その呪い、俺が断ち切る─千年越しに目覚めた最強呪術師
──平安の闇は、言葉では語れぬほど深かった。
都の陰、昼でも陽の差さぬ辻裏にて、男はただひとり、式を刻んでいた。
黒衣に身を包み、額には印。手には血塗れの筆。周囲には死体──否、供物と呼ぶべきか。
その者こそ、時の帝さえ畏れた“黒陰ノ大陰陽師”。
「七つ……これで、すべてだ」
男はゆっくりと立ち上がり、術陣の中央へと足を運ぶ。
地には、獣と人との魂を混ぜた呪詛玉。すべてが凶兆の具現。
彼はそれを一つひとつ手に取っては、術で包み、封じてゆく。
「この呪いは、あまりに強すぎた。ゆえに……後の世に託す」
そう呟いた彼の顔には、疲れとも諦めともつかぬ陰が差していた。
黒陰は、“呪いを断つ者”として名を馳せた。だがその実、最も多く呪いを使い、最も深く闇に手を染めた者でもあった。
──自らが撒いた呪を、すべて封じて死ぬ。それが彼の「終わり」だった。
封印は完了した。七つの呪詛は、東西南北・天地・そして“中央”に封じられた。
以後、千年にわたり、それらは静かに時を越えてきた。
──そして、時は現代。
「え、ここ、立入禁止じゃないの……?」
高校生・真白は、朽ちた神社の前で立ち止まっていた。
周囲には錆びた鳥居、崩れかけの祠、そして異様な気配。
心臓が、やけにうるさい。
「変な夢ばっか見て……何で、こんな場所に来たんだ、俺……」
ここ数日、彼は繰り返し“黒い衣を纏った男の夢”を見ていた。
式を刻み、呪文を詠じ、闇に何かを封じるその姿。
目が覚めるたび、意味もなく涙が出た。何か、懐かしくて、怖くて──でも、忘れちゃいけない気がした。
今日は、気づけばこの神社まで足が動いていた。通学路でもない。ナビにも出ない道だった。
──ゴッ。
突如、足元が沈むような感覚。真白は慌てて後ろに下がろうとする。
──間に合わなかった。
地面が崩れ、彼は祠の前ごと、地下へと落ちていく。
「うわ──っ!!」
闇が、呑み込んだ。
だが、完全な暗黒ではなかった。地底に広がっていたのは、奇妙な光を放つ七つの石碑。
そのうちの一つが──割れていた。
「……これは、夢?」
呻く真白の瞳に、赤黒い光が差し込んだ。
その瞬間、脳裏に“何か”が流れ込んでくる。
焼け落ちる京。祈る人々。呪詛に呑まれる者。
そして、術を紡ぎ、己の命と引き換えに何かを封じる黒衣の男。
──“それは、お前だ”。
「…………は?」
意識が白くなる。身体が焼けるように熱い。
気づけば、周囲の空間が震えていた。
七つの石碑のうち、さらにもう一つが、ピシ、と音を立てた。
「マズイ……ッ、これ、全部壊れたら……」
そこまで考えた時、石碑の間から“何か”が這い出してきた。
ドロリと濁った瘴気の中から、目玉がいくつもついた人型の影──怨霊、いや、“呪詛”そのものが姿を現す。
真白は、ただ立ち尽くしていた。震えながら。
──だがその時。
「起きろ、“黒陰”の継承者よ──」
誰かの声が、耳元で囁いた。
「……誰だ……今の声……」
真白が顔を上げると、頭の奥で再び何かが脈打った。
胸の奥から湧き上がる熱。それは恐怖ではなく、どこか懐かしい感覚だった。
呪詛の影が呻くような声をあげ、這い寄ってくる。
目玉のついた腕がのたうち、天井にこびりついた瘴気がぬるりと落ちた。
逃げなきゃ。頭ではわかっているのに、足が動かない。
生まれて初めて見る、異形の存在。
恐怖に押し潰されそうになったその時──
「面白い因果だ」
再び、耳元で誰かが囁く。
次の瞬間、真白の周囲を白い炎が包んだ。
熱くも冷たくもない。
だがそれは確かに、呪の気配を打ち消す“何か”だった。
「──ッ……!」
思わず目を閉じると、光の中から一匹の“狐”が現れた。
六尾を持つ、透き通るような白狐。目元には朱の紋様。
現代の生き物とは思えない、どこか神聖で妖しい存在。
「初めまして、黒陰の継承者。私は《式神・白火》。あなたを守るために在る」
「式神……?」
「そう。七つの呪詛を封じる儀式と共に、あなたの魂に刻まれたもの。今、あなたが“目覚めた”ことで、私は顕現した」
狐が一歩踏み出すと、その足元に呪符の文様が浮かび上がる。
すると、のたうつ呪詛の影がわずかに怯んだ。
「今のあなたに、呪詛を完全に祓う力はありません。ですが、“黒陰”の片鱗ならば使えます。問います、どうしますか?」
選べ。逃げるか、戦うか。
その言葉が、真白の中で“過去の自分”と重なった。
(俺は──)
思い出す。
平安の闇で、誰かを救おうとして呪詛に手を染めた自分。
そして、呪いを撒いた末に、それを封じて死んだ男。
「なら……俺は、救うために呪を使う。前の俺が、できなかったことをやる」
そう言った瞬間、真白の手に呪筆が現れた。
黒墨が空中を滑り、彼の指先が勝手に術式を描き始める。
「式神・白火、術式補助頼む!」
「了解!」
呪詛の影が呻きながら襲いかかる。
だが、真白は呪筆を振り、炎の術を紡ぐ。
「──〈火封陣・焔囲ノ式〉ッ!!」
地面に走った符文が輝き、周囲を白炎の輪が囲む。
呪詛の影がそれに焼かれ、絶叫のような叫びをあげる。
「こいつは……俺が……!」
真白が渾身の一閃を放つと、炎が竜のように吠え、呪詛を呑み込んだ。
その姿は一瞬で灰と化し、地下の空間に静寂が戻る。
……沈黙。
だが──石碑は、もう一つ、亀裂を広げていた。
「間に合わなかった……」
呟く真白の肩に、白火がふっと乗る。
「七つのうち、すでに三つが……。急がねばなりませんね」
「これから、どうなるんだ……?」
「“七つすべて”が解かれれば、この国は呪詛に呑まれるでしょう。
それを防げるのは、“あなた”だけです、黒陰の継承者──真白」
真白は、ぐっと拳を握る。
「いいよ。逃げない。呪いでも、前世でも、受け止める。
だって、俺がやらなきゃ、誰がやるってんだ」
その背中に、もう迷いはなかった。
地の底に再び光が差す。
古代の封印が崩れ、時代が動き出す音が、確かに響いていた。
──そして物語は、動き出す。
──炎に包まれた京の町並み。
瓦が落ち、人が逃げ惑い、夜なのに空が赤い。
「……また、この夢か……」
真白は夢の中で立っていた。自分が自分でないような、不思議な感覚。
そこには制服もなく、代わりに黒と白を基調とした狩衣と、呪具を収めた革の巻物があった。
視界の端には、鬼のような影が蠢いている。だが真白は、恐れていなかった。
それどころか、その存在を「封じなければならない」と、当たり前のように思っていた。
「呪詛は、もはや人の理解を超えた。ならば、封ずるより他ない」
──誰かの声。いや、かつての“自分”の声。
黒陰ノ大陰陽師。
千年前の“俺”が、呪詛を前に、何かを決意していた。
「七つの大呪詛。それは、人が恐れ、恨み、憎しみ、絶望し、裏切り、怒り、そして──忘れたもの」
夢の中の彼は、地面に式を描いている。
中心には、七つの器──魂を封じた呪珠が並べられていた。
「この封印は、一人では持たぬ。術式には“継承者”が必要だ。……未来の私が、この呪いを断つために」
炎の渦の中、静かに彼は言った。
「“俺を、思い出せ”」
「──はっ!」
真白は、ベッドの上で跳ね起きた。
額には冷や汗。呼吸が荒い。
「また……見た。あの夢」
時計を見ると、まだ夜明け前。
しかし、体の奥から奇妙な疲労感と“記憶”が滲み出すように蘇ってくる。
──七つの呪詛
──過去の自分
──そして、「封印」
前世? そんなもの、信じたくはない。
だが、昨日の“地下の神社”で起きたことは、どう考えても現実だった。
狐の式神。炎の術。異形の影。
しかも、あの呪筆は──今も手元にある。
「これ……どう見ても、普通の文房具じゃないよな……」
真白は、机の上に置かれた黒筆をそっと手に取った。
その瞬間、脳裏にまた術式の構文が流れ込んでくる。
そして、それに続くように──白火が現れた。
「おはようございます」
「出るなら出るって言ってよ、びっくりするだろ……」
「呪詛が再び動き出しました。次の封印地が、揺れています」
「次……?」
「東、旧市街の“猿ヶ辻”。そこに、二つ目の封印が存在していました。ですが……」
白火の表情(といっても狐の顔だが)が曇る。
「昨夜、完全に破壊されました。おそらく、呪詛の使い手──“呪詛使い”が現れた可能性があります」
「呪詛使い……?」
「千年前、黒陰様が封じた呪詛。その一部に、意図的に“同調”しようとする存在が現れることは想定済みでした。
彼らは、呪いを力と信じ、解放しようとする者たち。……言うなれば、あなたとは“正反対”の者です」
真白は目を伏せた。
「なら、止めないと」
「え?」
「誰が敵だろうと、呪いだろうと、止めなきゃまた……誰かが巻き込まれる。昨日、俺があそこで放っておいたら、街はどうなってたか……」
拳を握る。白火は、その瞳をじっと見つめた。
「あなたは、前世とは違う。……まだ力も未熟で、術も不安定です。けれど、その覚悟は──本物です」
「行こう。次の封印の場所へ」
白火は笑みを浮かべるように、しっぽを揺らした。
「では、出陣ですね、“黒陰”殿」
──その頃、旧市街・猿ヶ辻の封印跡地。
廃ビルの屋上に、ひとりの少年が立っていた。
両目に呪文の刺青。指先に血塗られた札。
彼の背後では、朽ちた石碑がバラバラに砕けていた。
「動いたか。ふふ、面白い」
彼の名は、斎。
呪詛使い──黒陰の“かつての弟子”であり、現在最も危険な術者の一人だった。
旧市街・猿ヶ辻。
そこは、数十年前に区画整備から外れ、今では地図にも載らない廃墟地帯となっていた。
割れたガラス。朽ちたコンクリート。電気も通らず、人の気配は皆無。
ただし、ここには“気配”以外のものがある。
──呪。
「ここか……」
真白は廃ビルの屋上に足を踏み入れた。
足元には崩れた封印の文様。風の音もなく、ただ空気が淀んでいる。
そして──そこに、誰かが立っていた。
「ようこそ」
若い男。高校生に見える年齢だが、その雰囲気は異常だった。
白髪に赤い刺青。指先には呪符を巻きつけ、両目は笑っていない。
「誰だ……お前」
「斎。かつて、お前の“弟子”だった者だ。もっとも、今の君には記憶がないだろうが」
「弟子……?」
思わず身構える真白の肩に、白火が乗る。
「警戒を。あれは、呪詛に深く染まった術者です。まともな対話は望めません」
だが、斎は楽しげに言葉を続けた。
「嬉しいよ。ようやく目覚めてくれて。ずっと待ってたんだ、師匠。再び呪術の世界に戻るのを」
「……俺は、呪いを振るうために生まれ変わったわけじゃない。
この力は、人を守るために使う。お前みたいなのを止めるために」
その瞬間、斎の目の奥が、わずかに揺れた。だが、次の瞬間には冷笑を浮かべる。
「甘い。やっぱり変わってない。そういうところが──嫌いだった」
呪符が舞う。屋上全体が震え、赤黒い結界が張られた。
「来なよ、“黒陰”。力、試させてよ」
「……行くぞ、白火!」
「了解!」
呪筆が手に現れ、空中に式を刻む。
白火の尾が光を放ち、符の流れを補助する。
「──〈縛火ノ陣・焔裂〉!」
白炎が四方に走り、斎を包囲する。だが、彼はそのまま札を投げた。
「──〈灰返し・双層符〉」
真白の術式が弾かれ、爆風が炸裂する。
空気が歪み、屋上の床が一部吹き飛んだ。
「まだまだだね。“本気”は、こんなものじゃないだろう?」
「……っ!」
斎がさらに符を空中で裂き、呪詛の気を呼び寄せる。
その姿はまるで、かつて夢で見た“黒陰”に酷似していた。
(まさか、こいつ……前世の俺から術を学んで……!)
「師匠の真似事じゃなく、“超える”ために俺はここにいる。
見せてよ、“黒陰”──いや、今の“お前自身”の力をさ!」
鼓膜を揺らす衝撃音とともに、斎の呪符が炸裂。
避けきれず、真白の左腕に黒い痕が走る。
「ぐっ……!」
「真白!」
白火が飛び出し、結界を食い破るように衝撃波を放つ。
その瞬間、真白の瞳が、一瞬だけ“黒”に染まった。
「──っ、駄目だ!」
彼の術が暴走する。
空間に亀裂が走り、純粋な呪の奔流が、式の意図を超えて広がっていく。
斎が目を見開いた。
「これだよ、これ! この力が欲しかった!」
「くっ、止まれ、止まれ……!」
真白は両手で頭を抱える。
力が暴れている。術式が、自分の意思を超えて暴走する──!
だが。
「落ち着いてください、真白!」
白火が、彼の額に尾を添えた。
その瞬間、燃え盛る呪気が静まり、空気が正常に戻っていく。
「……あ……」
「あなたは、黒陰ではありません。もう、“あなた自身”です。呪いに喰われないでください」
息を整える真白の前で、斎が舌打ちをした。
「……まだ、“覚醒”しきってないか。まあいいさ。次が楽しみだ」
斎は呪符を裂き、空間に消えた。
残された屋上には、焼け焦げた封印跡と、呪符の残骸だけが残っていた。
──夜風が吹く。
「……ありがとう、白火」
「いえ。こちらこそ。ですが……」
白火の瞳が、遠くを見つめる。
「次に会う時、斎は本気であなたを殺しにきます」
真白は、静かに頷いた。
呪いに抗い、呪いを越える。
かつてできなかったことを、今度こそ。
翌日。真白は学校の屋上にいた。
いつもは誰も来ない場所だが、今日は人の気配がないことを確認してから登ってきた。
目的はただ一つ──“術の制御”だ。
「よし……まずは、昨日使った〈焔裂〉の構文を再構築して……」
呪筆を取り出し、空中に円を描く。筆先から墨のような気が流れ、空間に式が浮かび上がる。
──しかし。
「っ……く、また……っ」
その構文が終わりきる前に、式が歪み、暴走の兆しを見せた。
墨が暴発し、風のように周囲へと散る。
「落ち着いて!」
白火がすかさず口を挟む。尾の光が暴れかけた術を中和する。
「あなたは“力”を思い出すのが早すぎたんです。記憶と体の一致が取れていない。今はまだ、術を完全に制御できません」
「……だよな」
真白は呪筆を手に、力なく笑った。
「やっぱ、前世の力が“そのまま”手に入るってわけじゃないか。俺はもう、黒陰じゃないし」
「ええ、けれど、あなたにはあの力を“超える”可能性があります」
白火は、ふっと目を細めるように言った。
「斎は、確かに“黒陰”の技を継いでいます。でも、彼は“今のあなた”を見て、動揺していた」
「……そう見えた?」
「彼の目には、“過去の黒陰”と、“今の真白”が重なって見えていた。けれどそれは──重なりきっていなかった。だから、まだあなたは彼にとって“未知の存在”なのです」
真白はうなずく。
「なら、俺は“今の自分”として強くなる。……呪いに喰われず、人を守れるように」
──放課後。
真白が校門を出た瞬間、空気が変わった。
「っ……これは……!」
鼻腔を突く鉄と墨のような匂い。
街の喧騒が遠のき、急速に気温が下がる。
呪だ。
「この気配……封印じゃない、誰かが“戦ってる”!」
駆け出した真白に、白火が飛ぶように追いつく。
「すぐそこです。地下鉄跡、旧・南口駅の跡地!」
その場所に着いたとき、彼の目に飛び込んできたのは──
──異形との戦いだった。
血に濡れた少女。
その背には巨大な黒傘のような呪具。足元には砕けた石畳。
相対するのは、人の顔を複数貼りつけた四足歩行の“呪獣”。
「ちょ、あの人間、戦ってる……?」
彼女は、呪符を傘に貼り、何かを唱えた。
「──〈結界・五陰刃〉!」
傘の縁が鋭く変化し、呪獣を切り裂く。だが、完全には届いていない。
呪獣は吠え、少女の胸元に黒い爪が迫る──!
「くそっ、間に合え──!」
真白は呪筆を抜き、反射的に術を発動する。
「〈封焔陣・壁ノ式〉ッ!!」
白炎の障壁が弾け、呪獣の爪を受け止めた。
直後に、白火が閃光のように突撃し、呪獣を弾き飛ばす。
「っ、誰……!?」
少女が驚いた目でこちらを見る。
「後で説明する! 今は……協力して、こいつを倒す!」
敵はまだ生きている。むしろ怒っている。
呪獣は自らの顔を破り、中からさらに大きな“口”を出して咆哮した。
「アレは封印が完全に壊れた呪詛の残骸……。術だけじゃ制御できない」
白火が告げる。
「なら、動きを止めて──一気に焼き切る!」
真白は式を走らせ、少女に声を投げる。
「傘の術、動きを止められるか?」
「……できる! 三秒あれば!」
「よし、じゃあ三秒、稼ぐ!」
真白は呪筆を握りしめ、呪獣に向かって駆け出した。
「三秒、だな……!」
真白は呪獣の目前まで接近すると、すかさず地面に符式を描き始めた。
それは即興で構成された術、時間稼ぎに特化したもの。
「──〈揺符陣・重足ノ式〉ッ!」
呪獣の足元から赤い文様が浮かび、重力のような束縛が生じる。
ズシッという音と共に、呪獣の動きが一瞬だけ止まった。
「今だ、頼む!」
「──〈傘結界・五陰縛〉!」
少女の傘が開き、周囲に展開された五つの札が呪獣を囲む。
束縛の文様が連なり、空間ごと呪獣の動きを封じた。
「終わらせる!」
真白は一気に術式を構築する。
その構文は、過去の夢で黒陰が使っていた“焼封”の再現──
「──〈白火連陣・焔哭ノ式〉ッ!!」
白火が輝き、六尾を広げて呪筆に力を注ぐ。
放たれた白炎が龍の如くうねり、呪獣を丸ごと呑み込んだ。
空気が震え、光が閃き、音が消える。
そして──
呪獣は、静かに燃え尽き、残骸ひとつ残さず消滅した。
しばらくの沈黙。
そして、少女が息を吐いた。
「……助かったわ。ありがとう」
「こっちこそ、あんたがいなきゃ危なかった」
「名前、聞いてもいい?」
「私? ──陽守いろは。“陰陽寮”の所属よ」
「陰陽寮……?」
白火が低く唸る。
「……現代における呪術の監視機関です。“封印された七呪詛”の存在を独自に追っている組織。かつて黒陰様の協力者でもありました」
「え、協力者って……」
「簡単に言えば、あなたの“前世の部下”です」
真白は唖然とした。
「へ、へぇ……」
いろはがやや困ったように笑う。
「今回の件、うちも本気よ。七つの封印が壊れ始めてるの。あなた、継承者でしょ?」
「……まあ、そうみたい」
「だったら、これはもう共闘案件。連絡手段、ある?」
「え、あ、スマホあるけど……」
「よし」
いろははさっと自分の連絡先を登録し、スタンプを一つ送った。
そんなやりとりをしていると、いろはがふと真剣な顔になる。
「次の封印は、“中央”にあるはず。首都に近いどこか……そこが壊されたら、本格的に手がつけられなくなる」
「じゃあ、止めないと。その前に」
「黒陰は、もっと陰気で無口で厳しくて怖かったらしいけど、今の“あなた”は、違う」
真白は肩をすくめる。
「俺は俺だよ。“前の俺”の分まで、呪いに抗ってみせる」
夜の帳が下り、空には月が昇っていた。
──次なる呪詛の封印が、静かに崩れ始める音が、遠くで響いていた。
──夢を見る。
それは、まるで記録映像のように、ただ流れてくる。
平安の都、夜の宮中。
人の姿をした何かが、次々と黒い煙に呑まれていく。
「……師よ。なぜ、我らが“呪”を否定されねばならぬのですか?」
声がする。若く、それでいてどこか哀しげな声。
振り返ると、そこには──斎。若き日の彼の姿があった。
「呪とは、祈りの裏返し。力を求めた結果。……それが、何故悪なのですか?」
黒陰は答えない。いや、答えられなかったのかもしれない。
そして斎は、静かに微笑む。
「ならば、私は“この力”を誇りとして受け継ぎます。たとえ、師が否定しようとも──」
「……斎……」
真白は夢から目覚め、深く息を吐いた。
記憶が断片的に戻ってくる。だが、そのすべてが答えになるわけではない。
(あれが、斎の“原点”……?)
力を求めた者。呪を肯定した弟子。そして、拒絶した師。
何が正しかったのか。何が間違っていたのか。
「……でも、それでも俺は、今を生きる」
真白はベッドから立ち上がると、手元の呪筆に視線を落とす。
──昼下がり。真白は、いろはと合流していた。
二人が訪れたのは、郊外にある古い民家。
その地下に、封印の一つが隠されていたという。
「ここも、呪の気配がある。……でも、何か変だ」
白火が低く唸る。
「封印自体は、まだ破られていません。けれど、“誰かの手”が加えられている」
「誰かが、ここに触れた?」
その時──背後の空間が割れた。
漆黒の裂け目。そこから現れたのは、長い髪を垂らし、顔に仮面をかぶった女。
……斎ではない。だが、明らかに“人間ではない”気配。
「お前は……!」
「名は、翡翠」
女は静かにそう名乗った。
「黒陰の記憶を持つ者よ。我らは、あなたの“完成”を待っている」
「……どういう意味だ」
「あなたが真に“黒陰”となった時、七つの呪詛は完全な力を取り戻す。
この国は、再び“選別”される」
「選別……?」
翡翠は仮面越しに微笑んだように見えた。
「善悪ではない。生と死、呪と祈り。……真なる力を持つ者だけが、新たな秩序を築く」
「ふざけんな。そんなの、ただの破壊だ!」
真白が叫ぶと、翡翠は手を振り上げた。
その瞬間、地下の空気が震え、封印の石碑が悲鳴のような音を立てた。
「今はまだ“予兆”。あなたに選ぶ機会を与えましょう。黒陰の名を継ぎ、世界を変えるか──それとも、すべてを否定するか」
「答えは、決まってる」
真白が呪筆を構えたその瞬間──
「……待って」
いろはが前に出た。
「ここで術を放ったら、封印ごと壊れる。今は撤退すべき」
「でも……!」
彼は、拳を強く握りしめる。
「……次に会ったら、絶対に止める。どんな奴でも、どんな呪いでも!」
翡翠は何も言わず、空間の裂け目に消えた。
残されたのは、微かに軋むような音を立てる封印と──静寂。
「……また、“呪詛使い”が現れた」
いろはが呟く。
「七人……いや、それ以上に、彼らはもう“組織”になってるのかも」
夜、街の片隅。
灯りも届かぬ、旧中央公園の奥。そこに、斎はいた。
彼の前には、三つの黒い石が並べられている。
それは“封印が破られた呪詛の核”──本来なら跡形もなく消えるはずのそれを、彼は“再利用”していた。
「これで三つ。あと四つ……そして、“彼”が完全になれば、全ては戻る」
斎は、真白──黒陰の継承者に対し、確かに焦りを感じていた。
記憶が戻りきっていない、力も未完成。
けれど、あの戦いで彼は一度、“過去を否定した”。
その一点が、何よりも斎の中で“誤算”だった。
「師よ……どうして、また“ああ”なってしまったのですか」
斎の呟きは、誰にも届かない。
だがその影から、女の声が返ってきた。
「……心が残っていたのよ。あの男の中には、“呪”よりも、まだ人を想う気持ちが」
仮面の女・翡翠が現れた。先ほど、真白たちの前に姿を見せたばかりの彼女だ。
「次の封印は、“中央”。最も強力な呪詛核。そこが目覚めれば、流れは一気に変わる」
「……いいだろう。そこに“あれ”を置こう。真白が来た時、否応なく選ばせる」
「ふふ、師を試すようで、あなたも少し……人間味が戻ったんじゃない?」
「……戯言だ」
斎は立ち去る。
闇に残った翡翠が、仮面の奥で小さく笑った。
一方その頃、真白は自室で術書を広げていた。
白火が隣に浮かびながら、少し心配そうに問う。
「本当に、あなたは“今のまま”で戦えると思いますか?」
「正直、まだ分からない。けど……ひとつだけ確かなのは」
彼は呪筆を握り、ページの上に式の一筆を走らせる。
「俺はもう、“ただの高校生”じゃいられない。
過去を背負った以上、何もせずに目を背けていられない」
白火は、静かに尾を揺らした。
「……よかった。あなたが、“前とは違う”と証明してくれて」
「え?」
「かつての黒陰様は……すべてを自分一人で背負おうとした。そして、斎を拒絶した」
「俺は違う。背負いきれないなら、誰かに助けてもらう。いろはだって、白火だって、仲間なんだから」
「……はい!」
そのタイミングで、スマホが震えた。
送信者:陽守いろは。
【明日、動く。中央封印の兆候アリ。合流希望】
真白は返事を打ち、立ち上がる。
「来たな。……いよいよ、正面から“ぶつかる”時か」
深夜の空に、重く灰色の雲が流れていた。
夜の帳が厚くなるほど、呪の気配は濃くなる。
──翌日・深夜0時。
中央駅跡地。廃線となった地下構内。
そこに、いろはが先に立っていた。
真白が合流すると、すぐに言った。
「感じる? この空気」
「ああ……間違いない、“封印”が……」
突如、地下が揺れた。
次の瞬間、巨大な呪符の陣が空中に展開され、中央に出現したのは──
──斎。
「やぁ、ようやく来たね。師匠」
真白は前に出る。
かつての弟子、今は“敵”となった者を、まっすぐに見据える。
「これ以上、封印は壊させない。ここで、終わらせる」
斎は呆れたように肩をすくめた。
「まだそんなこと言ってるのかい? “呪”は、もう止まらない。これは、始まりなんだ」
「じゃあ、俺がその“始まり”ごと、止めてやる!」
呪筆を握る。白火が尾を光らせ、いろはが傘を構える。
──戦いの幕が、再び上がる。
──地下構内、中央封印跡地。
四方に並ぶ崩れた石柱。
天井から垂れた鉄骨。
そして中央には、ぐつぐつと赤黒く煮え立つような呪詛の“核”。
その前に立つ斎は、静かに手をかざした。
「これが、最後の“鍵”だよ。師匠。
君がそれを否定すれば、すべては“消える”。でも、受け入れれば……君は、黒陰に“戻れる”」
「……なら、迷うことはないな」
真白が一歩、前へ出る。
その後ろにいろはと白火が控える。
「俺は、“戻らない”。俺は黒陰だったかもしれないけど、今の俺は“真白”だ。
呪いに喰われて生きるくらいなら、今ここで、全部終わらせる!」
「やっぱりそう来たか──!」
斎が呪符を空中に解き放ち、構内全体に展開された術式が瞬時に発動される。
「──〈呪界展開・黒陰ノ残滓〉ッ!!」
空間が反転した。
構内が、まるで墨で塗りつぶされたような“異空”へと変貌する。
ここは、呪術師のみが踏み込める結界領域──完全な斎のフィールド。
「ここでは、君の動きも、術式も、すべて“読み”のうちだ」
「だったら……打ち破るだけだ!」
真白が呪筆を振るい、白火が光を撒く。
「──〈封焔構文・三重走火〉!」
火の奔流が三方向から斎を襲う。
しかし、斎はその足元に符を浮かべ、すべてを断ち切る。
「“黒陰”の術を、君に使われるとはね。皮肉だよ」
「お前こそ……俺の“模倣”で満足してんのかよ!」
真白の声に、斎の目が鋭くなる。
「模倣……?」
「お前は、黒陰の力を継いだつもりかもしれない。でも、今の俺はそれを“超える”って決めた!
呪を否定せず、受け入れて、それでも人を守る。それが、俺のやり方だ!」
いろはが傘を展開する。
「行くわよ、真白!」
「合わせる!」
二人の術式が同時に発動する。
いろは──〈五陰爆陣・傘紋乱舞〉
真白──〈白火封槍・焔穿ノ式〉
傘が広がり、乱れた符が斎を取り囲む。
その中央へ、白い炎の槍が一直線に突き刺さる──!
「っ……が……!」
斎が一瞬、よろめく。
だが、それでも彼の口元には、かすかな笑みが残っていた。
「……いいね、その目。師匠が“師匠のままで”いてくれるなら、俺は──“弟子のまま”、抗うまでだ」
そして斎の背後──
煮え立つような呪詛の核が、ついに砕けた。
全身にぶつかるような衝撃。
構内に満ちる呪気が、飽和を超えて“暴走”する。
「封印が……間に合わなかった……!」
白火が声を上げる。
その呪気の奔流の中から、無数の“手”が生え、呻き声とともに巨大な“顔”が現れる。
それは、かつて黒陰が封じた“災厄そのもの”──
人の怨念が混ざり合い、意志もなくただ破壊を求める呪詛の塊。
「……これが、“呪詛の原型”……!」
斎さえも後退る。
いろはが叫ぶ。
「今の私たちじゃ、止めきれない! 真白、何か方法は!?」
真白は一瞬、目を閉じた。
そして──
「ある。“俺のすべて”を燃やす方法が──」
呪筆を握り直す。
「白火。今まで隠してた術、使えるな?」
「……はい。けれど、それはあなた自身を呪に近づけてしまう。もう後戻りは──」
「構わない。
これは俺の呪いだ。“生まれ変わった意味”を、俺が証明する」
──構内全体が、呪いの奔流に包まれていた。
空間が崩れ、天井が軋む。
目の前の“呪詛の原型”は、理屈も言葉も持たないただの災厄。
けれどその存在感は、すべてを否定するような“本能的な恐怖”だった。
「白火、発動準備!」
「了解……〈継承奥義・黒陽焔輪〉、構文展開します!」
白火が六尾を広げ、尾の先で空間を刻みながら術式を編み上げていく。
真白の足元にも、無数の文様が浮かび上がった。
「この術は、“黒陰”が死の間際に封じた最後の秘術──呪を力とし、同時に焼き尽くす“矛と盾”」
その言葉に、いろはが目を見開く。
「……それを使う気なの!?」
「これしかない。俺が全部、引き受ける。呪いも、過去も、“黒陰”の名すらも!」
呪筆が空を走る。
真白の体が、光と影の模様に包まれていく。
斎が、呆然とそれを見つめていた。
(……違う。あれは、もう“黒陰”じゃない。
でも、“俺が追い求めた師”は、今、あそこにいる)
「白火、起動!」
「──発動、〈黒陽焔輪・顕現〉!」
光が爆ぜた。
真白の背後に浮かび上がったのは──黒と白の二重円環。
その中心に、六尾の火が渦を巻く“陽輪”が現れる。
術が完成した瞬間、呪詛の原型が動いた。
無数の腕と顔がうねり、真白へと殺到する。
だがそのすべてを、焔輪が迎え撃った。
──轟音。閃光。重圧。
真白の全身から、呪と祈りが混じった力が放出される。
「俺は、“呪いの継承者”だ。でも、それを“断ち切る”のも、俺だッ!」
焔輪が全開放され、巨大な炎柱となって呪詛の原型を貫く。
その中で、真白はなお術式を紡ぎ続けていた。
「──〈終焉封式・還呪断滅〉!」
最終構文が完成する。
呪筆が自壊し、光が一閃した。
次の瞬間、すべての呪が──音もなく、消えた。
……静寂。
構内に立つ者は、三人だけだった。
いろはは崩れ落ちそうな足をふんばりながら、前方に目を向ける。
「……真白……!」
煙の中から、ゆっくりと歩み出たその姿は──
制服姿のまま、少しだけやせた少年。
けれどその背中には、確かに“終わらせた者”の風格があった。
「終わったよ。全部」
微笑む真白に、いろはが駆け寄る。
「無茶しすぎ! よく生きてたわね、ほんとに……!」
「ギリギリ、だな。でも、呪いに“喰われて”はいない。俺は俺のままだ」
白火が、ふっと浮かび上がる。
「……全封印、完了。七つの呪詛、完全消滅。任務、完了です」
その言葉に、真白は小さく頷いた。
……そして、斎は。
壁にもたれかかりながら、ただ黙ってその光景を見ていた。
「君は、もう……俺の“師”じゃない」
彼は、まるで納得するように呟いた。
「けれど──“救ってくれた”よ。俺の呪いごと」
そう言って、彼はゆっくりとその場を去っていった。
いろはが問う。
「いいの? 放っておいて」
「……彼は、きっとまた自分で考える。呪いを背負ったまま、な」
数日後。
日常に戻った真白は、いつもと変わらぬ通学路を歩いていた。
けれど──何かが違う。
空の色が、風の音が、すべてが少しだけ“静か”だった。
ポケットの中のスマホが震える。
【From:いろは】
《次の任務、出たわよ。まだ終わりじゃないみたい》
真白は、にやりと笑う。
「了解。こっちは、もう覚悟できてるからな」
呪いのない世界など、存在しない。
けれど、呪いに抗う意思なら──確かにここにある。
──呪でできたその身で、人を救うために。