鞭で赤くなった身体を見て僕は嫌気がさす
人間特有な感情の一つに恥が挙げられる。ではなぜ恥ずかしいと感じるのかと考えると、自分が枠からはみ出たと実感するからだろう。普通という枠にいれなかった、世間が当然のように理解していたことを何も知らなかったということを、知るからだろう。普通でいたかったが故の反応なのだ。
彼女が僕に質問するように、僕も彼女に質問を仕返した。そうすることで僕が深く抉られる前に相手にも同じことをすることで、相手からの情報を知ることができた。そうやって僕らはいつも会話をした。
お互い同じだけ自分の一部をえぐり取られ、同じだけ情報を得る。えぐり取られたところにその情報を詰め込む。僕らはそれを理解と呼んだ。
こんなことをしているのは彼女を潰すためだ。そのために彼女に近づいた。彼女の中身を深く知る手がかりは、やはりあの言葉だろう。しかしあの時は何もかもどうでもいいと思っていたから、はっきりと覚えていない。
もちろんのことながら、彼女に気付かれずに遂行せねばならない。 じわりじわりと、自分の方をこっそりと優勢にしていくのだ。
廊下を歩くと、こつこつと足音がなった。反響し、その音は耳に入っていく。廊下を曲がって階段を上がっていくうちに、大きな窓が目に飛びこんでくる。階段を上り終えると、僕は足を止めた。すると音は余韻を残し、そして静寂を与えた。教室ぐらいの大きさしかないこの階は真っ白な壁がそびえ立ち、その中に埋め込まれた窓は脱出口のようだった。夕方というのもあって、あたり全体が薄暗く、僕は影に埋もれていた。
窓にもたれかかり、空を眺めた。窓を閉めてあるせいか、轟々と鳴らず、さあさあと鳴る雨である。
「一体何の用かな。」
凛とした声が響いた。
振り返ると、目的の女の子が歩いてきた。
「ちゃんと来てくれたんだ。」
「そりゃあ来てと言われたら行くでしょ。」
微笑んでそう言った女の子は僕の隣に来て、窓からの景色を眺めた。
「結構降ってるなあ。天気予報ではまだ曇りだったのだけどなあ。傘なんて持ってきてないや。」
雨は止みそうにない。きっと一晩中降り続くだろう。
女の子はこちらを見上げる。
「でさ、話したいことって何なの。」
「××が言った、初めて会った時に言われた言葉ってさ。」
「もし、愛する人が一緒に死んでって言ったら、死ねるの、でしょ。」
言葉を遮られた。しかし、知りたかった言葉である。女の子はいたずらっぽく笑う。一呼吸置いて、一瞬の動揺を見せることなく、僕は返事をした。
「そうそれ。それっていつから言うようになったの。」
「そうだな。私が初めてその言葉を言われたのは、小学六年生の時だったなあ。それからずっと初めて出会う人には言ってる。」
「そんな小さい時からあいつは言ってたのか。」
あまりにも幼い時から、そんなことを他人に言っていたことは驚きだった。何よりもそのことを人に尋ねなければ、そうせざるを得なかったことが起きたのだ。彼女は何を想い、そう言ったのか。
「それはそうと、××と小学生の頃から付き合いがあるんだな。」
「そうね。ここまで付き合いが長いのも、私ぐらいじゃないかな。」
「ずっと今まであいつはああやって言ってきたのか。」
呟きがこぼれ、低く響いた。
「そうずうっと。あんまりにも言うから私、覚えちゃったよ。今でこそ、周りに人がいない時に言うようになったけどさ、昔はあけっぴろげに言ってたんだよ。どこで誰がいようがお構いなし。本当、笑っちゃうよね。」
女の子は屈託なく笑った。本当に可笑しそうに笑う。その笑顔が眩しくて、思わず顔をしかめた。
「あいつはなんで、そんなことを言い出したんだ。」
途端に目を下にやり、女の子は思案しているようなそぶりを見せた。そしてまた綺麗に笑う。
「彼女はある時、数日学校を休んだの。彼女が学校を休んだのは初めてだったのよ。だからみんな不思議がって理由を聞いたわ。そしたら、お父さんが亡くなったって言った。みんなまだ幼くて、父親が死ぬということが一体どういうことなのかわからなくて、口々に慰めたわ。彼女は暫く黙ってその慰めを聴いた。それからあの言葉を発したの。みんなその言葉に少し戸惑ったけれど、すぐに死なないと答えたわ。だってそうでもしないと、何故だか彼女が消えるような気がしたの。そしたらそっかって言って教室を出て行ってしまったわ。けれど授業が始まる前にはきちんと自分の席に戻ってきたから、みんな何も言えなかった。それからかな。彼女は出会う人出会う人全員にそのことを尋ね始めた。大人達はきっと事情を知っていたのだろうね。どこまでも優しく、彼女が質問するたびに答えていたわ。同級生も初めは同情なのか、ちゃんと答えていたけれど、毎日毎日聞くものだからうんざりしちゃって、嫌うわけじゃないけれど面倒がられてね。最初は周りから少し距離を置くようになったのだけど、気がついたら彼女の方が人と一定の距離をとるようになったわ。」
女の子は滑らかに流れていた言葉を止めた。零れてきた髪を耳にかけ、女の子は僕を見て申し訳なさそうに言った。
「答えになってないね。」
「えっ。」
「だから君の質問に対してちゃんと答えてないなって自分で思ったの。私はただ起きたことを述べただけ。何の理由にもなっていないわ。ごめんね、小学生の頃から私は彼女と仲が特によかったわけではないのよ。ただの同級生でしかなかった。だからどうして彼女がそれを言い始めたか、本当のことなんて知らないわ。」
彼女に何か事情があったのは言葉だけで分かる。もし女の子の言うことが正しいのなら、今の状況を聞いて推測するに、彼女の父親が愛する人と亡くなったということだろう。
「ありがとう、教えてくれて。」
「どう致しまして。」
「でも一つ気になることがあるんだ。」
女の子は首をかしげた。その姿もまた純粋無垢で眩しい。まるで何も知らない子供のようだ。醜く汚い大人の世界を知らない、子供の世界の住人のようだ。
「××とは仲のいい友達ではないのだろう。だったらあの時、なぜ××を庇うように、僕に話しかけてきたんだ。」
あの時、僕は何もかもどうでもよかった。けれど、だからといって全ての記憶がなくなるわけではない。どうでもよかったとはいえ、あの言葉よりも、そのことを知られていた衝撃は大きかったのだ。
「特に意味はないよ。」
「そんなわけない。言い慣れていたんだ。僕がなぜ貴女をこうやって呼び出し、尋ねたか。それはあの時、貴女を含めて三人で話しかけてきた。けれど残りの二人はお付きの人みたいに、大して重要な話はしなかったんだ。貴女が自分一人で行くのが嫌だなどの理由で、連れてきたんだろ。貴女だけが××のことについて、表面的なことは言わなかったんだ。そんな人が理由ないわけないだろう。」
「だって見てられないんだもん。あんな風に言っててさ、ずるいよ。」
女の子は口を尖らせて、下を向いた。僕は只々黙って話を聞く。相槌も返事も違う気がした。
けれど予想に反して、女の子は何も言わなくなった。ほんの少しの沈黙でも、僕はいたたまれなくなる。女の子は窓を見たり、明後日の方向を向いたり、きょろきょろしていた。僕は少し冷えてきた手を温めるために、ポケットに突っ込むと、小さくて固いものに当たった。
「そうだ、これお礼に。」
手のひらにお菓子を乗せ、女の子に渡した。
「わあ、ありがとう。嬉しい。幸せ。」
心から喜んで飛び跳ねてる女の子を見て、僕はふふっと笑いがこぼれた。
「なによ。」
「いや、幸せそうだなって。貴女はいつも笑ってて楽しそうで、それでいてこんなことで幸せになれるなら、悩みなんてなさそうだなってさ。」
女の子はおとなしくなって、上目遣いで僕を見る。
「ねぇ、もしかして単純だと思ったの。」
「いやっそんなことないよ。気に障ったのならごめん。」
にっこり笑って返事する女の子にほっとし、僕もつられて笑った。すると女の子は僕の目をちらっと見て、はあと溜息を吐いた。
「君の方がよっぽど幸せだよ。」
どういうことかわからず、僕は何も言えないまま、目でものを言うしかなかった。
「見た目だけで悩みがなさそうだなんて、幸せそうだなんて決めつけられる君の方が、幸せなんじゃないかなあということだよ。」
女の子は僕ににこりともせず、言ってきた。そのまっすぐな目は僕を突きさして、身動きがとれなくなる。
「自分の思うことや感じたことを、そのまま顔に表すことができることがどれほど幸せか、自分の悩みを思うままに誰かに打ち明けられることがどれほど難しいか、まるで悩みなんてないように明るく振舞って、犬みたいへらへらせずにいられることがどれほど羨ましいか、君はそれらを何一つ知らない。少なくとも今の発言からはそう読み取れるよ。知らずに生きてこれたことこそが私は幸せだと思うよ。」
それは突如始まった告白で、受け止めるにはあまりにも大きな爆弾だった。僕をこいつは困らせたいのか、それこそ僕は取り繕うと思ったけれど、一瞬の狼狽を見られているがために、それらは無駄であった。
女の子は窓が付いている壁に背を向けた。僕も倣い、壁にもたれた。目の前には下る階段があり、下の階が見えた。壁の冷たさが僕の背中に広がり、熱くなった身体を冷やして妙に心地よい。
「君はさ、精神的に強くなりたいか、それとも弱くなりたいか、どっちがいいかい。」
「そりゃ強くなりたいよ。」
おかしな質問だと思った。誰だって強くなりたいし、弱くなりたいなんて思う人がいるとは思えなかった。
「私はね、どっちもなりたいんだ。」
凛とした声が響いて、僕らを包んだ。この雨のうっとおしさを晴らすような声であったことに違いはない。けれども言葉の意味を取れない僕には暗号を言われたのと同じようで、そしてそれは馬鹿みたいに質問をする事しかできないようにしていた。またそれは僕の無知を、自分自身で痛感せざるを得ない状況に追い込んでいることと同じだった。
僕が意味を尋ねると、やっぱり女の子は呆れた声で言った。
「例えばね、君が精神的に強いなと思っている人がいたとする。じゃあその人は実際に精神的に強いのだろうか。そもそも精神的に強いか弱いかは自分、個人個人の判断でしかないわけで、他者から見ていくら強かったとしても、本人は強くないと思っている人がいる。私はそんな人でこの世界は溢れてるんじゃないかなって思うんだ。きっとその人たちはこういうよ。私は強いんじゃない、強がりなだけなんだって。そう、本当は強いわけじゃなくて強がっているだけなのに、他者は勝手に強いと判断して、だからこの人は自分よりも精神的に強いからという理由で、周りが気にかけることが少なくなる。一人ぼっちでどうしていいかわからなくて、けれど強がりだからが故に助けを求めることができなくて、人が遠いように感じられて、そう感じるのは自分の心が弱いからと思い込んで、さらに強がって、これの繰り返し。助けてと叫びたいと思っても、私は精神的に強いと思われてるから、誰にも頼れないと感じてしまう。もうこれは自己暗示に近いよね。自分から人を遠ざけてしまうんだ。何度も言うように、この人達は決して強いわけじゃない。周りと同じくらい弱い。だから本当は手を差し伸べて欲しいんだ。けれど助けを求めなければ、気づいてくれる人なんていない。私は強いから、強いと思われてるから、誰かに頼っちゃあいけないんだ。そうやって苦しみもがいて、誰も助けてくれない、何も報われない中で生きている。だったら強がらなくていいじゃんと思うでしょ。その方が楽だし、助けてと常に叫んだり、いっそのことかまってちゃんでもいいから、何か言えば必ず周りは反応する。孤独感は弱音を吐いて仕舞えば、案外そうでもないことに気づけたり、弱音をある一定の人にたまに話すだけで、なくなることだってあるわ。けどね、強がらずにはいられないの。強さの魅力はね、他者からの羨望よ。他者からのそのきらきらした瞳、自分に向けられた憧れを噛みしめることが何よりの喜びなの。それは自信にも繋がるわ。だから強さを維持しなきゃいけない、そうしなきゃ自分は周りから認めてもらえない、そんな呪縛に囚われる。」
とめどなく溢れる言葉の濁流にもまれながらも、僕はひたすら聞いた。しかし、また女の子は黙ってしまった。女の子はいきなり滝のように喋りだし、急にぱたりと止まるのだ。
いつもなら窓から西日がこぼれ、周りが少し紅く見える時間帯ではあったが、雨のせいでさらに暗くなっていく。黙って見ている僕らの目の前を少しずつ黒く色づけていく。
少し冷やしすぎた背中を壁から離し、背伸びをすると、また女の子は話し始めた。
「彼女は人から一定の距離をとられても、何事もないように一人で過ごしていたわ。私たちが何人かで固まって話しているのには目もくれず、一人で自分の席に座って悠々と読書をしていた。発言することに臆することなく、課題をそつなくこなし、行動一つ一つが堂々としている。その姿に、私たちが距離をとっているにもかかわらず、少しながらも憧れがあったわ。けれど彼女のあの言葉は何よりも弱さを示していた。その絶対的な弱さは残酷よ。それは教師、周りの大人を惹きつけ、私達から取り上げたのよ。大人たちは彼女を、壊してはいけない陶器のように扱ったわ。彼女の発言に全て丁寧に対応し、相手をし、煽て褒め称え、彼女の意のままだった。私が大好きだった先生ですらも、彼女がたった一言発するだけで、彼女の方へ駆けていくのよ。私の声は届かない。全部全部奪っていく。それでいてみんな彼女に憧れて、みんな彼女に手を伸ばすの。私は彼女が憎くて憎くて、羨ましくてしょうがない。」
激しい憤怒と嫉妬は普段の明るさの後ろに隠されていたのだ。初めて見る彼女の真顔に唖然としてしまう。彼女の子供のような無垢な笑顔からは想像もできなかった。
僕の身体はまた熱くなって赤くなっていった。冷ますように壁にひっついた。
「それでも貴女は××を助けるんですね。」
少し黙って俯いている女の子に、僕はそっと言葉をかけた。女の子は小さく鼻をすすった。
「だってずるいよ。彼女の言葉がどれだけ切実なものか、見てたらわかるもの。強く、逞しくいるのに、あの時だけ彼女はとても弱く見えるの。誰かに守ってもらわなければ、壊れてしまうような。必死に何かをもがくように生きている幼子が助けてほしいと叫べば、私は手を差し伸べずにはいられない。」
どんなに憎んでいても、助けずにはいられない、それが一体どれほどの葛藤を生んだのか、想像すらできない。これが女の子の、強がった者の悲痛な叫びだった。
僕は何も言えなかった。何かを言う資格なんてなかった。ただひたすらに羞恥心が僕を襲い、身体中が熱くなる。
「ねえ、話ってこのことなの。これだけなの。」
僕は頷いた。うんと言おうとしたが、声がかすれて出なかった。
女の子は横の壁に向かって歩き出し、壁にもたれた。僕も女の子も床を見つめる。
「つまんない。」
その発言に、僕は女の子の方へ顔を向けた。そうすると女の子はにんまりと笑ってみせた。
「こんなところに呼び出したりするからさ、告白でもされるのかと思ったよ。そうしたら私は君の傘をとって、相合傘でもして帰ろうかなと思ったのに。」
「あいにく、僕も傘を持っていないよ。」
女の子は寂しそうに微笑んで、そっかと呟いた。
女の子は階段の方へ進んでいき、降りる手前で足を止めた。
「××がさ、あんな風に自分から人と関わるなんて相当珍しいんだ。」
女の子はこちらに振り向いた。僕を見つめながら告げる。
「だからそのことを大切にしてあげて。」
女の子の階段を駆け下りていく音が止むと、僕はしゃがんだ。無音と白くそびえる壁の中で、考えにふけった。
女の子の切実な願いを聞き、助けてほしいと手を伸ばしてきたから、僕がその手を取ることはできたはずだけれども、そうしなかったのはあの時のことが未だに忘れられないからだ。
あの赤くて熱くなる羞恥心を想起させ、僕はその過去を何としてもなくならせたいほど、うんざりする。
無知は恐ろしい。そこかしこに転がっているのだ。