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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

「終わりの迷宮」:生還率50%の迷宮に挑む冒険者の記録

作者: 昼寝たすく
掲載日:2026/03/22

 世界中にダンジョンが出現してから、長い年月が経過した。日本でも「冒険者」は一般的な職業となった。


 桐生澪、二十二歳。Bランクのソロ斥候。


 二年前、師匠であり憧れだった三隅冬弥が、終わりの迷宮の第四層で死んだ。パーティ全滅。生還者ゼロ。あの日、澪は正規メンバーだった。前夜の発熱がなければ、一緒に死んでいた。


 以来、澪は迷宮が怖くない。五十パーセントの生還率も怖くない。周囲はそれを「冷静さ」と呼んだ。澪もそう呼んでいた。


 姉の治療費のために終わりの迷宮に単身で潜った澪の冒険は……


※この作品の主人公は50%の確率で、この作中で死にます。作者はラストシーンの直前付近でダイスを振って主人公の生死を決め、執筆を継続しています。

「桐生さん、これ、終わりの迷宮になってますけど」


「ええ」


 窓口の女が申請書を二度見した。


「直近六ヶ月の帰還率、五十パーセントですよ。Bランクソロで入る場所じゃないです。同ランク帯なら蒼穹洞窟が報酬単価——」


「蒼穹洞窟は魔石の市場価格が先月から九パーセント下落してます。終わりの迷宮の固有素材は下落してない。計算した上での判断です」


 女は黙った。

 免責同意書が出てきたので、桐生(きりゅう)(みお)は署名した。

 クロスボウの弦を張る動作で硬くなった右手の指が、ペンを淀みなく走らせた。


 この指の使い方を教えてくれた人は、もういない。


 三隅(みすみ)冬弥(とうや)。Aランク探索者。


 澪が十八のとき、ギルドの新人講習で初めて会った。

 実地訓練の引率。第一層の訓練区域に入る前に、三隅さんは通路の入口で三十秒、立ち止まった。


「何してるんですか」


 と聞いた。


「迷宮の声を聞いてる」


 意味がわからなかった。


 でもその三十秒のあと、三隅さんは一歩も迷わなかった。罠を全部言い当てて、魔獣の動線を読み切って、十二人の新人を一人も傷つけず連れて帰った。


 ……あの人みたいになりたい。そう、思った。

 ギルドには三隅さんより高ランクの探索者もいた。でも、なりたいと思った人間は一人だけだった。


 講習の最終日、声をかけた。


「斥候を探してると聞きました。私を使ってください」

「クロスボウ、撃てるのか」

「撃てません」

「正直なのはとてもいいことだ。教える」


 一年間、澪は三隅パーティの研修生として実績を積んだ。

 そして講習の最終日からきっかり一年後、澪は三隅パーティの正斥候になった。

 才能もあったのだろう。それからずっと、斥候は澪だった。

 三隅さんが、死ぬまで。


 装備は最小限にしてある。


 携行型クロスボウ一挺。

 交換用の弦、二本。

 通常弾十六本。

 徹甲弾四本。

 閃光弾二本。

 戦闘用ナイフ二本。

 魔素観測器。

 圧縮食糧二食分。

 止血帯と縫合セット。


 回復薬はない。

 パーティ向けの支援装備もない。

 他人をかばう前提の道具が一つもない。


 ソロ斥候の合理的選択。自分ではそう呼んでいる。


 ギルドの廊下を歩きながら、掲示板を横目に見た。


 蒼穹洞窟。

 魔鉱山。

 雪花渓谷。


 Bランク適正の迷宮がいくつも並んでいる。帰還率は八十パーセント以上。週に二回通えば、月に二十万は安定する。


 でもそれでは、姉の治療費には足りない。


 終わりの迷宮の固有素材、灰鬼灯。一個あたりの買取額は蒼穹洞窟の魔石の十五倍。三個持ち帰れば百五十万。


 ゲート前の待機所で、スマートフォンを確認した。

 姉からのメッセージが一件。


『今日も点滴だった。看護師さんが澪ちゃんに似てる人で、ちょっとだけ元気出た。ご飯食べてね』


 既読だけつけて、画面を伏せた。


 返事は帰ったら打つ。


   * * *


 ゲートをくぐると、空気が変わった。


 蛍光灯の白い光が、壁面から滲む燐光に切り替わる。

 温度が三度下がった。

 鉄錆に似た魔素の匂いが鼻を刺す。


 終わりの迷宮、第一層。


 通路は暗灰色の石壁。天井は低い。人一人がかがまずに歩ける程度。大型の敵は動きが制限される。斥候には悪くない環境だ。


 三歩進んで、止まった。


 床面の石畳、左から四枚目。周囲より〇・二ミリほど高い。接合部の砂利の散り方も不自然だ。

 重量反応式の圧板トラップ。踏めば壁から石杭が飛んでくる。


 ナイフを圧板の縁に差し込み、機構をロックした。

 十四秒。


 三隅さんの声が頭の中で鳴った。


 罠は敵じゃない。迷宮の文法だ。文法を読めれば、迷宮が何を言おうとしてるかわかる。


 三隅さんはいつもそうだった。

 他の探索者が力で突破するところを、読んで、待って、避けた。それを澪にも叩き込んだ。


 弦の張り方。

 呼吸と射撃のタイミング。

 壁の脈動の読み方。

 撤退ラインの決め方。


 全部、あの人が教えてくれた。


 第一層は順調に抜けた。

 罠を三つ回避し、徘徊型の魔獣を二体仕留めた。


 一体目。通路の角から首の付け根を一射。

 二体目。天井の窪みに張り付いて背面の核を一射。


 索敵、位置取り、射撃。噛み合えば三秒で終わる。


 第二層への降下口の手前で小休止を取った。

 圧縮食糧を半分齧り、水を飲む。


 ここまでは想定内だ。


 問題は第三層から。通路の構造が変化し、壁が動き、空間そのものが歪む。罠ではない。迷宮の文法が、文の途中で書き換わる。


 三隅パーティが壊滅したのは第四層だった。


 五人パーティ。全員Bランク以上。三隅さんはAランク。生還者はゼロ。


 あの日、澪はパーティの正規メンバーだった。

 斥候。いつもの持ち場。


 でもアタックの前夜、三十八度七分の熱が出た。

 三隅さんは澪の額に手の甲を当てて、一言だけ言った。


「休め」


 代わりの斥候が入った。

 その人も死んだ。


 管理局の調査報告書は、二百ページあった。全部読んだ。

 推定死因は「大規模環境変異による退路の喪失と、長時間の魔素暴露」。

 報告書の中に三隅冬弥の名前は十七回出てきた。数えた。数えることに意味はなかった。


 数えたという事実だけが残った。


 弦の張りを確認して、第二層に降りた。


   * * *


 第二層は広く、暗い。


 壁面の燐光が弱まり、通路の幅が不規則になった。二メートルが急に五メートルに開いたかと思えば、人一人がやっと通れる隙間に狭まる。


 三体目は広間状の空間にいた。


 進入前に小石を投げて反響を確認した。奥、右寄り。反響の返り方が生体の表面で歪んでいる。


 通路の陰から覗いた。


 いた。


 背丈二メートル強。灰白色の外皮に覆われた人型。頭部がなく、胸の中央に赤黒い核が透けている。第二層の定住型個体。


 距離、十八メートル。

 定住型は視覚がない代わりに振動感知が鋭い。足音を立てた時点で終わる。


 壁の角にクロスボウを固定して照準を安定させた。

 呼吸を整える。

 吐く息の途中で引き金を絞る。


 三隅さんに教わった撃ち方だ。


 核を貫いた。定住型が音もなく崩れた。

 残骸から灰鬼灯の結晶が一つ転がり出た。小指の先ほどの大きさ。灰色に燻んだ光。


 一つ、五十万。

 採取袋に入れた。


 あと二つ。できれば三つ。それで、今月の姉の治療費に届く。


 第三層への降下口の前に、罠が二重に仕掛けられていた。


 一つ目は圧板式。定番。回避した。


 二つ目で足を止めた。

 壁面に不自然な結露がある。結露の位置と通路の形状を照合すると、魔素反応式のワイヤートラップ。生体が発する微量の魔素に反応して起動する。物理的なワイヤーがないから目視では見つからない。


 ナイフの刃を結露に触れさせた。結露が蒸発し、トリガーが消失する。


 斥候の知識がなければ、ここで終わっていた探索者もいるだろう。


 あの日、自分がいたら。

 この罠を代わりの斥候は見つけられたのか。第四層にも、こういう罠があったのか。自分なら気づけたのか。


 考えても仕方がない。

 考えても仕方がないことを、二年間考え続けている。


 第三層に降りた。


   * * *


 壁が呼吸している。


 石壁の表面が微かに脈動し、燐光が明滅する。第二層までの「古い建造物」の空気じゃあない。生きている。


 観測器の数値が不安定になった。魔素濃度が上下を繰り返している。環境変異の前兆。


 壁に手を触れた。脈動の周期を指先で読む。

 八秒間隔。まだ安定している。


 罠の密度が上がった。圧板式。魔素反応式。振動感知式。全部検知して、無力化するか避けた。


 一つだけ見たことがないものがあった。


 天井に円形の紋様。中央に小さな結晶が嵌まっている。魔術的な機構だ。専門外だが、あの結晶が起動核なのはわかる。


 クロスボウを構えて撃ち抜いた。紋様が消えた。


 力技だな、と思った。

 三隅さんが見ていたら「斥候のやり方じゃない」と言うだろう。


 三隅さんが見ていたら。


 口元が少しだけ緩んで、すぐ戻った。


 第三層の中層で二つ目の灰鬼灯を見つけた。壁面に自然結晶化したもの。

 燐光の微妙な色の違いから位置を推定する方法を、澪は知っている。


 自分の技術のどこまでが自分のもので、どこからが三隅さんの残響なのか。もう境目がわからない。


 第四層への降下口が見えた。


 ここで帰れば灰鬼灯二つで百万。帰還率は大幅に上がる。第三層までなら斥候の技術で大半の危険を回避できる。


 合理的な撤退ライン。


 勝算のない戦いはしない。自分の信条のはずだった。


 観測器を確認した。第四層の魔素濃度は第三層の二倍以上。環境変異の頻度も跳ね上がる。ソロの斥候が安全に動ける限界を超えている。


 ここで引き返すのが正しい。

 三隅さんが死んだのは第四層だ。


 二つの思考が重なった。どちらが先だったのか、区別がつかなかった。


 降下口に足をかけた。


   * * *


 第四層は静かだった。

 壁面の脈動が止まっている。燐光は一定の明るさ。空気の流れがない。魔素濃度は高いが安定。


 嵐の前の凪だ、と思った。


 足音を殺して通路を進む。壁面に罠がないか目視で確認し、観測器で魔素の乱れを監視する。


 五分ほど歩いて、見つけた。


 壁面に突き刺さったクロスボウの矢弾。


 錆びている。

 先端が欠けている。

 軸に刻まれた溝のパターンには見覚えがあった。


 三隅さんが使っていたメーカーの規格。


 触れなかった。


 触れたら認めなきゃいけない。ここが三隅さんたちの最後の戦場だと。


 二百ページの推論が壁に刺さった一本の矢に凝縮されようとするなか、澪は自分に言い聞かせた。


 ここに、来れた。私は三隅さんが死んだ場所に立っている。


 ……いや、待て。

 だから何だ。

 私がここに来たのは、灰鬼灯を探すため。

 姉の治療費のため。報酬効率を計算した上での——。


 嘘だ。


 知っていた。ずっと知っていた。蒼穹洞窟を月に十五回。三ヶ月で百五十万。半年で三百万。時間はかかるが死なない。死なない選択肢があるのに、五十パーセントの生還率を選んだ理由は「報酬効率」じゃない。


 三隅さんがここで死んだから。

 あの夜、本当は自分もここにいたはずだった。

 斥候として。三隅さんの隣で。


 そのとき、観測器が鳴った。


 全パラメータが同時に跳ね上がった。


 魔素濃度。

 空間歪曲率。

 温度変動。

 微細振動。


 環境変異。


 壁が動く。

 天井が軋む。

 通路が閉じ始める。


 背後が塞がれていく。前方も。左右の壁が迫る。


 最悪のパターン。空間圧縮。逃げ場がなくなる。


 走った。


 狭まる壁の隙間に体を滑り込ませる。右に折れ、左に折れる。壁の脈動パターンを指先で読んだ経験が、ここで生きた。


 脈動が速い壁は閉じる。

 遅い壁はまだ猶予がある。


 右が、遅い。行ける。


 二秒後に壁が閉じた。間に合った。


 前方。


 行き止まり。


 壁に囲まれた三メートル四方の空間。天井がゆっくり降りてくる。


 速度を見積もった。あと四十秒。

 壁を破壊する手段はない。徹甲弾では石壁は抜けない。


 三十五秒。


 怖くなかった。


 怖くないことが、おかしかった。


 ここで死ぬ。三隅さんが死んだ場所で、自分も死ぬ。姉には申し訳ないが——。


「……駄目だ。ダメだ、ダメだ、ダメだ!!」


 大声が聞こえた。三隅さんの声じゃない。自分の声だった。


 「姉には申し訳ないが」じゃない。駄目だ。


 天井を見上げた。


 紋様があった。

 第三層で見たのと同じ、円形の紋様。中央に結晶——環境変異の制御核。


 クロスボウを構えた手が、震えていた。


 初めてだった。迷宮の中で手が震えるのは。


 引き金を絞る。


 結晶が砕け、天井が止まった。


 壁がゆっくり後退して、通路が元に戻っていく。


 その場に膝をついた。

 クロスボウを床に置いた。

 両手を見た。まだ震えている。


「怖い」


 声が出ていた。


 二年間、怖くなかった。

 迷宮に入るのも、魔獣と戦うのも、五十パーセントの生還率も。


 怖くなかったのは、強いからじゃない。


 壊れていたからだ。


 三隅さんが死んで、自分も死んでいいと思った瞬間から、恐怖のスイッチが切れていた。

 切れた恐怖を「冷静さ」と呼んだ。「合理的判断」と呼んだ。周囲もそう呼んでくれた。


 勝算のない戦いはしない?


 嘘だ。自分が死んでもいい前提で計算すれば、あらゆる戦いに勝算はある。


 立ち上がった。

 足が震えている。

 いい。震えていい。


 来た道を振り返った。


 三隅さんがここで死んだ。それは変わらない。


 自分はここで死ななかった。それも変わらない。


 壁に刺さった矢弾がまだ見えた。錆びて、欠けた、二年前の。


「持って、帰ります」


 誰に言ったのかわからなかった。


 矢弾を壁から引き抜いた。軸が半分で折れた。

 折れた矢弾をポーチに入れた。


 灰鬼灯は二つ。百万。予定の三分の二。

 足りない。

 でも、生きて帰れば次がある。蒼穹洞窟を十五回行くのだっていい。


 第三層への上昇路を見つけたのは、それから二十分後だった。

 第二層を抜け、第一層を駆け上がり、ゲートをくぐった。


 管理局の蛍光灯が目を灼いた。


   * * *


 ロビーを出て、近所の公園のベンチに座って、スマートフォンの電源を入れる。


 姉からのメッセージが入っていた。


『今日も点滴だった。看護師さんが澪ちゃんに似てる人で、ちょっとだけ元気出た。ご飯食べてね』


 返事を打った。

 打っては消し、打っては消した。


『帰った。ご飯食べる』


 三分かかって、送信した。スマートフォンをポケットに戻す。


 ポケットの中の折れた矢弾に指先が触れると、錆びた金属の冷たさが伝わった。


 六月の湿った風が、澪の頬を撫でた。

※なお作者は「和風ウィザードリィ純情派」が大好きです。はい。

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