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瀬戸さんの思い出肉じゃが定食

瀬戸様、と受付で呼ばれてはぁいと返事をする。

見知った受付の女の子が目元だけで笑う。

お互いマスクをしているから、こちらもきっと目元しかわからないだろう。

「お会計こちらです」

領収証の瀬戸初子という名前と金額を確認して支払う。

数年前にできたこの整形外科は、どこもかしこも綺麗でこの街にある中では一番混んでいる。数日前に踏み台を踏み外して転んだところは幸い骨折していなかった。

もう七十も終わる年齢だから、最悪を覚悟していたけれど。

もらった処方箋の貼り薬の名前を見て、ああ良かったと思った。

打ち身ですと言われた時、不安がさっぱり消えた。貼り薬もこれで痛みが減るならいい、と心が落ち着いた。それだけでも来てよかった。本当に。

来院した時より軽い足取りで、病院を出た。

朝一番に来たのに気が付けばもう、少し早い昼時だ。

「今日は、くまちゃんにしましょうか、ね」

近所にあるあさくま食堂。女の子がひとりで切り盛りする食堂だ。

日替わりの定食からお茶やお菓子、喫茶メニューまで本人が気まぐれに作っている。

商店街から少し外れた場所なので、ゆったりした時間が過ごせるお店だ。

路地に小さな黒板が出ていて、そこには今日の日替わりが書かれている。

薬局に寄った足で今日は何かしらと、眺めた。

〈あさくま食堂 本日のランチ 肉じゃが定食 ※味は選べます〉

肉じゃが。ちょっと肌寒くなってきたこの時期にぴったり。

固いものだと最近顎が痛くなったり、噛むのに疲れてしまう。

かといって、歯ごたえのないものばかりは飽きてくる。

それにしても、肉じゃがの味を選べるっていうのはどういうものなのかしら。

わくわくした気分で、瀬戸さんは扉を開いた。

「瀬戸さん、こんにちは!」

ぱぁっと花がほころぶように笑う店主のくまちゃんは、テーブル席へと案内してくれた。

カウンターよりも立ち座りがしやすいので、こういう心遣いが嬉しい。

「今日はねぇ、ほら転んじゃったとこ病院行ったの」

ほうじ茶を用意する店主に話しかけると、顔色が一気に曇った。

「打ち身で済んだから大丈夫よ」

安心させるように明るく言えば、ほっとした様子でお茶とおしぼりを置いてくれた。

その間に、さっとおしながきを手に取る。


〈肉じゃが定食 醤油又は塩 カレー風味


小鉢 どれか一品

・高野豆腐の含め煮

・ほうれん草のごま和え


ご飯、お味噌汁、おかわり自由。


※今日はコロッケあり〉


コロッケ、コロッケね。普段はすぐにお腹がいっぱいになるから食べられないけれど。

お持ち帰りにしようかしら。晩御飯はこれで決まりね。ああ、ソース家にまだあったかしら。

肉じゃがは醤油と塩と、カレー?

ああ、そういえば小さな孫が肉じゃがをカレーもどきと言ってたな、なんて。

具が共通しているから、そう思ったんでしょう。ふふ。

でも今日は醤油の甘めな出汁を吸ったほくほく肉じゃがが食べたいわ。

瀬戸さんが手をあげると、すぐに店主がトコトコとやってきた。

伝票を挟んだバインダーを携えて、キリリと眉が上がる。

この顔は長い付き合いだからわかる、くまちゃんの気合の入った顔だ。

「肉じゃが定食ひとつ、小鉢は高野豆腐で……ご飯は少なめ、今日のお味噌汁は何かしら?」

「きのことお豆腐です」

「じゃあそちらも少なめで、あとコロッケお持ち帰りでふたつお願い」

お待ちくださいね、と声をかけてくまちゃんはカウンターの奥へと引っ込んだ。

小さな鍋に大鍋から一人前を移して、火にかける。

汁を吸ったじゃがいもを思い浮かべる。くつくつと優しい音が聞こえてきた。

出汁と醤油の香りがして、知らずに肩に入っていた力が抜けていく。

小さい頃に母親の作る肉じゃがを喜んでいた自分を思い出して、懐かしい気持ちで定食が運ばれてくるのを待った。


「お待たせしました、肉じゃが定食ご飯少なめお味噌汁少なめです」

熱いから気を付けて、と声をかけてくまちゃんがカウンターの奥へと引っ込んでいった。


いつものように軽くほうじ茶を飲んでからお箸を持って、手を合わせる。

「いただきます」

大ぶりのじゃがいもを小さく割ればほわと湯気が出る。

ああ、おいしそう。こぼさないように慎重に箸で持ち上げてまずは、ひと口。

「はぁ……消えちゃった」

噛んだ瞬間、ほろりと口の中で崩れた。

じわりと出汁と醤油が優しく舌を喜ばせる。

ほふほふ、と熱さを逃がして柔らかめのご飯を口へ招く。

そこへ、小さめの牛肉も足せば、もうそれだけで噛むほど幸せが溢れてくる。

柔らかく、筋張らない牛肉は薄くても小さくても主張が強い。

にんじんも、箸で切れるほど柔らかくて、玉ねぎの甘さといったらもう。

煮込んだだけで甘くなるなんて、どんな料理でも玉ねぎの活躍っぷりには目を見張るものがある。

白滝を勢いをつけないように慎重に食べ進めていく。

色々な具が、醤油と出汁に煮込まれることで、旧友のように団結しまとまるのだから、やっぱりこの肉じゃがというものは、素敵な料理だと、瀬戸さんは肉じゃがへの気持ちを改めた。もちろん各家庭に肉じゃがは存在するけど、どれも家庭によって違う味。

瀬戸さんが作る肉じゃがはいつもちょっぴり甘めだ。

この肉じゃがだってくまちゃんにしか作れない肉じゃが。

どれも違うし、けっして思い出の味は再現できないけれど肉じゃがにまつわる思い出はどんな人にもあるものだ。

お味噌汁をススっと飲めば、きのこの風味と出汁が口に広がっていく。

煮込まれたまいたけを噛めば、ぎゅっとした触感にうま味がじんわりと波のように味蕾を刺激する。ああ、おいしい。病院のロビーの冷房で冷えた体が温かくなる。

こくんと飲み込むと、味噌の甘さが舌に残るのが嬉しい。

かつおとこんぶの出汁なんて、最近はとらなくても市販でじゅうぶんおいしいけれど。

それでもかつおぶしやこんぶからしっかり丁寧に出汁をとれば、香りも味も格段に上がる。

たまには自分でもやってみようかしら、という気持ちが湧いてくる。

不思議だ。おいしいものを食べるとそれなりでもいいかという気持ちが上向いていく。

高野豆腐は、ぎゅっとうま味が詰まっていて沁み出る出汁は冷たくて喉の通りが気持ちいい。添えられた絹さやが鮮やかで、そっと口に入れれば豆類特有の青臭さとプチっとした豆の触感がして楽しい。

大きなじゃがいもを崩しながら、ゆっくりと食べ進めていく。

他人の作るご飯は、あたたかくて年を重ねるほど沁みる。

人も肉じゃがのように、じっくり時間をかけると角がとれて丸くなるのかもしれない。


▽▽▽


「ごちそうさまでした」

しゅわわわ、と揚げ物特有のあの音がして、ああお持ち帰りのコロッケだわ、と耳を澄ませる。しばらくして、かさかさとプラ容器に詰められていくコロッケが見えた。

その隣にビニールに詰められた千切りキャベツがてん、と置かれる。

ここのふんわり千切りキャベツだ。おいしいのよね、と味を思い返して微笑むとカウンターの向こうのくまちゃんと目が合う。

きょとんとした顔から、何やらジェスチャーをされて慌てておしぼりを手に取る。

肉じゃがが口の端についてたみたい。恥ずかしいけど、それだけ夢中だったということだから、まあいいかしらね。


お持ち帰りの品たちが慣れた手つきで白い手提げ袋に入れられて、テーブルに置かれた。

「はい、コロッケです」

「ありがとね」

それから、これ……と出てきたのは小さいガラスの器に入ったソフトクリームだ。

「サービスです。骨折してなくて良かったですね」

でも、打ち身でも痛いものは痛いからお大事に、とくまちゃんにしては早口で言ってカウンターの向こうへ引っ込んでいく。

白いうずまきに添えられた、ウエハース。置かれたスプーンはアイスクリーム用のもの。

くまちゃんなりの心配と、安堵と、それから親愛のこもったサービス。

「いただくわね、くまちゃん」

てっぺんをすくって、ひと口含めばひんやり甘い、どこか懐かしいミルク感。

昔ながらの、変わらない味がする。このうずまきは喉の奥へ溶けて流れていく。

濃厚なのにくどくなく、ちょうどいい。パリっとしたウエハースに口の中の水分を持っていかれながら、ひと口、ふた口。あっという間に食べ終えた。

そこに、くまちゃんがあたたかいほうじ茶を持ってきて交換してくれる。

冷えた胃がちょうどいい塩梅になって、嬉しい。

「ごちそうさま、お会計いいかしら?」

「はいどうも」

すっとトレーをテーブルに持ってきて、お金を受け取るとくまちゃん。

そのエプロンのポケットへ、飴玉をひとつ入れる。

「これ、良かったらどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

えへへ、とくまちゃんが照れくさそうに笑う。

孫より年は上だけれど瀬戸さんから見れば孫のようなものだ。

「ソフトクリームおいしかった、やっぱりアイスよりこれが好きだわ」

立ち上がって鞄を肩にかけながら、言う。

くまちゃんは、私も好きですと頷いた。

「じゃあ、また来るわね」

袋も持って、店を出る。ありがとうございました、という声を聞きながら外へ。

ああ、やっぱりソースは買って帰ろう。

「あら」

駅のスーパーへ向かおうと歩き出したところで見つけた。

長袖に洒落たストール。瀬戸さんの夫だ。

「あなた、どうしたのこんなところで」

「ん……」

すっと差し出された手に手提げ袋を渡す。

「初子……なんかいいことあったか?」

「うふふ、あのねぇ、私、おいしいご飯を食べたのよ」

「それは……いいこと、だな」

ふたりの瀬戸さんは、肩を寄せ合って駅のスーパーへ歩き出す。

おいしいご飯は、しあわせの味がする。

だから誰かと分け合いたい、今度はふたりで一緒に食べたい。

しあわせの日替わり定食。ごちそうさま!

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