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ケーキを箸で味わう

 どこか寂しい 。

 いないからというより、手を伸ばしても届かないからだと思う。



 なぜ自分が生まれたのか。何のために自分は存在しているのか。誰にとって私という人間が存在することは利益があるのか。私が存在することの意味を考え続ける羽目となった。

 自室に行き、ベッドに飛び込んで、近くにあったクッションを抱きかかえながら考える。

 まず、なぜこんなことを考えるのか。一つは母のせいである。母のことで、さっきまで嫌悪感が全身を走り回っていたからである。

 生まれてきたことに感謝する、ということを一度もしたことがないし、ありがたいと思ったことはない。それはやはり生まれさせられた、という意識が強いからだろう。この世界はそのありがたさに縋って生きていけるほど、甘くない。人生の中の大半は苦痛でできていて、だからこそ楽しさや嬉しさというものは相反するように、鮮やかに感じられるわけである。大抵の人はその釣り合いで喜びが勝つから、明日に希望が持てる。だから、明日も生きていたいと思うのだろうし、生きててよかったと実感できるし、そのことに感謝できるのだろう。しかしどうやら私の場合は、その釣り合いが均衡なのだ。別に死にたいわけじゃない。だからといって生きたいというわけでもない。生を噛みしめるほどの悦びがあるわけでもなければ、死を願うほどの絶望があるわけでもない。何もかも興味がない。誰かに対する熱意もない。空っぽだ。

 悦びがなくても、苦痛は幾らでも降ってくるわけで、しかもどれもが山から落ちてくる岩石みたいに重たい。昔は岩石が頭にぶつかりすぎて、頭が壊れて、必死に岩石から逃れることしか考えていなかったけど、今は昔に比べて少なくなったし、ある程度は慣れてしまった。痛みは感じるけど、何も思わなくなった。

 無気力で敷きつめた空っぽの心を抱えて、死ぬように生きている。

 次に、思考を自己存在についてに移行する。自己が存在するということは、始まりがある。それが誕生というものだ。

 無から有は生まれない。有から有は生まれる。つまり、そこには誰かの意識が働いてるわけである。望んでも、望まなくても必ず〈産む〉という意志が。その結果を皆はめでたいと思うのだろう。

 私達には誕生日を祝う風習がある。祝うこと自体に異論はないのだけれど、ふと考えてみると、少し変な気がする。

 誕生日を祝う理由は人により様々であろうが、一つに生まれてきたことへの感謝が挙げられる。しかしもし感謝であるのならば、伝える言葉は〈おめでとう〉ではなくて、〈ありがとう〉ではないのか。自らがお礼の言葉を述べ、周りの人に贈り物をするようなことがあっても、おかしくないのではないだろうか。もちろんこのようにやっている国もある。しかしこの国は違う。仮に祝う理由がおめでたいから、というものであったとしても、一体おめでたいのは誰なのか。もちろん誕生日を迎えた人にお祝いをしているのだから、その張本人だと言い張るだろう。しかし、よくよく言葉に注目してみると、違和感を覚える。

 もし張本人を祝うというのであれば、そのことを文字にすると、〈誕生日に祝う〉という言い方なはずである。しかし一般的に〈誕生日を祝う〉という風な言い回しをする。まるで本人よりも、誕生日そのものがおめでたいというように、捉えることができる。

 誕生日の人におめでとうと言ったり、さっきの言い回しにしても定型文化されているのだろう。言葉に言葉以上の感情を込められるのなら、きっと言えやしない。祝福の歌も演奏も、即興でできやしない。普段から意識してなきゃできない。

 だけど、言葉は同じ言語を使う者同士でも、あくまでも言葉は個人の所有物であるのだから、人それぞれに言葉の重さは違う。場合によっても違うだろう。だから軽さを持ち合わせた言葉だったとしても、そのことを非難することなんてできないし、個人の押し付けでしかない。もちろん言葉で故意に傷つけていいとは思ってないけど。言葉が重かろうが軽かろうが、その背後にある心は読み取れない。例えどんなに言葉を尽くしたって、双方の言葉の重みが違うし、そもそも感情を正しく言葉に変換することすら難しい。

 それでもさ。せめて正直でありたいと思う。せめて自分だけでも言葉に感情を込めて発したい。空虚な私だけど、嘘っぽい私だけど、伝えたい言葉には、ありったけの感情を詰め込んで、重さを持って届けたい。相手の心を読み解くことはできないから、相手も自分の心を読み込めないから、言葉が相互理解の補助となるから、吐き出されて宙を舞う言葉には嘘をつかない。

 誕生日を祝う理由は感謝だったり、おめでたいからだったりするかもしれないけど、本音はそんな仰々しい理由なんかじゃなくて、自己承認欲求じゃないかなと思う。祝われることで、自分という存在がこの日誕生したことを他者に承認され、また自分が生きてこの場にいることを承認される。誕生日が自己存在を肯定する役割を果たしているのではないか。

 誕生日というのが一種のイベント化していて、おめでとうと言ったりプレゼントをあげることが、人間関係の維持するための方法になりつつもある。

 確かに誕生日は記念日かもしれないけれど、祝うことを義務化すべきでない。むしろ誕生日というものは、祝われることを前提にするのでなく、自分の行動を振り返ったり、周りの人に感謝したり、自らが行動するものの方がいいのではないか。誕生日というものに期待する必要はない。

 プレゼントもそうだ。

 私が小さい頃は、友達からもらえるプレゼントが嬉しくてしょうがなかった。けれど大人になっていくうちに、自分の中で好みができてくるし、自分の好みでないものをもらったときは困ったし、相手にあげるプレゼントに悩むことも面倒になった。

 プレゼントの語源は二つあって、一つはあらかじめ有る。もう一つはあらかじめ用意したものを渡す。相手のことを想って、時間をかけて選んで、喜んでくれることを信じて渡すもの。

 プレゼントなんて本当は付属的なものでしかないし、別にもらえなかったとしても何一つ文句言える立場じゃないし、もらえたらありがたいと思えばいい。


「“キミ”」


 どうやら声に出ていたようだ。

 彼だったら、私の誕生日を祝っただろうか。おめでとうと口先だけで言ったのか。心を込めるのか。案外忘れてるかもな。プレゼントを渡したかな。彼だったら何をくれるだろう。欲しいと言ったら何でも買ってくれそうだな。何でもいいよ、と言ったら困った顔をするかな。何もいらないと言ったら、言葉通り受け取って何も渡さないだろうか。

 やっぱりくだらない。こんな期待はかえって自分を苦しめるだけだ。


 プレゼントか。

 かつて彼は私に〈お気に入りの場所〉がわかったら、いいものをあげると言った。そのときは適当に返事していたけどさ、“キミ”がいなくなって、結局わからず終いになっちゃったよ。どうせなら受け取ればよかった。すぐに答えを教えてもらって、あっそって返事して、もらえるものだけもらっとけばよかった。そうすれば今頃こんなことを思い出さずに済んだのに。

 ああ、そういえばさっきまで〈お気に入りの場所〉を探していたんだった。また探しに行こう。

 空っぽだった心に、少しだけとろっとした液体のようなものが溜まった気がした。温かかった。けれどちくりと痛むのが何故かわからなかった。


 もし“キミ”が生きていたら、という妄想以上に無駄な思考はないと猛烈に思うけれど、そんな考えが出ている時点で、妄想しているのと変わりないことは自覚している。だから思い切ってこの世界にいない“キミ”のことを妄想する。

 もし“キミ”が誕生日を迎えたら、心を込めてありがとうを言おう。“キミ”と出会わなきゃよかったと何度も思ったけれど。

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