逆転姉妹 〜オトナをやめた日〜
わたしのお姉ちゃんは、おむつが外れない。
「んぅ……」
「起きて、おねえちゃんっ」
呼びながら目の前の布団の塊を揺り動かすと、その中の彼女は「うぅ……んぇ?」と幼げなうめき声を上げる。
布団はゆさゆさと揺れ、その中から彼女は顔を出した。
「んぁ、むーちゃーん……。もう、あと、ごふん……」
寝ぼける彼女にため息をついて。
「もう、今日は学校でしょっ!」
バサッと重たい布団を剥ぎ取った。
「ちょっ! 待って、さむ……んぁ……」
くぐもった水音が聞こえた。……もはや毎朝のことでなれきった臭気に、わたしはため息をつく。
彼女——わたしのお姉ちゃん。その姿は、到底中学二年生の「お姉さん」には見えない。
ピンク色のロンパースパジャマ。もこもこに膨らんだその鼠径部に走ったファスナーを開けると、中からはいわゆる介護用の紙おむつが目に入る。当然のごとく小麦色に膨れているそれに見ないふりをすると。
「……むーちゃん」
涙目でわたしを見つめるおねえちゃん。仕方ないなぁ、ともう一度ため息をついて。
「さき姉。替えるよ?」
わたしが声をかけると、彼女はぱあっと顔を輝かせた。
その姿に見いだす「かわいさ」は、少なくとも同年代の女子に向けるそれとは明らかに違っていて、三度ため息をついた。
……「赤ちゃんみたいでかわいい」だなんて、とても言えそうにない。
ロンパースを脱がせ、テープおむつを開ける。
むわっとした臭気。中の大容量パッドは少なくとも二回分以上のおねしょでパンパンに膨らんでいる。なんなら湯気が立ってて生暖かい。
「えへへー……」
「はいはい」
ため息をついてウェットティッシュで彼女のお尻を拭った。
黄色く汚れたそれを捨てると、彼女はにっこりと笑って立ち上がる。
そんな姿を見て、わたしは少しだけため息をついた。
*
——。
チャイムが鳴る。
帰りの会が終わって、友達に引き留められる前に騒々しい教室を出て、そして急いで玄関に向かう放課後。
靴を履いて、校門を出て、向かう先はすぐそばにある中学校。
「むーちゃーん」
彼女は中学校の校門前で、手を振っていた。
少しだけ走って。
「おねえちゃんっ」
呼ぶと、彼女はにっと微笑んで、わたしの頭をそっと撫でた。
「むーちゃん今日もかわいいね〜」
「やめてよおねえちゃん。髪型崩れるし」
「えー?」
口では嫌がりつつ、内心すっごく嬉しかったりする。
……今日の服、ちょっとキメてきちゃったし。
——パープルのパーカーは下半分がグレーになっているツートンカラー。淡い色味で甘さを出しつつ、くすんだ色合いがオトナっぽい。スカートもデニムのタイトなシルエット。
靴下は黒で、靴もパープル系の運動靴。根元にシュシュを巻いたポニテも、六年生っぽくてちょっとオトナっぽかわいい……ってニ○プチに書いてあった。
「ニヤニヤしてるの、ちょーかわいいよ? むーちゃん」
「し、してないもんっ」
帰りは一緒に手をつないで帰ろう。そう言い出したのは、当時小学三年生だったお姉ちゃんだ。
そのとき一年生だったわたしには、そんな「お姉さん」が幾分大人びて見えていた。
——それから数年経ったいまじゃ、わたしにおむつを替えられて赤ちゃんみたいに喜ぶ幼女になっているのだから、なんというか運命って面白いなぁ……とかぼんやりと考えた。
現在中学二年生とは思えないほど幼い大きめふさふさツインテールを揺らして歩くおねえちゃんを見ながら。
「……何かとっても失礼なこと考えてない?」
「気のせいだよ、おねえちゃん」
放課後の小学校は、校庭で遊ぶ子供たちの声で騒々しい。
男子がサッカーボールを蹴り飛ばして騒いでいるのを横目に見ながら、わたしたちはその横の道を歩く。
その先は公園に繋がっていて、岩場で少年少女は何かのごっこ遊びをしていた。
「ねえ、むーちゃん」
「なに?」
「たまには、友達と遊んだって良いんだよ?」
「なに、急に」
「小学校の時間って、大事だから。そのときにいっぱい遊んでおかないと、あとで後悔するから」
説教じみた一言に、しかしわたしはそっぽを向いて。
「いいもん。わたしは、オトナだから」
——あいつらとは違うから。
——もう、子供じゃないから。
そんな風に断じようとした、そのときだった。
「……ッ」
下腹部が、つんとした。
あ、やばい。
——それは、尿意だった。
「どうしたの? むーちゃ……」
「なんでも、ない……っ」
ヒュウヒュウと息をし出すわたしに、しかし彼女は「なんでもなくないよねっ」と断じる。
「だいじょうぶ。……がまん、できる」
「おしっこ? うんち? ……どっちにしろ、おうちまでもうちょっとだから! がんばろ!」
声をかけるおねえちゃん。
「あー……だめなら、そこの公園のトイレ行こ! そこならもう目の前だし! ほら、がんば——」
それに、わたしは叫ぶ。
「大丈夫だもん! わたしは、おとな、だ、か……ら」
目を見開いた。
感覚がした。
「……え」
冷たさ。背筋に寒気がして、恐る恐る下を見た。
水滴が落ちていた。それはアスファルトに落ちては、落ちた部分の濃くしていく。
濃色が、広がっていた。
「……う、そ」
嘘。嘘。冷たい。濡れてる。暖かい。冷たい。出てる。濡らしてく。だめ。だめ。なのに、止まらない。
こどもじゃないのに。おとななのに。服だって、髪型だって、ぜんぶ、ぜんぶ。
ぜんぶ、おとななのに。
なんで、涙まで——————。
「むーちゃんっ」
手が引かれた。
息が詰まった。
目の前に「お姉さん」がいた。
*
「大丈夫?」
しゃくり声を上げるわたし。風音と悪臭。多目的トイレ。
目の前の少女はにこやかに笑いかける。
「……大丈夫だもん」
「そっか」
…………否定して、なんてとても言えなかった。彼女の優しさは、わかっているつもりだったから。
彼女——おねえちゃんはいつもとは違ってすごくテキパキとわたしを脱がせて、布類は広げたおむつ交換台に乗せていく。
「ひやっとするよ?」
そう確認しつつ、わたしの身体に触れた。
冷たいウェットティッシュ越しに感じる彼女は、ひどく暖かくて。
「むーちゃん、泣いてるの?」
「泣いて、ないもん……」
言葉とは裏腹に、止めどなく零れる涙。きゅうっとする胸。——不意に、肌に暖かさを感じた。
「泣いても良いんだよ? ——つらいのは、わかってるつもりだから」
「なんで——」
わたしを抱きしめる彼女の顔を見た。
ひどく慈しみにあふれたような、そんな柔らかい表情をしていた。
知っているつもりだった。——彼女は、ずっといまのわたしと同じ失敗を繰り返していたことも。
その対策のために、おむつという手段を常用するようになったことさえも。
でも。
「——こんなに、くるしかったんだ」
知っていただけだった。
はじめて、彼女を解ったような気がした。
*
「んぅ……」
「起きて、おねえちゃんっ」
呼びながら目の前の布団の塊を揺り動かすと、その中の彼女は「うぅ……んぇ?」と幼げなうめき声を上げた。
布団はゆさゆさと揺れ、その中から彼女は顔を出す。
「んぁ、むーちゃーん……。もう、あと、ごふん……」
寝ぼける彼女にため息をついて。
「今日も学校でしょっ!」
「ちょっ! 待って、さむ……んぁ……」
くぐもった水音。ため息も、いつものこと。
彼女のロンパースを開け、いつも通りにおむつを替えてあげる。慌ただしい朝。
「変わらないね。昨日、あんなことがあったくせに」
「いつもおむつでおもらししてるおねえちゃんに言われたくない」
唇を尖らせるわたしに、おねえちゃんは「トイレはいってるし!」と反論する。
「おむつを替えに、でしょ。わたしにはわかってるんだから」
「……むーちゃんも同じでしょ?」
「…………そんなわけ、ないもん」
昨日までは、普通にトイレ行ってたもん。今日も、そのつもり、だし。
……だから、いま履いているふわもこな下着は、保険なんだってば。
目をそらしたわたしに、ニヤニヤした視線を送るおねえちゃん。ぽかぽか殴ったらぽいんとした弾力が帰ってきて、ちょっと敗北感を覚えた。
クローゼット。鏡の前。服と、いまの下着姿を交互に見る。
……おねえちゃんとおんなじ下着。ピンク色のおむつ。
それと似た色に染まった頬から目を離し、今日着ていく服を選び取る。
淡いクリーム色を基調にしたパーカーは、下のピンクのフレアスカートと合わせてちょっと甘めスポーティな感じ。いつもより長い丈は、この恥ずかしい下着を隠すため。
「……オトナ、じゃなくてもいい、か」
呟いて、もう一度鏡を見た。
背伸びしない少女の姿。なんだかいつもより少しだけ、輝いて見えた気がして。
「むーちゃん? いくよー?」
「うんっ」
わたしは玄関へと走った。
「いつもよりかわいいね、むーちゃん」
「えー、そう?」
「うん。すっごく!」
にこやかに微笑むおねえちゃん。
わたしも、目を細めていた。
fin.
面白かったら、ぜひ下の星マークやハートマークをクリックしてくださると作者が喜びます。ブックマークや感想もお待ちしております。