「三年間、毎朝あなたの薬を調合していたのは私です」と告げた日、王太子は初めて私の名前を呼んだ
夜明け前の薬草園は、露に濡れた青の匂いがする。
リーネは素手で薄荷の葉を摘んだ。指先に冷たい露が伝い、爪の隙間に緑が染みる。三年間、毎朝同じ時刻に同じ場所でこうして葉を選んできた。季節によって摘む部位が変わる。夏の終わりは茎に近い下葉がいい。精油の乗りが違うのだ。
石の乳鉢に薄荷と乾燥させた甘草を入れ、擂り潰していく。擂粉木の硬い手応えが掌を叩くたび、薬草の匂いが濃くなる。青い匂い。苦い匂い。三年のあいだに手の皮が硬くなり、最初の頃にできた豆はもう潰れて平らになっている。
ここに蜂蜜を三滴。昨日より一滴多い。
昨夜の晩餐会で殿下は二杯目の葡萄酒を残していた——リーネは広間の端に立っていたから、それが見えた。あの方は体調が落ちると甘いものを避ける。けれど薬が苦ければ飲み残す。だから蜂蜜を足す。
こんなことを知っているのは、この王宮で私だけだ。
調合が終わると、小さな陶器の薬瓶に液を注いだ。蓋をして、白い布で包む。布の端を結ぶ指先は薬草に染まって、どれだけ洗っても色が落ちない。社交の場で手袋を外せない理由を、聞いた者はいなかった。聞く者がいなかったのだから、当然だ。
千と九十五日目の朝。
薬草園から王宮の東棟へ向かう回廊は、この時刻にはまだ薄暗い。
石畳を踏む自分の足音だけが響く。すれ違う者はいない。使用人が動き出すより早く、衛兵が交代するより早く——リーネの朝はいつも王宮の誰よりも早かった。
東棟に入ると空気が変わる。磨かれた大理石の冷たさ。どこかの部屋から漂う香木の残り香。壁にかかった燭台の金具が、廊下の灯りを受けて鈍く光っている。リーネの薬草の匂いとは、何もかもが違う世界だった。
王太子の居室の前で立ち止まる。扉には触れない。三年間、一度もこの扉を自分の手で叩いたことがなかった。脇の小卓に薬瓶を置き、控えの間に詰めている侍女のマーレンに目で合図する。
「リーネ様、今朝もありがとうございます」
マーレンが小声で礼を言い、薬瓶を受け取る。
「殿下の咳は治まりましたか」
「ええ、昨夜からは出ていないようです」
リーネは頷いた。なら明日は甘草を減らそう。精油の比率を戻して、代わりに消化を助ける茴香を半匙。秋に入れば気管が乾くから、そこで甘草をまた足せばいい。
扉の向こうから、かすかに寝息が聞こえた。規則正しい呼吸だ。咳の気配はない。昨日の配合が合っていたらしい。
殿下の顔を見たことは何度もある。すれ違ったことも、同じ広間にいたこともある。けれど殿下はいつも、リーネの顔を見て少し考えるような間を置き、それから思い出したように会釈をする。三年間、同じ表情の繰り返しだった。
名前を呼ばれたことは、一度もない。
婚約が決まったのは三年前、リーネが十七の春だった。
王立薬学院を首席で卒業した男爵令嬢と、原因不明の持病を抱える第一王子。政略というほど大きな話ではなく、「薬師の娘なら殿下のお体に詳しかろう」という程度の縁組みだった。リーネの父は恐縮し、リーネ自身は淡々と受け入れた。
婚約者として最初に求められたのは、殿下の持病に合う薬を調合することだった。王宮の薬師たちが匙を投げた処方を、リーネは二十七日で組み上げた。症状を観察し、体質を分析し、薬草の組み合わせを日ごとに変えていく。学院で学んだ理論と、男爵家の庭で幼い頃から培った感覚の両方が要った。
殿下の体調は目に見えて改善した。咳が減り、食欲が戻り、公務に支障が出なくなった。
けれど薬を届けるのは侍女を通してだった。調合したのが誰かを、殿下に伝える者はいなかった。リーネ自身が言わなかったからだ。言う必要を感じなかった。薬が効いていればそれでいい。薬師の仕事はそういうものだ。
社交の場に立つより、薬草園にいる時間のほうがずっと長かった。王妃に求められる華やかさを、自分が持っていないことくらいわかっている。だからせめて、自分にできることを毎朝、一瓶の薬に詰めた。
秋の園遊会だった。
リーネは庭園の隅で柘榴の果汁を飲んでいた。杯の縁に果肉が一粒張りついている。それを指で取って口に入れながら、遠くの人垣を眺めていた。社交の輪に入る術を持たないリーネには、こうして離れた場所から見ているのが性に合っている。
噴水の前で、殿下が笑っていた。
声を上げて笑っている。リーネは目を細めた。あの方が声を上げて笑うのを見るのは初めてだった。
隣に立つ令嬢が何かを言い、殿下がまた笑う。蜜色の巻き毛が秋の陽光に透けて、笑うたびに周囲の貴族たちが花に引き寄せられるように集まってくる。声がよく通る。手振りが大きい。冗談を言うたびに場の空気が明るくなるのが、離れたここからでも分かった。
リーネは自分の手を見た。薬草に染まった指先。爪の隙間の取れない緑。手袋で隠しても、脱げば見える。
侍女のマーレンが、そっと隣に来た。
「リーネ様」
「知っています」
リーネは柘榴の果汁を飲み干した。甘酸っぱさが喉の奥に残った。
「あの方のお名前は」
「フローラ・ヴァイセン伯爵令嬢です。先月の舞踏会から殿下と親しくされていて——」
「そう」
マーレンが何か言いかけて、やめた。リーネの横顔を見て、言葉を飲んだのだろう。泣いてはいない。笑ってもいない。ただ空になった杯を両手で持っていた。
噴水の水音が、やけに大きく聞こえた。
正式な通達は、その三日後に届いた。
王宮の応接間。長卓の向こうに殿下が座り、脇に侍従長が控えている。リーネは勧められた椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「率直に言う」
殿下——アレクは、リーネの目を見なかった。卓上の書類に視線を落としたまま話した。
「君には感謝している。この三年間、君の薬師としての働きには何の不満もなかった」
薬師としての、と彼は言った。
「だが、王妃にはもっと——社交に長けた人物が必要だと、父上も仰っている。フローラ・ヴァイセン嬢との婚約を進めたい」
リーネは黙って聞いていた。怒りではないと思った。予想していたことが、予想通りの言葉で届いただけだ。ただ、膝の上に置いた手がいつの間にか握られていることに、自分では気づかなかった。
テーブルの上に置かれた書類の束が、燭台の灯りで淡い影を落としている。婚約解消の書面。リーネの名前が書いてあるはずだが、ここからでは読めなかった。
「婚約の解消にあたり、ハルヴェスト男爵家には相応の——」
「結構です」
アレクが初めて顔を上げた。リーネの目を見た。三年間で、これほどまっすぐに目が合ったのは何度目だろう。
「補償は不要です。もとより政略と呼べるほどの縁組みでもありませんでしたから」
自分でも驚くほど平坦な声が出た。淡々と、事務的に。まるで薬の配合を報告するときと同じ口調で。感情を込めない声。三年間ずっとこの声で話してきた。
アレクは何か言いたげに口を開き、閉じた。それから小さく頷いた。
「……すまない」
リーネは立ち上がった。一礼して、扉に向かった。
背後で侍従長が書類を整える紙の音がした。それだけだった。
その夜、リーネは薬草園の作業台で調合記録帳を開いた。
革表紙の帳面は、三年の使い込みで角が丸くなっている。千日以上の記録がリーネの細かい文字でびっしりと埋まっていた。日付。気温と湿度。使用した薬草の種類と量。殿下の前日の様子から推測した体調。配合の根拠と意図。
余白には、小さなメモが書き添えてあった。
『今日は顔色が良い。昨日の配合が効いたか』
『二日続けて咳。夜の冷え込みが原因と思われる。明日から鎮咳を強める』
『食欲が戻っている。蜂蜜を減らしても飲めるはず』
『園遊会で長く立っていた。明日は関節の痛みが出るかもしれない』
どのページにも、殿下の名前は書かれていなかった。「殿下」とだけ。一度も名前で呼んだことがないのだから、記録にも書けるはずがなかった。
リーネは帳面を閉じた。革の表紙を手のひらで撫でた。薬草の匂いが染みている。
明日の朝、最後の薬を届ける。それで終わりだ。
作業台の上の蝋燭が、じり、と音を立てて短くなった。
最後の朝は、いつもと同じ匂いで始まった。
夜明け前の薬草園。露に濡れた薄荷。石の乳鉢。擂粉木の硬い感触。三年間で千と九十六回目の、同じ手順。
今日の配合は昨日と同じにした。変える必要がない、最善の配合。引き継ぎ用の処方箋に書き起こせるよう、いつもの微調整を省いた標準処方だ。これなら腕のある薬師が三人がかりで取り組めば、近い効果を出せるだろう。
近い、だけだ。
調合を終えたリーネが薬瓶を持って東棟に向かったとき、マーレンに薬瓶を渡さなかった。
「リーネ様?」
「今日は、私が届けます」
マーレンが目を見開いた。三年間、一度もなかったことだ。何か言おうとして、それから静かに頷いた。
リーネは扉を叩いた。
間があった。長い間だった。それから扉が内側に引かれ、寝起きのアレクが立っていた。亜麻色の髪が乱れ、寝衣の襟が崩れている。リーネを見て、いつものように一瞬考えるような間を置いた。
「……ああ、薬師の」
「お薬をお持ちしました」
リーネは薬瓶を差し出した。アレクが受け取る。その手が少しだけ冷たいのを、リーネの目は見逃さなかった。末端の冷えは持病の前兆だ。今朝の配合に生姜を足しておくべきだったかもしれない。けれど標準処方に生姜は入っていない。
もう、微調整はできない。
「殿下」
「うん?」
「三年間、毎朝あなたの薬を調合していたのは私です」
アレクの手が止まった。薬瓶を持ったまま、指が動かなくなった。
「薬は……侍女が薬師から受け取って届けていたのでは」
「マーレンは届け役です。調合は私がしていました。毎朝、あなたの前日の体調を観て、配合を変えて」
リーネは薬草園の方角に顔を向けた。東棟の窓からは見えない場所。夜明け前から灯りがつく、小さな作業場。
「あの薬は既製品ではありません。王立薬学院の処方箋にもない調合です。殿下の持病に合わせて、私が一から組み上げたものです」
アレクは手の中の薬瓶を見下ろした。白い布に包まれた、手のひらに収まるほどの小さな瓶。毎朝、枕元に置かれていたもの。三年間、それが誰の手で作られているのか、考えたこともなかったもの。
「三年間——」
「千と九十六日です」
リーネは懐から帳面を取り出した。革表紙の調合記録帳。角が丸くなり、薬草の匂いが染みた帳面。
アレクは受け取らなかった。受け取り方がわからないというように、両手が宙に浮いたまま止まっていた。
「これを置いていきます。次の薬師の方への引き継ぎとしてお役に立てれば」
リーネは帳面を脇の小卓に置いた。三年間、毎朝薬瓶を置いていた場所。マーレンが受け取り、殿下の枕元に届けていた場所。
「お元気で、殿下」
背を向けた。
「——待ってくれ」
足を止めなかった。
「リーネ」
名前だった。三年間で初めて、殿下の口から出た自分の名前。声が少し掠れていた。薬を飲む前の、朝一番の声だった。
リーネは振り返らなかった。
足音だけが回廊に響き、角を曲がり、やがて消えた。
翌朝、アレクは薬が届かない朝を初めて迎えた。
目が覚めて手を伸ばした枕元の小卓に、白い布に包まれた瓶がない。毎朝そこにあったものが、ない。当たり前のように伸ばした手が、卓の木の表面に触れただけで止まった。
侍従に命じて宮廷薬師を呼ばせた。初老の薬師は、リーネが置いていった記録帳と処方箋を並べて読み、何度も首を傾げた。
「殿下、この調合は……王立薬学院の文献にございません。基本の鎮咳処方に七種の薬草を独自に加え、さらに日ごとに配合比を——これは、いったいどなたが」
「元婚約者だ」
薬師は黙り込んだ。帳面のページを繰る手が止まった。
「再現できるか」
「基本の配合の理屈は分かります。ですが日ごとの微調整は、殿下のお体を間近で観察していなければ不可能です。前日の食事、睡眠、体温、顔色——この記録帳を見る限り、三年をかけて殿下専用の処方体系を、一人で構築しておられる」
薬師は帳面を両手で持ち直した。
「これは学術論文になるほどの仕事です」
アレクは記録帳を受け取った。最初のページを開いた。三年前の春。文字は今と変わらず細かく、几帳面で、感情の滲まない筆跡だった。
ページを繰った。季節が変わった。春から夏へ、夏から秋へ。薬草の種類が変わり、配合の数値が微妙に動く。どのページにも同じ筆跡で、同じ丁寧さで、記録が続いていた。一日も空白のないページの連なり。
余白のメモが目に入った。
『今日は顔色が良い』
『園遊会で長く立っていた。明日は関節が痛むかもしれない』
『食欲が戻っている。よかった』
よかった。
アレクの指が、そのたった一言の上で止まった。
千日分の記録の中で、配合でも数値でもない言葉はほとんどなかった。この帳面を書いた人間は、自分の感情を記録に残すような人ではなかったのだろう。だから余白に小さく添えられた「よかった」のただそれだけの言葉は、滲むように目に残った。
殿下の食欲が戻った日。その日の調合記録の隅に、ただそれだけが書いてあった。
記録帳を閉じた。革の表紙がまだ薬草の匂いを含んでいた。薄荷と甘草。蜂蜜のかすかな甘さ。毎朝、枕元に届いていた匂いと同じだった。三年間、目覚めるたびに鼻をかすめていた匂い。
その匂いの出所を、自分は知ろうとしなかった。
アレクは立ち上がり、窓を開けた。東棟の窓から、中庭の奥に薬草園が見える。夜明け前から灯りがついていたはずの、小さな作業場。
灯りは消えていた。
作業台の上に、洗われた乳鉢と擂粉木が伏せてある。乾いた薬草の束だけが、軒先の竿にかかって朝の風に揺れていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話、書いているあいだずっとリーネの「よかった」のたった一言が頭から離れませんでした。千日分の調合記録の中で、たった一箇所だけ数値でも配合でもない言葉を書いた瞬間——あの子にとってあのひとことがどれだけ大きかったかと思うと、手が止まりました。
リーネの名前の「ハルヴェスト」は、薬草の収穫を意味するharvestから取っています。自分自身は何も収穫せずに、三年間ずっと誰かのために摘み続けた子に、いつか自分のための花を摘んでほしい。そんな願いを込めました。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!




