夢現・始まりの鐘は未だ鳴らず
朧気なまま、夢の中にいるようなふわふわした感覚が体を捕える。
車に轢かれたのだ、死んで当然だ。
だからこれはきっと、死にゆく感覚なんだろう。
そう、思っていた。
『こやつの命、拾えぬか。主ならば出来る筈であろう?』
しわがれた老人の様な声が聞こえて、まだ俺は死んでないのだと気付いた。
どんな言語かはわからない、知らない言葉。
でも生かしたいという、そんな響きが含まれている気がした。
『あら、死にかけの魔術師になにをいってるのかしら。
今の呪詛に蝕まれている私じゃ、術ひとつ行使するのも難しいわよ?』
くすくすと艶やかな女性の声が老人に何か答えていた。
どこか苦しそうな声で、
どうして老人がこの人に何かを頼んでいるのか分からなかった。
『主の研究、最後の一つを試せばよかろ。
それならば我にも主にも不都合はあるまい?』
老人はくつくつと女性に語りかけている。
視界が効かないからどうなっているのかはわからない。
でも、老人は意地でも俺を生かすつもりなのだろう。
それだけは確かだ。
「………もう、生きて、いたくない。」
あの子供を助けられて、役に立てて、もうそれでいいんだ。
価値のない日々なんていらないから、あんな辛い日々なんていらないから、
死なせてくれ。
『まだ、生きているのは確かなようね。でも死にたそうよ?』
もう、存在を否定されて生きるのも、一人寂しく過ごすのも嫌なんだ。
暴力を振るわれるのも暴言を言われるのも蔑んだ目で見られるのも怖いんだ。
だから、もう楽にしてほしいんだ。
『いや、死にたいと思ったわけが興味深くてのう。
こやつはまだ死ぬべきではないと思うてな。』
誰かの手が俺の頭を撫ぜた。
優しい手つきで、温かいそれ。
ずっと欲しかった、でも誰にももらえなかったモノ。
「……痛いのは、辛いのは、寂しいのは、もう嫌だ。
……苦しいのは疲れた。だから、死なせろよ。」
涙があふれて、寂しい、淋しいって、抱え込んできたものが零れだした。
どんなに辛い日常でも、いつかどうにかなるって思ってたのに
価値がない自分でも価値があるはずだって
言ってくれる誰かが現れるって思ってたのに
そんなこと、ありえる筈はなくて。
どうして、俺は生きてるんだ?もう死なせてくれたっていいじゃないか。
『価値がないとそう思いこんでいる、
思い込まされているこやつを生かしてみたくてな。』
撫ぜてくる手はそのままに、彼らは会話を続ける。
息が苦しい。意識が遠のいていく。
『仕方ないわね。賭けになるけどいい?』
聞こえていた声も遠ざかっていく。
『構わんよ。性別も変えてよいぞ?そのほうがこやつにはいいだろうて。』
ふわふわした感覚が強くなっていく。
『ただ素直に死ぬよりは、この子にかけてみるのも手かしらね。
その代り、この子にはいろいろ背負わせちゃうことになるわね。
ねぇ、死にかけの貴方。私ね、全部、貴方に託すわ。今はわからなくていい。
でも、私が貴方の命を救ったことは覚えていて。それだけで充分。
いつか、わたしの研究を継いでくれると嬉しいけどそれは我儘ね。
私の分まで生きて、この世界を楽しんでみなさいな。』
そして、何もかも途切れた。
彼はこの時のことを朧気にしか覚えていないです。
そも、会話のほとんどを理解していません。
つまり、自分がどうして生かされたのかも、理解してないです。
女性がどうなるのか、老人が何者かはそのうち物語が進めば判明します。