始まりの朝
冬の風がカーテンを揺らす窓辺で、要結斗は母からの手紙を読んでいた。
小学校六年生の夕暮れ時、病院の待合室の片隅に差し込む日が刻一刻と沈んでいく中、母からの便箋を広げる手が少し震えていた。淡いブルーのインクで丁寧に綴られた文字からは、病室の窓から見える町の様子や、看護師との他愛もない会話が優しく伝わってきた。
その手紙は一週間前のもの。いつもは直接手紙を渡すために、面会時間が終わりに近づいた後に返事を書いていた。
けれど今日は、まだ返事が書けずにいる。
何度目かの入院の時から、母は「もうすぐ退院できそう」と繰り返していたけれど、その言葉は現実のものにはならなかった。
誰もいないリビング。温かい夕食の代わりに並ぶコンビニの食事。研究室に籠もりきりの父の姿。
数式や設計図が書き殴られたホワイトボードと積み上げられた洋書の山の中で、パソコンの青白い光に照らされる父の顔には、息子の結斗や自身の妻を気にかける様子はなかった。
世界的な研究者・要俊介。業界でその名を知らないはいないとされ、近年は企業経営者の間でも名を広め始めているが、結斗の父として過ごす時間は、もうずっとなかった。
パソコンの青白い光に照らされる横顔は、まるで他人かのように接する父親との生活の中で、母の手紙だけが心の支えだった。
しかし、春の終わり、桜の花びらが散り始めた頃突然手紙は途絶えた。病院で目にした母はもう手紙を書けないほど弱っており、酸素マスクの向こうでかすかに微笑むことしかできなかった。夕陽が差し込む白い病室で、母は薄れゆく意識の中、必死に息子の手を握りしめながら最後の言葉を残した。
「あなたは人生なのよ。誰かの期待のために生きることはないの」
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"ピピピピッ!ピピピピッ!"
結斗の意識を引き裂くように、スマホのアラームが鳴り響く。
冷たい春の空気が、嫌でも目を覚まさせようとしていた。
「うっ...」
頭が重い。瞼は開けたくない。伸ばした腕は虚しくスマホを探すだけで、アラーム音は容赦なく続く。
ピピピピッ!ピピピピッ!
耳障りな音が、意識を現実に引き戻していく。それでも、まだ夢の残像が網膜に焼き付いていた。
母の手紙。病室の光。最期の言葉。それらが断片的に浮かんでは消えていく。
結斗は重たい瞼を持ち上げ、ぼんやりとした天井を見上げた。春の朝の空気は、まだ少し肌に冷たく感じる。もう一度瞼が落ちそうになるのを必死に堪えて、結斗はゆっくりと体を起こし、枕元のスマホを手に取った。
画面に浮かぶ父からの連絡。
『授業料と生活費、振り込んでおいた』
いつも通りの短調な報告文に既読すらつけず、結斗は静かにスマホを置いた。
マンションの一室の空気が、少しずつ暖かみを帯びていく。朝もやの向こうに透ける春の日差しを眺めながら、ハンガーに掛かったブレザー制服に手を伸ばす。
真新しい青陵学園の制服は、まだどこか堅い生地が初々しさを醸し出していた。
中学時代の制服は学ランだったため、鏡の前で慣れない手つきでネクタイを結ぶ。
『自由に生きること。』
父親から自身の道を継ぐことを求められていたが反発し、今はただの高校生として生きることを決めた。
それが母の言葉に背中を押された結斗の選択だった。
歯磨きや簡単な身支度を終わらせ、キッチンに向かう。
いつもの通りトースターにパンを入れ、コーヒーメーカーのスイッチを押す。
中学の卒業後から始めた一人暮らしの朝の儀式も、もう随分と板についていた。
「今日から高校生か、、」
トースターの中で焦げ目がつき始めるトースターを眺めながら、気付けば独り言を呟いていた。
この春から結斗が通う高校、青陵学園は入学式の日を迎える。
青陵学園は、日本屈指の進学校として優秀な学生が日本中からこぞって集まり、昨年の入試では、倍率二十倍を超えたとも言われている。
「早めに出発しよっ」
急いでトースターに齧り付き、食器を片付け、時計を見上げながら結斗は制服の襟元を整えた。
まだ七時前。入学式は九時からのはずだが、どこか落ち着かない。カバンを手に取り、玄関に向かう。
靴を履き終わり、結斗は動きを止める。
その視線の先には、小さな写真立ての中に飾られた写真。優しく微笑む母の表情が、朝日に照らされている。
「行ってきます」
いつもの言葉を口にして、結斗は静かにドアを開けた。




