“キミ”を失い喪い湧き出てきて
いつからだろう、子どもの無邪気さがなくなって、好奇心もなくなって、何もかもどうでもよくなったのは。気がついたら、そんなところにいた。何も起こらない日々に飽き飽きしていた。何もかもに嫌気がさした。だからこそ、過ぎて行く日々がずっと責めてきた。今まで必死に死ぬ思いで生きてきたのに、手にしたのは一体何なんだって。
インターホンを鳴らす。どうしようもなく不安になった。また来てしまったことが、この間のような事態を引き起こしてしまうかもしれない。
殺されてもしょうがなかった。傷一つつかず、生きてしまった。でも私が悪いわけじゃない。彼が悪かったわけでもない。強いて言うなら運が悪かっただけ。でもやりきれない気持ちがひしひしと伝わってくる。生きてしまったから、下手に生き延びてしまったから、彼の母親の救いようのない感情を受けとめ続ける責任ができた。
「また何の用かしら。」
ドアが開き、彼の母から開口一番にそう言われた。顔に生気は戻り、隈は無くなっていた。窶れた身体はまだまだ回復しそうにないけれど、問題ないだろう。
「探し物です。」
そう私は失った。彼のことを何一つ知らずに、彼を失ってしまった。だから欠片を集める。少なくとも、彼が伝えたかったことだけは探し出す。
彼の母は少し考えるように、沈黙になる。
「とりあえず、入りなさい。」
まだこの人は許していない。それでもいつかは受け入れなきゃいけないことも自覚している。そんな葛藤が言葉に表れて見える気がした。都合のいい解釈にすぎないけれど。失ったのは私だけじゃない。この人も喪ったのだ。
足を踏み入れて、家にあがらせてもらった。前に比べて部屋がすっきりしたような気がする。多くの物を捨てたようだ。空白になったものをより広げることで、眼に映る空白を誤魔化したようなやり方だ。
部屋を隅々まで眺めて観察している自分に気づいた。自分でも変だと思う。以前ならこれくらいのことに気をとめなかっただろう。彼のこともそうだ。以前の私は彼のことを知ろうともしなかったし、だからこそもう遅いけど、今からできるだけのことを知りたいと思っている。それで彼の最期の願いを叶えようとしている。しかし、例え事故のことがあったからといって、私が彼の願いをきく理由にはならない。けれど私は積極的に叶えようとしている。必死に這いずり回ってでもいいから、何としても当てたいと思っている。これは決して彼への贖罪ではなく、私の純粋なる興味なのだ。純粋なる興味が私を突き動かしていた。彼が私に遺した言葉の意味を知らずにはいられない。それは今までにない体験だった。
中学の卒業アルバムを出してもらった。両手で持ってみると、意外としっかりとした重さが手の中で広がった。アルバムを持って彼の部屋に入る。彼の部屋は特にあれから変化はなかった。けれど埃一つないあたり、母が掃除をしているのだろう。
彼がかつて座っていた椅子に座り、彼がかつて使っていた机の上にアルバムを広げて、ぱらぱらとページをめくっていく。たまに映っている彼の顔はとても楽しそうだ。こんな風に笑うんだなと初めて知った。ちゃんと笑うことができる人だったのか。
めくっていくうちに、クラスメイト一人一人が映っているページになった。あるクラスには「ご冥福をお祈りします。」の文字が書かれていた。その文字に惹きつけられた。写真の女の子は笑っていた。
ふとあの言葉を思い出す。
「あの子は心を失ったのよ。」
「大事な人に対する想いだけが、心を認識することができるのよ。」
アルバムから目を離し、机や棚を必死に探した。棚から手紙入れを見つけ出し、一つ一つ宛名を確認していった。
やっぱり見つかった。予想通りだった。
中身を開けて手紙を読んでみる。どうやらこの手紙は誕生日プレゼントと一緒に渡したものらしい。手紙の最後に書かれていた一言で、二人の関係性は明らかだった。
宛名はアルバムに載っていた亡くなった人と一致していた。彼の彼女だったらしい。
砂糖よりも甘い甘い甘ったるい言葉でできた羅列は、胸焼けさせるほどだった。
嘘っぽい。
そう呟いていた。嘘の言葉並べて、関係を必死で維持しようとしてるだけだ。思ってなんか、想ってなんかいないだろう。私には一つもわからないや、そんな感情もその事が突き動かす行動も。知らない、知らない。
もし、そんな想いを受け取ったらどうだろうか。何一つ想定できなかった。そもそも何も知らないのに、想像なんてできるわけなかった。それにこれから先、受け取る事があるとも思えない。受け取っても気付かないだろう。もらっても気付かないなら、そんなものはいらない。
でも本当は知っている。少なくともそこに載っている羅列された言葉の一つ一つが弾丸となって、心を砕いてしまいそうになっていることぐらいは。甘ったるくて、うっとおしいほどにまとわりつき、気持ち悪いとどれだけ感じていても、それはやっぱり甘くて、蜜のようなものであることぐらいは。
気分が悪くなって、頭がくらくらしてきた。手紙を元の場所へ戻し、彼のベッドに転がる。何も考えずに頭の中を空っぽにしていくと、すっと頭の中を埋め尽くしていた不快感が消えていった。
私が彼の世界と携わらなかった時の彼は、私が見ていた彼とはまるで別人のようだった。けれど、私が初めて出会った時にはすでに、彼は雑多な人の中に埋もれていた。「彼女」という存在の有無が作用したことは明らかだ。
そんなにも「彼女」というものは影響を与えるものなのか。心を認識したことがない、そもそも心があるとは思えない私にはわからない。だって「彼女」がいるかいないかで、自分の心がなくなって、感情も行動も変わってしまうなんて、なんと「彼女」という立場は優位な場所なんだろう。きっと彼の全てを掌握してたのだろう。
全く、恐ろしいほどに全くそこに興味が持てなかった。彼の全てを掴んだところで、私には持て余すし、そもそもその技量があるとは思えない。
正確にいうと、わからないし検討がつかない。私にはかつてそんな人はいなかったし、想ってくれる人がいるとは思えない。他者が誰かを想うなんて他人事だ。夢物語だ。
だって私は身近な人ですら、想われてると感じられないから。
結局自分の想像は、「わからない」と「思えない」という言葉で終わってしまい、これ以上進まなかった。けれど「彼女」に鍵があることだけは確かで、調べる必要がありそうだ。
身体を起こし、ゆっくりとベットから這い出た。何もかも元のあった場所に戻す。部屋を見渡して元どおりになったことを確認してから、部屋を出た。階段を降りて居間に行き、彼の母の手にアルバムを返した。
「これお返しします。ありがとうございました。」
彼の母はアルバムを持ったままじっと表紙を眺め、おもむろにページをめくっていった。最後のページまで目を通すと、胸にアルバムをあてて抱きしめた。
「こんなにもあの子の生きた過去は重たいものだったのね。」
生きていた証はアルバムに載っていた写真が証明している。両手で受け取った、あのずっしりとした重みが彼の三年間の時間の凝縮版なのだ。私の手でも、彼の母の手にもしっかりとその重さは感じられた。たった三年間でこの重さなのだ。ましてや今までの生きてきた年数を考えると。
生きてきた重さ、良くも悪くもこの重さなのだ。
「あの、彼の中学時代のお話を聞かせてもらえますか。」
彼の母は首をかしげた。
「何故かしら。」
「貴女が前に、彼は心を失ったと言いました。それは彼女さんのことがあったからですよね。知りたいです。彼が今までどうやって生きてきたのか。何を考えてどんな風に生きたのか。私が知らない彼を、彼の全てを知りたいのです。」
彼の母は何も言わない。ただじっと床を見ているだけだ。
過去を聞くということは過去を背負うこと。背負う覚悟をせぬ奴は簡単に荷物を下ろしてしまうから、そういう奴らと区別がつかなければ簡単に教えられない。また過去を教えることは自分の弱点を晒すこと。自分の弱点を預けてもいいと思えるような相手でなければ、中々吐かない。
それでも。
「貴女は彼の最期を言葉を聞きましたか。」
彼の母がすぐにこちらの顔を見た。彼女の目が私の瞳を見つめていた。初めて目が合った。思わず目をそらしそうになるのを堪えて、見つめ返す。
「あの日あの時彼は言ったのです。もし僕のお気に入りの場所がわかったら、いいものをあげるよって。なんとなく思ったのを口にしたけど、どれも首を横に振られました。その時私はどうでもいいと思ってました。いいものというのは大抵どうでもいいものだったりするし、お返しするのが面倒だったから。けれども彼は言いました。ちゃんと当てろよって。本当にそれが最期の言葉だったのです。」
決して最期の言葉になるとは思ってなかった。答えを言わずにいなくなった。今思うと、なぜこんな言葉を私に投げかけたのか。よっぽど当てて欲しかったのか。そして多分答えは私との中にあるのだ。絶対に私が答えられるから、答えて欲しいからこんな風に言ったのだ。答えは、その意図は一体何か。
彼の母は何も言わずにいる。しわやしみが目立つ肌、化粧っ気のない顔、着飾る様子なんてどこにもなく、家にあった服を適当に着ただけのような、必要最低限のことしかしていない姿。今にもこの手で壊れてしまいそうだった。そこにいたのは母でも女でもなく、ありのままの人間だった。
私は思わず頰をゆるめて、泣いているような、微笑んでいるような顔をして言った。
「一緒に彼の言葉を拾いにいきませんか。」