5、。
その日から、イズーは毎日トリシュトが寝た後、彼の頭に触れるようになりました。どれくらい角が伸びたのか確かめるためです。角は頭から少し盛り上がったたんこぶのようでした。角は少しずつ大きくなっているようでした。イズーは毎日トリシュトの発する言葉に気を配っていました。自分がトリシュトに対して発する言葉にも気を配っていました。
「ねえ、トリシュト」
「何だい、イズー?」
「トリシュトも何かあったら、私に打ち明けてくださいね」
「分かっているよ。イズーも隠し事はしないでね」
来る日も来る日も彼女はトリシュトに言い聞かせました。嘘を吐かないこと、隠し事をしないこと、悪いことを考えないこと……。
毎日毎日必ず言い聞かせました。
毎日、毎日……。
毎日毎日毎日……。
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、
「……っるさいなあ」
そう声が聞こえたのは、ある日の夕食のことでした。
「……え」
イズーはそれを聞き間違えかと思いました。
「うるさいって言ったんだよ」
「……いきなりどうしたんですか、トリシュト?」
「嘘つくなとか、隠し事をするなとか、悪いことを考えるなとかさ。いちいちうるさいんだよ。いつもそんなこと言われたら腹立つだろ!」
「トリ、シュト?」
トリシュトの様子がいつもと全く違うように感じました
トリシュトは食べていた香草をイズーに投げつけました。
「何だよ、その目はっ!!イズーはボクを疑っているんだろ!!」
「疑うって何を……?」
「しらばっくれんなよ!!」
イズーは悲しくなりました。トリシュトを疑ったことなんかありませんでした。ただ彼女は心配しただけだったのです。彼にこれ以上角が生えないようにしたかっただけなのです。
でも今、トリシュトは何か爆発したかのように叫んでいました。
「妙に優しかったり、嘘つくな隠し事するなって小言言ったり。キミこそ、ボクに何か隠し事をしてるんじゃないの?」
「それは、」
それは事実でした。イズーは角のことを彼に一切話していませんでした。けれど、
「……それは、仕方ないことだったんです、トリシュト」
「仕方ない?仕方ないって言った?へえ、仕方ないんだ!?」
トリシュトはイズーに近づいて、イズーの右前足を力強く引っかきました。
「い、痛いです、トリシュト!やめて!!」
トリシュトの鋭く固い爪がイズーの固いドラゴンの鱗を切り裂きました。いつの間にこんな爪が生えていたのでしょうか。
「イズー、ねえ、イズー!どうして隠し事なんかしたんだよ!!」
イズーは痛みのあまり声を出せず、その場に頽れました。トリシュトの声が巣穴に響きます。
「キミは嫌いだ」
「トリシュト……」
「イズーなんか嫌いだ」
「……」
「隠し事するイズーなんか嫌いだ……大嫌いだ!!」
「……」
「嘘つき……嘘つきイズー……ボクを騙して、それで楽しかったか?陰でボクを嘲笑っていたんだろ?」
「そんな、ことは……」
「大嫌いだ、キミなんか。大嫌いだ大嫌いだ大嫌いだ!!!!」
横たわったイズーの頬の辺りを固く尖ったものが二つ触れました。それは爪と同じように鱗を易々と引き裂きました。
それは、トリシュトの頭に立派に生えた角だったのでした。いつの間にか大きくなっていた、人間の角だったのでした。
痛くて痛くてたまりませんでした。
辛くて辛くてたまりませんでした。
苦しくて苦しくてたまりませんでした。
だから、涙が後から後から出て止まりませんでした。
どうしてこんなことになってしまったのでしょう。
「痛い……痛い……トリ、シュ、ト」
トリシュトはイズーの呼びかけに応えませんでした。角はイズーの頬や首を抉りました。トリシュトは呻きながら、イズーに頭突きを繰り返していました。何度も何度も繰り返し、しばらくして、それは唐突に止みました。
「どうしよう、イズー」
興奮から冷めたような、けれど熱に浮かされたような声が聞こえました。イズーが今までに聞いたことがないトリシュトの声でした。
「お腹が空いたよ。何だかボク肉が食べたい気分なんだ」
彼の言葉が意味するところは、つまりこうでした。
「キミのことを食べたい気分なんだ」
角が生えて、トリシュトは大人になりました。大人になってしまえば子どもに戻ることはできない。それは、ドラゴンだろうと人間だろうと魔法使いだろうと同じことでした。トリシュトは人間の大人になったのです。ドラゴンを食べたがるのは無理のないことでした。
「トリシュト……」
イズーはトリシュトの視線を感じました。さっきまで頭突きをしていた首筋に鋭く視線を向けているようなのでした。
首筋が鋭く掴まれました。トリシュトの息遣いが近くで聞こえます。
「食べたい。食べたいんだ、イズー」
「……」
「食べたい食べる食べなきゃ食べたい食べろ……」
トリシュトはブツブツと呟きました。傷口にまた角が何度か刺さります。けれど、一向にトリシュトがイズーを食べる気配はありません。
イズーには薄々分かっていました。
「嘘つきなのは、貴方、じゃないですか……トリシュト」
痛くて辛くて苦しくて。
涙が後から後から出て。
嘘を吐くってそういうことで。
本当のことを言うのもそういうことで。
ああ、私の大事な人。大事な人間。
貴方は私に空をくれた。だから、私は貴方にこの身を捧げても構わない。貴方に喰われるなら本望だ。
けれど、私が食べられて、死んで……その後は?
その後、私はこの人に“私を喰った”という事実を背負わせることになる。
「私は、貴方に……そんなことを、背負わせるわけにはいかない!!」
理性がなくなろうが、獰猛になろうが、嘘を吐こうが、ドラゴンを食べたがろうが、今目の前にいる人はトリシュト以外の何者でもない。
私の好きな、大好きな、大切な、大事なトリシュト。
トリシュトをそんな目に合わせたくない。
イズーは体を反転させました。地面の底から響くような吠え声を上げながら、左前足でトリシュトを床に押さえつけました。そして、鼻先でトリシュトの頭を優しく撫でてやり、そのまま大きな牙をトリシュトに振り向けました。
「イズー」
ほんの一瞬、名前を呼ばれるのを聞いた気がしました。本当に呼ばれたのか、空耳だったのかはイズーには分かりませんでした。笑っているような、泣いているような不思議な声でした。
イズーは勢いを殺さず、その牙をトリシュトの頭にある二つの角めがけて降ろしました。牙は角を根元から完全にへし折りました。
ガリッ……ゴリゴリ……
イズーは力いっぱい角を噛み砕きました。口の中で何度も何度も咀嚼して、むせながらもどうにかこうにか飲み込みました。
イズーはその足裏でトリシュトの鼓動を感じていました。さっきまでの大きく激しい鼓動が嘘だったみたいに、今は静かに脈を打っています。呼吸も安らかです。どうやら眠っているようでした。いつものトリシュトの雰囲気に戻っているようで、イズーはほっと息を吐き、足をどかしました。
何だかとても疲れました。イズーは空を見たときを思い出しながら、トリシュトの隣に横たわりました。
「トリシュト……これで……もう、大丈夫、ですよ」
何だか眠くなってきました。意識が朦朧としてきました。
明日目を覚ましたら、きっとすべてが元に戻っているはすだ、とイズーは思いました。優しくて温かいトリシュトに戻っているはず。
そしたら、一緒においしいご飯を食べよう。また、お日様の下で寝転んだり、一緒に花の香りを嗅いだりしよう。また、自由に空を飛ぼう。
そして、今度こそちゃんと打ち明けよう。貴方に私の想いを打ち明けよう。
「私は貴方が大好きです」
イズーは目を閉じました。