デッドエンドハッピー
教室を見回して、彼は安堵の息を漏らした。
櫻井美里がきちんと自分の席に座っていたからだった。
彼は教師だ。
櫻井美里は彼のクラスの生徒だ。
美里はいつもクラスに一人でいる。
誰と話すでもない、笑うでもない、一人でそこにいる。
昼休みは一人で屋上に出る。
どんなに暑い日も寒い日も、必ず屋上に出る。
そうしてやはり、美里は一人だった。
彼はそれを心配した。
ひとりぼっちの美里を心配し、しょっちゅう声をかけた。
美里は彼に笑って返事をし、それでも誰かと関わろうとはしなかった。
あるとき、美里が手首を切って病院へ運ばれた。
彼が病院に駆けつけた時、男が一人美里のベッドのそばに立っていた。
美里は一人暮らしで、家族は今居ないはずだった。
彼が男に身元を聞くと、男はあからさまに狼狽した。
彼が通報し、男は連行された。
その翌日、美里は学校に来た。
周囲は美里が自殺未遂をしたと騒いでいたが、美里はいつもと変わらずそこにいた。
いつもと変わらず静かに、いつもと変わらず無言で。
ただ、その日から屋上には出なくなった。
さらにその翌々日から、美里は学校に来なくなった。
何日かしてから、彼は美里の家に行った。
学校に通うために祖母の家に下宿していたのだが、その祖母が入院し、今は美里が一人で住んでいる。
もうあたしを見ても誰だかわからないんです、と美里は笑った。
きっと寂しいのだろうと思った。
会って話した美里は、痩せてはいたが想像よりも元気で、普段と変わらず彼の話を聞いた。
彼はいつもよりきちんと話をした。
悩みがあるなら話してほしい。
クラスのやつらに言いたいことがあれば俺から話もする。
とにかく学校に来てほしい。
みんな心配している。
美里は笑って、
「ありがとうございます」
とだけ答えた。
その二日後から、美里は学校に来るようになった。
彼が話をした甲斐もあって、クラスメイトの何人かが美里と話をしていた。
美里は彼に見せるのと同じ笑顔を浮かべ、楽しそうに話していた。
そうしてまた屋上に出た。
「美里? なにしてるんだ?」
彼が見たとき、美里は屋上の柵の外に居た。
一歩先は36m下、アスファルトの駐車場だ。
どうして。
最初に考えたのはその理由だ。
美里は何日もずっと笑顔でいた。クラスの人間とも話をするようになっていた。なのになんで、という気持ちが何より強かった。
「やめろ。何してるんだ。早くこっちに戻ってきなさい。馬鹿なことはやめて、早く」
美里は動かない。
ただ視線だけを彼の方へ滑らせ、そこに立っている。
「どうしてそんなことをするんだ、悩みがあるなら言ってくれ。なあ、つらいのはお前だけじゃない。みんな悩みを抱えて生きてる。一人じゃ解決できなくたって、誰かに頼ればあっさり解決する悩みもあるんだ」
美里は動かない。
「人は一人じゃないんだ、助けてくれる人がたくさんいる。俺だって協力する。クラスの奴らだって、きっと協力する。だから戻ってきてくれ。なあ」
「先生」
美里の口が小さく動いた。
「先生、あたし今すごく幸せなんです」
は、と彼は声を漏らした。理解ができなかった。
美里は続ける。
「あたし今すごく幸せなんです。あたしを好きだって言ってくれる人が居るんです。初めて、心の底から幸せだって思ってるんです。悩みなんてありません」
彼の知らない笑顔で、話し続けた。
「ずっと、どうしてあたしばっかり不幸なんだろうって思ってました。自分でさえ自分が大嫌いでした。でも、そのあたしを好きだって、ずっとそばに居るって言ってくれる人が居たんです」
「じゃあ、なんでそんなことをするんだ」
「だって」
美里は笑った。
「ハッピーエンドじゃないですか」
「なにを」
彼は喘ぎながら声を絞り出した。
「何がハッピーエンドだ。死んだら何もないんだぞ。嬉しいことも楽しいことも、折角今幸せなら、なんで死ぬなんて」
怒鳴るように吐き出してから、大きく息をついた。
「だって、今幸せなんですもん」
「だからなんで」
「幸せなら、物語ならここで終わりですよね。でも人の人生はそこでは終わらない。続くから不幸になっていく。だからあたしはここで人生を終わらせるんです。最高のハッピーエンドです」
昼休みの終わる予鈴が鳴った。
彼は時計を見て、すぐに視線を美里に戻した。
美里はもうそこに居なかった。
彼女の物語が終わった音がした。
12.03.08 投稿