3、角は
ある晴れた日、イズーとトリシュトは山岳地帯の境目にある大きな湖までやってきました。トリシュトの提案通り、一緒に空を飛びに来たのです。一人では無理でもトリシュトとなら飛べるかもしれない、イズーはそう思いました。
「イズー、お腹空いていない?」
「はい、少しお腹が空きました」
太陽は真上から光を発して、湖に輝きを与えています。イズーとトリシュトはお昼ごはん用に持ってきていた草花サラダを一緒に食べました。トリシュトが様々な香りの良い草を組み合わせて作ったサラダだったのでとてもおいしく食べました。
でも、いざ湖のほとりに着くと、イズーはしり込みしてしまいました。もしも、何かにぶつかったらどうしよう。もしも、突然強い風が吹いてバランスを崩したらどうしよう。
「イズーは何でもマイナスに考えすぎなんだ」
トリシュトはイズーの固い鱗を撫でました。トリシュトに撫でられると温かくて懐かしくて不思議な気持ちになります。クレティアに触れられるときは冷たく沁みるようですが(沁みるのは薬のせいもあるのですけれど)、それでもその冷たさを心地よく感じることもあります。魔法使いたちにはドラゴンの心を動かす不思議な力があるのでしょうか。
「もしも、風より早く飛べたらどんなに素敵だろう。もしも、太陽に近づけたらどんなに胸が高鳴るだろう。そうやって、ワクワクドキドキしてみるんだ」
「ワクワクドキドキ、ですか」
イズーは自分の鼻先を開けた空に向けました。それはとてもとても久しぶりのことでした。掠った風に甘い花の香りが混じっています。花の他にも若い草や木の実の匂いが弾けたり、鳥のさえずりや山の木々が枝を擦り合わせる音が聞こえたりします。
そこに世界がありました。世界が開けていました。
イズーは大きく伸びをしました。とても清々しく感じたのです。
「……行きましょう、トリシュト」
「行こう、イズー」
イズーは小さなトリシュトを自分の大きな首元に乗せました。以前、村を歩くときにクレティアを乗せたことをイズーは思い出しました。トリシュトの体はクレティアよりも小柄ですぐに吹き飛ばされそうに思えました。今のトリシュトもそうでした。
イズーはあまり体を揺らしすぎないように気を配りました。翼が広がり、空気を勢いよく打ちます。何かが破裂するような音と共に、イズーの体は浮かび上がります。落ちていた枯れ葉や土埃も勢いよく舞い上がります。
「ちゃんとしがみついていてくださいね、トリシュト」
「うん。僕が目になるからイズーは安心して飛んで。まずは空高くまで上昇してみよう」
イズーはどんどん高度を上げました。それにつれて風も急激に強まります。イズーも、彼女の首にしがみつくトリシュトも大きな声で言葉を交わします。
「大丈夫ですか、トリシュト!?」
「大丈夫!平気だよ!!イズー、もう少し右に逸れて!雲の上まで行こう!」
イズーの体を傾き、雲間を潜り抜けます。耳を風の轟音が突きました。空気が少しずつ冷えて行きます。イズーは息を詰め、その中を一気に上り詰めて、そして、
「……」
「……」
イズーとトリシュトは雲の上に出ました。トリシュトは下を見下ろしました。遥か下の地上にはミニチュアのような山々やさっきまで大きく見えていた湖がほんの小さな水溜りに見えていました。どこか急ぐように細かい雲がイズーの足元を過ぎ去りました。
二人はしばらく黙っていました。
黙って空の音を聞いていました。
黙って空の匂いを嗅いでいました。
黙って空の感触を味わっていました。
「イズー、これが空だよ」
「トリシュト、これが空なんですね」
ああ、これは……今まで私が……。
イズーは見えない目から涙を流しました。あまりにも大きくて、あまりにもいっぱいで、あまりにも嬉しくて。
「ねえ、トリシュト。私は空を初めて知ることができたような気がします」
「ボクも初めて空を見た気分だ。ううん、気分じゃないな。きっと本当に初めてなんだ」
「本当に空って綺麗なんですね。美しいんですね」
「そうだね、イズー。そうなんだね、イズー」
イズーとトリシュトは言葉を交わしました。
そして、彼らはてっぺんにあったお日様が沈むまで空を飛んでいたのでした。
※
飛び立ったときと同じ湖の畔にイズーは降り立ちました。足裏に感じた土の感触にイズーは少しほっとしました。
辺りはすっかり暗くなってしまっています。これだけ長時間飛んだのは初めてだったのでイズーはくたくたに疲れていました。彼女にしがみ付いていたトリシュトも疲れが溜まっているようで伸びをしたり体をほぐしたりしていました。
それでも彼女たちはどうにかこうにか巣穴に帰りました。
「おやすみ、トリシュト」
眠る前、イズーは少し迷ってトリシュトの方に鼻先を伸ばしました。何となく、本当に何となくですが、トリシュトに触れたいと思ったのです。トリシュトに撫でてもらうことは多いですが、イズーから彼に触れることは今までありませんでした。けれど、あの大きな空を思い出すと余計に彼に触れたいと思ったのです。
だから勇気を出してイズーはその鼻先でトリシュトに触れました。トリシュトの頭に触れました。
「……」
「あはは、くすぐったいよ、イズー。おやすみ。良い夢を」
カサカサとトリシュトが草のベッドに潜り込む音が巣穴に響きました。
イズーは声もなくそれを聞いていました。声を出せずにいました。
鼻先に触れた感触。頭の毛の中に感じたそれは紛れもなく、短く盛り上がった、生え始めでまだ軟らかい角だったのですから。