“キミ”と怖いもの
お化けや妖怪といった類は元々人の自然に対する畏敬から生まれたらしい。超常現象を与える、普段との変化を与えたもの、つまり化けたものというところかららしいのだ。目に見えないものは人に恐怖を与える。しかしそれと同時に好奇心も生まれてくる。だから古来に誕生したのにも関わらず、現代にも色艶やかに生きている。人という生き物は怖いものを知りたがる傾向があるのだ。
席に着き、彼女が話すのを待つ。彼女はお茶を入れてくれてから、沈黙だった。けれどせきたててはいけない。彼女が話せるようになるまで、待つしかないのだ。
もくもくと沸き立った湯気が揺らめくようになり、手で触ってみるとちょうど良い温かさになったいた。マグカップを口に運び一口含むと、口いっぱいに香りが広がり、甘みとうっすら渋みを感じた。ことっとマグカップを置く音がなる。この閉鎖的空間がより一層音を響かせた。
顔を合わせるのは基本的に慣れていない。向き合うのは苦手だった。どこに顔を向けていいかわからなくなる。だからいつも俯く。
テーブルは木でできているようで、年輪の模様があった。じっと見ていると、不気味なぐにゃぐにゃした生き物に見えてくる。何かの動物のようにも見えるし、人の顔にも見える。そしてだんだん見続けていると、線が動いていて絶えず顔を変化させているように見えてきた。様々に変形していき、それは具体的なものとして受け取れず、抽象的な「そこにいるもの」でしかなかった。
ゆらゆらゆらゆら、揺らめいている。
それは自分を見ているようだった。輪郭がなく、掴みとれない。異様な物体。そこにいることだけは確かで、けれどそれは何と評すにはあまりにも確固たるものがない。掴み取ろうとしても空を切る。手の中には何も残っていない。
人間の体は容器だと思う。容器の中に感情の一つ一つや理性などの丸い物体が入ってて、それを口から取り出すことで、誰かに伝えるのだと思う。私は口に手を突っ込んでも何も出てこない。空っぽだ。容器は透明だから何も中に入っていなかったら、背景と同化してしまう。そこにいないように見える。まるで幽霊みたいだ。ふわふわしている。概念しかそこに残っていない。
幽霊は怖い。目に見えないから怖い。目に見えないものは、それがどういうものかわからないから怖い。何一つ違わずに、理解することができないから怖い。
それは容器も一緒だ。相手の容器も空っぽなら見えないし、入っていたとしても入っているということは物体の色が見えるからわかるけど、それが一体何なのかわからない。口から出してもらわなきゃ、目に見えない。丸い物体が初めて外へ出されて目に映った時、やっとその人の一部を知る。知ったような気になる。本当はその物体を一緒に見ただけ。それでも目にした。その人の容器にはこんな物体が入っていたということだけは、その事実だけは知ることができる。けれどそれは口から取り出してもらわなければ、目に見える形で提示してくれなければ、知りようもない。
他人の心は怖い。容器の中身を見せてくれなきゃ、何を考えているかわからないから怖い。人は嘘をつくから、提示されたものが加工されているかどうか、見分けがつかなくて怖い。偽善ぶって、言い訳して、他人のためだと言い張って、全部全部自分のためなのに。他人からよく思われたいんでしょ。逃れたいんでしょ。他人のためにしてあげてると自己満足に陥りたいだけでしょ。でもそれが丸い物体の一つ。人間なのだろうな。でも私にはない。喉の奥まで手を突っ込んだって出てきやしない。
空っぽが怖い。何もないってことは目に見えないってことだから。そこにいることを確かめることができない。
私は私が怖い。私はここにいるかわからないから。
もし容器と丸い物体が合わさって人間が出来上がるのなら、私は一体何だろうか。人道外れた化け物だろうか、いや化け物にすらなれないな。
いても誰にも気付かれずにずっとそこに居続けるのかな。消えてしまうのかな。
“キミ”から渡された丸い物体。
「絶対当てろよな。」
初めて見た物体だった。もう何日も見続けているけど、そこから一つも理解できない。けれど容器にあったものを理解して欲しいと思うから、わざわざ自分で自分の口に手を突っ込んで、物体を取り出すという面倒な作業をしたのだろうから、できる限り読み解いてみようとは思う。見えないはずの私に気付いて渡したのだから。しかしまどろっこしいことをしてくるものだな。いつもの“キミ”ならすぐに言っただろうに。
「正直、貴女に話すのは不服だわ。」
やっと彼女が喋り始めたので、顔をあげた。話し始めるにしては敵意満載、不平不満だと言わんばかりだ。仕方ないので、わからないなあといった表情をしながら目を見つめる。
「だってどれだけ恨み続けたと思っているの。ええわかっているわよ、貴女を恨んでもしょうがないことぐらい。けれど、疫病神のようにしか見えなかったの。息子と仲良くしていたことすらも恨むほどにね。それでも貴女に謝らなきゃいけないことがあるわ。貴女が葬式の後初めて家へ訪れた時のこと。インターホンがなった時、私は背中が震えたわ。悪魔がやって来た、私の大事な息子の生命を吸って生きた化け物がやって来たと思った。貴女を殺そうとした。刃物で貴女をぐちゃぐちゃにしてしまおうと思った。気付いていたかしら。結局、刺そうとした時に貴女が振り向いてしまったから、思わず刃物を隠してしまってできなかったわ。私は息子が亡くなってから貴女を憎むことで生きていたの。貴女をいつか殺そうとすることを糧に生きていたの。でも失敗して、やっぱりこんなことはしなくてよかったと、成功しなくてよかったと思った。謝って済むようなことじゃないと思うけれど、ごめんなさい。」
そんなこと、謝らなくていいのに。いっそのこと、こんな化け物にもならない奴、殺してくれてもよかったのに。空っぽな容器の中で空虚に響くだけだ。
彼女の容器は全体的な黒っぽい物体だったけれど、ちゃんと中身があった。よかった、彼女は人間だ。私とは違う。だから彼女の持っている物体が、どうかこれ以上黒ずまないようにと思う。
無言が私の返答だった。彼女は読み取ったらしく、また話し始める。
「さて、息子の話になるけれども、私もよく知らないのよ。当時付き合っていた彼女は空が好きだったらしいの。付き合ってまもなくしてカメラを買って、ずっと空を撮っていたわ。けれどある日、デートに行って家に帰ってきた時、ものすごく沈んでいたの。顔に生気がなかった。彼女と喧嘩でもしたのかと思っていたら、そこで亡くなったことを知ったわ。ずっとあの子は自分を責め続けていた。自分のせいで彼女が死んだって。僕がそんなことを言わなければって。彼女の死を警察は事故だとして処理し、新聞にも小さいけれど記事となったわ。向こうのお母さんも事故ですからどうかと、息子が自分自身を責めないことを望んでいたけれど、そうはならなかった。学校でも同情などの目で見られたんでしょうね。居づらくなったみたいで、高校を離れたところがいいと言い出したわ。私もそれがあの子のためだと思って、貴女の通っている高校にしたのよ。」
鮮やかな物体の入った容器が思い浮かぶ。黒ずみがなく、ずっしりと詰まっていて誰よりも一際明るく輝いていた。何処でそんなに綺麗な物体を拾って詰め込んでいたのだろうか。どうして私には何一つ見つけられないのだろう。
ああきっと、私には「あれ」がないからかもしれない。いやきっとそうだ。もらったことすらないからだ。
ほらほらまた今日も浴びてしまった。他人からの他人に向けられた「あれ」。きっと物体を構成する根本的なものを私はわからないからだ。私に向けられた「あれ」を見たことないからだ。
怖い。怖い。だから傷つくのは私だけでいい。空っぽの容器が割れるだけだから。容器が割れたって誰も気づかないから。誰も私のことなんか見えていない。
だって私は幽霊だから。