彼女の真似をして、壁にもたれた。こんな風に誰かと話すことがあるとは思ってなかった。ましてや幼馴染とだなんて、想像できやしなかった。
「玲奈から話しかけてきたことなんて初めてじゃないかな。」
「そうだっけ。まあそれこそ××が私の名前を呼んだのは一体いつぶりかな。」
お互い顔を合わせてくふっと笑い合った。人の名前を呼んだのも、誰かと心から笑ったのも一体いつぶりだろうか。
「じゃあその“お気に入りの場所”探し、私もやるよ。」
「えっ。」
「だって気になるじゃん、あいつのお気に入りの場所。私も探すよ。」
それは革命であった、ビックバンであった。星々がきらめく青と黒が混ざったな宇宙の中で、私はずっと一人立っていて、白の線が私の足元をある程度の余裕を持って円を描いていた。そこに不意にれいなが現れて、白い線を踏んだ。するとそこから無数の白い細々とした星のかけらが飛び出して、足元の白の線が広がって、私と玲奈を囲むような大きな円に変わった。私の驚く顔に微笑む彼女の顔が向かいにいる。
頭の中で広がった世界の中の彼女と、現実世界の彼女の顔が重なり、意識を現実に引き戻した。
「ありがとう。」
まるで私は人と対等になったかのようだ。誰かが無関係の私に手を差し伸べてくれている。これ以上ない幸福と、その反動による動揺と不安が押し寄せてくるけれど、それをたった一言でしか表せなかった。けれど今はそれでいい。幸福は通り雨みたいなものだ。