XX年の孤独――スキル「諦めんなよ!」が持ち主の心を折りに来ている件――
むしゃくしゃして書きました
目の醒めるブルーのア◯アに足元をすくわれ、体が宙に浮いた。
低い車体はブレーキどころかアクセルを踏み抜き、人の脛を容赦なく砕いて走り去る。
馬鹿野郎、なんて思い切りの良さだ。もう逆に許せる。いや、許せるわけがないだろう。何だよその通り魔の序章みたいな勢いは。
もし、お前がなかなか曲がれない信号を右折しようとしていたなら分かる。ギリギリかろうじて。発達の足りてない「パニクりやすい奴」か判断力も反射速度も運動神経も衰え切った高齢者がよくやるアレだ。
全員免許返納しろとは思うが、悪いのはそいつらの人格じゃなくて脳だからな。残念ながらほとんどの人間の脳は扱う道具に見合っていないんだ。
だから、急いで右折しようとしていたなら、いまいち納得はできないが理解は及ぶ。
もしくは、スマホ片手に運転とか景色見てましたとかも理解できる。教習所とか免許センターでそういう映像観たし、よくあることなんだなって知ってるから。車に乗る資格はないけどな。
だが、こいつはそうじゃない。左折どころか直進だぞ。よそ見でもしてなきゃ反射的にブレーキ踏んじゃうところで、普通に真正面向いて両手でしっかりハンドル握っていた。
踏み間違えた顔もしてなかった。緑内障の可能性もあるが、それなら途中か撥ねた段階で気付くだろうから違うだろ。何でそんな奴が車道に存在しているんだ。
……くそ、何だこの最悪の走馬灯は。何も振り返れていない。生存の見込みがないってことかよ。脳まで俺を見限りやがる。俺だけは俺を信じてやれよ。
逆さまになったバックナンバーを呆然と眺めていた俺はそのまま重力に従って落下し、その後の記憶がない。
気が付くと森の中にいた。若い緑が目に涼しい木々はいかにも初夏という感じで、重なり合う枝葉の隙間から木漏れ日を落としている。
ぐるりと辺りを一瞥するが、見渡し限り木しかなく、後は真上の突き抜けるような空の青さしか分からない。あの轢き逃げ◯ク◯みたいに爽やかな色しやがって。まだ腹の虫が収まらない。
どこだここは。傷害の証拠を隠滅しようとするな。運ぶくらいなら救急車を呼べ。死んだと思ってこんな手間をかけるなら、ブレーキをかけろ。罪に罪を重ねるな。明らかな殺人だろこれは。
通報しようと携帯端末を手に取るが圏外だった。
本当に森か? 派手に轢いた奴をこんなところまで連れてくるとか正気か? 正気じゃないからアクセルベタ踏みで人間を撥ねられたんだろうがよ。
とにかく人里へ出るかと立ち上がりかけたところで砕かれた脛のことを思い出すがもう遅い。きっと立てないし痛い。何で今気付いちゃったんだよ。
だが、来ると思った痛みは来なかった。ズボンをめくるが傷一つない。というか、脛を狙われる前よりも明らかに綺麗な脛だった。
何が起きている。どのくらいの時間がたった。携帯の電池の持ち方が明らかにおかしいだろ。
混乱はしていた。していたが、ここにずっといるわけにもいかない。ことによっては助けを呼ぶ必要がある。
誰かいないのか。いや、いるわけないな。いたらそいつも多分死体捨てに来てるよ。仲間どころか敵だよ敵。こんな場所にいられるか。俺はここを出るぞ。
そう勇んでふかふかの腐葉土を踏みしめれば、その下は空洞。虚無を踏み抜いた俺は悲鳴を上げる間もなく落下した。
それからは散々だった。
ひとりで森をさ迷う約三ヶ月間で、擦り傷も切り傷も打撲も捻挫も裂傷も骨折も貫通も、外傷は全て経験したといっても過言ではない。
おかげで、人の痛みが分かる人間になってしまった。もう暴力シーンのある映画は観れない。怪我をしてもパフォーマンスが落ちない奴ら、全員尊敬してる。かすり傷だろとか画面越しに悪態ついてごめん。
アクション映画を観てると、崖から落ちて傷だらけになっても普通に立ち上がってすぐダッシュしてるからさ、いけると思ってたんだよ。普通無理だね。今分かった。
俺なんかちょっとした段差で捻挫して、そのまま足を滑らせて崖から落ちたとき、もう立ち上がりたくなかったもん。足も折れてたし。
その骨折した脛を抱えて数週間、俺は崖の下で大人しくしていた。
数週間後、すっかり治った裂傷を見て気付いた。傷跡がない。
デカい怪我をすればその痕跡が残る。肌が引きつれたり、でこぼこになったりする。骨だって歪んで冬場とかに疼く。それがまるっきりなくなって、まるで怪我を知らないみたいにつるりとしていた。
だからどうした。競争社会から遠く離れたこの人生で古傷が疼かないメリットなど老後くらいにしか訪れないだろう。その老後だって、怪我して動かなくなれば筋肉が衰えるんだから、古傷の疼く同世代と大して変わらない。何にもならない。
手放しで喜べるのはニキビ痕が完全に消えることくらいか? その恩恵は今貰っても遅い。ティーンのときにくれよ。
歩けるようになったと思えば落石に頭を抉られ、枝が肩を貫通し、見たことない野生動物に噛みつかれた。
噛まれたときは狂犬病かなんかで死ぬかなと思ったけど、噛まれたところがただただめちゃくちゃ痛いくらいで、あとは何ともなかった。熱すら出なかった。
何かあるたびにボロ雑巾のようになる体は動けるようになるまで休ませた。時間さえかければどうにかなるのはありがたかったが、正直8割そのまま死なせてくれよって感じの苦痛を受けた。
そうやって、のろのろとナメクジみたいなペースで森を脱出した。
ようやく森から出られたのはいいが、服はボロボロだった。
遠くにぽつぽつと建物が見える。しばらく歩けば人里に着きそうだった。
人里に入っても端末は圏外のままだ。嘘だろ人がこれだけ住んでて電波が通ってないってどこだよ。山奥か? 孤島か? 集落がぽつんとしてんのはちょっと怖いだろ。
轢き逃げした人間を入念に事故や衰弱に見せかけて殺そうとした奴の悪意をひしひしと感じる。
とはいえ、集落といえど固定電話、なくても無線くらいはあるかもしれない。
そう考えて、目についた男に声をかけた。
「すみません」
「あんた、どっから来たんだ。こんな辺鄙なとこまで」
振り向いた男は人当たりがよく、これなら電話くらい借りられそうだと安心する。
「車に撥ねられて……。気付いたらあの森に」
そう言って来た道を指差す。
ここまで言えば、電話は貸してくれなくても通報くらいはしてくれるかもしれない。もしくは交番の場所くらいは案内してもらえるだろう。
しかし、想像していた反応と違い、男の顔つきが硬いものに変わった。
何だよ入っちゃいけない森とかだったか? でもそれは俺じゃなくて轢き逃げ野郎に言って欲しい。
「悪意の森から来たのか!?」
男は興奮した様子で聞いてきた。何だその最悪な名前は。首を傾げたが男は止まらない。
「よっぽど運が良かったんだな」
「確かにやたら危ない森だったけど、そこまで?」
「あんた、ほんっとうに運が良かったんだな……」
男は深くため息をついてから、森について説明を始めた。
曰く、俺がいた森は性格の悪い妖精たちの棲まう「悪意の森」で、中に入って出てこられた者はほとんどいないという。出てこられた者も酷い怪我を負っていて、大半は弱ってしまうらしい。
「やたら滑る斜面とか、落石とかあったろ」
「ありましたね」
「あんな森だからよ、よほど丈夫な奴か反射神経のいい奴とかじゃないと死んじまうんだよな」
あんたは弱そうだから、運が良かったクチだろ。と男は笑っているが、こっちは一ミリも笑えない。
そんなところに捨てられていたのか。やっぱり轢き逃げ犯はクソ。人格が完成されていない。教育基本法でいの一番に掲げられているというのに。学校教育はまた敗北したのか。限界があるんだから早く司法や警察が介入しろ。
というか、成人男性が真顔で言うにはキツい言葉が出てこなかったか。ファンタジーが過ぎるだろ。趣味は読書か?
「あんた妖精って言ったか?」
「妖精も知らないのか? あんたどこのクソ田舎から来たんだ」
呆れたような顔をしているが、電波も通ってないぽつんと集落の住人に言われたくねーよ。
マジで妖精ってなんだよ。人格に問題がありすぎて人間扱いしたくない奴の総称かなんかか?
河童だって迷信じゃなかったら変態の比喩だろうからな。あんなんケツを掘られることを尻小玉を抜かれると言い換えているだけだ。手だろうがナニだろうが、いきなり無理矢理ケツに何か突っ込まれたら腑抜けにもなる。誰だってそうだ。俺も多分そうなる。
でも、合意もなしに人のケツを狙うような奴が存在してて、それが自分と同じ人間だなんて、そんな事実は認めたくないだろ。だから河童が生まれた。俺はそう思っている。
俺がいた森だって、自分のどんくささを認めたくない奴らが勝手に妖精かなんかのせいにしたんだろうよ。
ヒダル様みたいな合理的な理由とかもあるかもしれないが、森には悪意も何もない。草や土に意思があるわけないだろ。思想が強すぎる。これだから閉鎖されたムラは。
「もしかして外から来たのか?」
「だから村の外の森から来たんだって」
ぶっきらぼうに答えれば、男はもどかしそうに口を開いて閉じる。何でお前が困ってんだよ。俺だって困ってるよ、携帯を借りようとしただけでなんでこんなにややこしいことになるんだ。
「そうじゃなくて、違う世界から来たんじゃないのか?」
「何が言いたいのか、よく分からないんだけど……」
男は額に手を当て、天を仰いだ。何だよその芝居がかったジェスチャーは。馬鹿にしてんのか。それとも村の外を下界とか言っちゃうタイプの思想持ちか? 勘弁してくれ。
男はしばらくそうしていたが、満足したようだ。ようやくこちらへ向き合う。真面目な顔をしていた。
「教会へ行こう」
「教会より交番に案内してくれ」
「やっぱり外から来たんだな。なら教会へ行かなければならない」
話が通じない。周りの人たちも男を止める様子がない。村ぐるみで何かを信仰していて、村の外から来た人間を信者にしているってところか。
下手に逃げて振り切れるだろうか。ふざけた名前の森に逃げ込めば助かるかもしれない。監禁より死にかけた方がマシだからな。
「悪いな、そういうのは間に合っているんだ」
「あんた、体に変わったことがなかったか」
ドッジボールみたいに投げかけられた言葉に思わず男の顔を凝視する。
心当たりがありすぎた。
口の中に溜まった唾液を飲み込んで、同じようにボールを返してやる。
「何を知っているんだ」
「あんたみたいな外から来た奴が知りたいこと」
この体のふざけた仕様に説明がつくのか。それは聞きたい。
そういう手口かもしれないが、もし監禁でもされたら死んだと思わせて捨てられたところを逃げりゃいいだろ。
俺は抵抗せずに教会へ行くことにした。
こぢんまりとした教会には窓から光が差し込んでいて、清廉な雰囲気に満ちている。手入れの行き届いた建物だ。あとは地下室とかがないことを祈るしかない。
神経質に並べられた席の最前列、そこに分厚い本を読む女がいた。格の高そうな服装をしている。恐らく彼女が責任者だろう。
つるりとした陶器に切れ込みを入れたような顔は神秘的な雰囲気がある。頭部は重たそうな帽子に覆われていて、空色の眉毛から髪色を推測するしかない。それにしてもふざけた毛の色だな。
「先生、外から人が来た! 視てやってくれないか」
女が顔を上げる。長い睫毛に縁どられた目は複雑な色合いをしていて、それがこちらに向くと緊張した。
ジッと見られたらもう、居心地が悪くて仕方がなかった。灰色のようなそうじゃないような、ラメのぶちまけられた遊色は美しいが、人間の目となると不気味だった。
何が見えたのか分からないが、女がふむ……と納得したように口を開く。
「これは……神はあなたに試練を与えられたようです」
「試練?」
「わたくしには読めない言語でしたので、紙に書きますね」
女はどこからともなく紙とペンを取り出すと、さらさらと英語で何かを書きつけ、横に日本語を添えた。
字の成り立ちを理解していないような書き順や字形はちぐはぐに見える。さらにいえば、紙に書かれた言葉も妙だった。
思わず声に出して読んでしまう。
「never give up? 諦めんなよ?」
「なるほど、含蓄のあるお言葉ですね」
日本にいてひらがなすら覚束ないというのは、どういう文化圏なんだここは。いや、学習障害か何かを持っている可能性も否めない。日本語も英語もややこしいしな。そう思っていたところに女が更に何かを書きつけた。記号みたいな言語は一見して整っていると分かる。でも読めねぇよ。
「なんだこれ」
もうお手上げだよ。ここは俺の知らない文化を持った村だ。確実に日本じゃない。
思わず先生と呼ばれた女を見るが、目を閉じて笑っている。何笑ってんだよ。
「諦めないために、神様から授けられた祝福ですね。試練と力は表裏一体ですから」
「いや、いやいやいや」
自分の体に起きた異変は分かっている。森の中で嫌と言うほど経験したからな。
力が強くなるわけでも、打たれ強くなるわけでもない。ましてや賢くなるなんてこともない。
「ただ、体が元に戻るだけなのに?」
「教会では奇跡と言われる力です」
「そうかよ」
医者いらずで結構。だが、時間はかかるしその間ずっと痛い。怪我の状態によっては壊れたラジオみたいに意味のない言葉を発しながら痙攣するしかなかった。もう嫌だ殺してくれと願ったとしても、時間が立てば全てなかったかのように元に戻るのだ。
何が奇跡だよ。呪いか何かだろ。前世で何かやらかしたか、鏡の前でお辞儀をして右見ちゃうようなことをしたのか俺は。
思わず口をついた言葉を聞いても女の態度は変わらない。
ただひと言「確かに神は試練を与えますが、この世の不条理に因果はありません」と真面目に諭された。その方が余計に嫌だよ。
「俺は森で何度も諦めたぞ」
「それでもあなたはここにたどり着きました」
「それはもう強制だろ」
「神の求める基準に自主性がないのでしょう」
なんか急に怖いことを言い出した。
諦めってなんだ???
まともな答えが返ってこないことは分かっている。だから俺はクソ田舎が嫌いなんだ。
「森よりよっぽど悪意があるだろ」
「とんでもない。試練ですよこれは」
「何を試されてるんだよ俺は神に」
「わたくしたちには預かり知らぬことです」
「今もうそういう時代じゃないだろパワハラかよ」
「異世界には逆パワハラというものがあるそうですね」
「今それ言う?」
「パワハラと断ずるには時期尚早ということです」
女の微笑を前に、俺は呆然とする他なかった。




