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マリオネットとスティレット  作者: 北條カズマレ
第二章 吸血鬼と奴隷取引
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第七話 悪夢の朝

「うわあ!?」

 埃が舞った。レカが床に直接敷いた毛布からガバッと起き上がった瞬間、古い木の床の上から、微細なホコリが渦を巻いて立ちのぼる。冷や汗で濡れた体が、冷えた床の感触を残していた。立ち上がり、パンパンと毛布を叩くと、朝もやの中に埃の雲が広がる。

「はぁ……はぁ……」

 荒い息が部屋に差し込む日光に溶けていく。昨夜の悪夢…………。久しぶりに休暇で気が緩んだせいか。この前の暗殺の記憶が、生々しく蘇ったのだった。暗闇の中で指先に触れた、あの獣人中隊長の首の脈動。命の消える瞬間。その温もりが消えていく感覚。えずきそうになる胸の不快感に耐えながら、レカは壁に背をもたせて呼吸を整える。

 レカのセーフハウスは貧民街にいくつかある。暗殺ギルドの誰にも知らせていない、火事の後で廃墟になった建物などを利用している。掃除をする余裕はない。仕事をして帰ってきて、体も拭かずに毛布に倒れ込むように寝る日もある。昨晩はまだマシな寝入りだったが、それでも悪夢に追われた。

「く…………」

 胸に手を当てながら、レカは薄暗い部屋の隅から、自分を見つめ返す汚れた鏡に目を向ける。割れて半分しか残っていないそれに映るのは、まだ18歳の娘の顔。本来なら、婚姻の話がいくらでもあるはずの、華やかな年代。だが、今映っているのは疲労に蝕まれた暗い表情。父から受け継いだ赤い瞳だけが、生気を宿しているようにも見える。

「またか…………」

 まだ息が落ち着かない。ため息をついて手のひらを見る。自分でも気づかないうちに、爪が食い込んでいた。鍛錬で厚くなった皮膚のおかげで血こそ出ていないが、赤く痕になっている。痛みを自覚すると、少しだけ現実に引き戻される。乱れた呼吸を整えながら、レカは部屋の隅に置かれた水差しに手を伸ばし一口飲み、顔を洗う。冷たい水が、熱を帯びた肌を撫でていく。部屋には街特有の糞尿と腐敗の臭いが混じり、それが彼女の目覚めを一層現実的なものにしていた。

 窓の外に立ち並ぶ建物の向こう、大時計塔の巨大な影が朝もやを突き抜けて聳えている。

「毎日見ているものでも、時々妙な気持ちになるぜ。あんなでっけえモノ…………まるでずっと見られてる気がする」

 街の心臓部であり、冒険者ギルドが管轄する存在。その内部に広がる無限のダンジョンからもたらされる富が、この街を支えている。しかし、その恩恵は中央区画にしか及ばない。ここ貧民街では、エルフは娼婦に、獣人は傭兵に身を落とす。暗殺ギルドの影響力すら、この格差を覆すことはできない。この街を変えたと言われる魔光灯だって、中央区画を取り巻く川の外側では、違法に導線を引っ張って使っているくらいだ。レカは、街に漂う、糞尿と死臭が混じった湿った空気を肺いっぱいに吸い込む。まだ早朝の、誰もいない時間。貧民街特有の静けさが、レカの神経を少しだけ和らげる。

「ほっ」

 ジャンプして窓をするりとくぐり、体を折り畳んだ勢いだけで屋根に登る。完璧な跳躍だった。レカはタティオンからもらった休暇を過ごしているわけだ。暗殺者用の耐毒耐火の魔法術式で処理されたあの皮のスーツは着ない。ランニングシャツとズボンだけの軽装で屋根から屋根を飛ぶ。体を鈍らせないためのトレーニングと気晴らしを兼ねている。

 もちろん見回りは欠かさない。眼下で喧嘩するものあれば、上から「おはようございまーす!」と陽気な声をかけるだけで十分だった。喧嘩していた者たちは、その赤い瞳の主を見て血相を変えて逃げていく。エルフの娼婦が客に絡まれていれば、レカは軽やかに飛び降り、男の肩に手を置くだけ。男はレカの笑顔を見て逃げ出す。娼婦に「気をつけてな」と声をかけ、すぐに屋根へ。獣人の屋台で、人間の客が代金を払おうとしない。レカが通りかかって睨むと、男は慌てて財布を出す。獣人の店主が「いつもありがとう」と頭を下げる前に、レカの姿はもう消えていた。子供たちの喧嘩も、窃盗も、暴力も、彼女の影が差すだけで収まっていく。昼の光の下での正義の執行者として、レカは街を見守っていた。その足取りは軽やかで、まるで朝の体操のようだった。彼女の存在は街の秩序そのものだった。人々は彼女を街の正義の味方として見ている。しかし、その胸の奥には、殺しのショックがまだ重くのしかかっていた。暗殺者の影と、街の守護者の光。その二つの顔を持つことが、彼女の宿命だった。


「また、エルフが殺されたって? 血が抜かれるなんて気味が悪いな」

「ああ、あの忌々しい長耳族が一匹減るのは構わねぇが…………まともに働きもしねぇくせに」

「おい、あんまり大きな声で言うんじゃない。冒険者ギルドのエルフ連中に聞かれでもしたら…………」

 巡回中、そういう会話を耳にした。レカは屋根の上で一息つく。温まった体から熱気が抜けていくようだが、心地よさはない。

「胸くそわっりぃ…………」

 毛のない人間にとっても、毛のある人間にとっても、エルフは差別の対象だ。道に死体が転がっている時、必ず夜になるまで片付けられないのがエルフの亡骸だ。この街での彼らの「価値」を表していた。道端で耳にする人間や獣人の会話にもそれは滲み出ている。

(この街でエルフを人間扱いするのは娼館と、リリアの救貧院と、それから成り上がったエルフが冒険者をやってる冒険者ギルドくらいか)

 レカは嫌な気持ちと共に息を吐き切る。まだ見回っていない巡回ルートは残っている。顔を両手でぴしゃんとやって立ち上がり、隣の建物に飛び移った。


 朝靄で汚泥がぬるぬるする路地で、エルフの女の子が倒れていた。白い髪に泥が跳ねている。その目は虚ろで、ぼーっと汚れた石畳を見つめて、その上で丸くなっている。まるで捨てられた布切れのようだ。背中に背負っていたガラクタの詰まったカゴが重くのしかかっている。

「へへっ、こんなとこで寝てんじゃねえよ、耳長!」

 傭兵ギルドの制服を着た男が、エルフの背中を靴で突く。薄汚れた長靴の先が、肉の少ない脇腹に食い込む。彼の仲間の二人が下卑た笑いを漏らす。その声は、朝もやに濁って響いた。

「おい、こいつ売れねえのか? 変態向けのおもちゃとかによお」

「洗うのも面倒だ。後で銃の的にしようぜ」

「なあ、耳を切り取って売ったら、いい金になんじゃね?」

 エルフは身を丸め、震えている。その姿を見て、男たちの笑いが大きくなる。路地には、朝日すら届かない。いつもの光景だった。エルフの少女が蹴られて路地に押し込まれたのは、難癖がきっかけだった。盗みの疑いをかけられたのだ。少女が強い抵抗の意志を含む緑の瞳を向けると、傭兵たちは怒り狂った。

「よし」

 一人の傭兵が腰に差した刃渡30センチの大型ナイフ、喧嘩剣カッツバルゲルを抜いた。

「片方だけ切り取って放流しようぜ。エルフの耳がまた生えてくるか見てやろう」

「待て!」

 傭兵の腕を掴む少年の姿があった。

「野郎! 放せ!」

 傭兵がメチャクチャに手を振り回す。黒く小さい影が揺れた。他の傭兵たちが大笑いした。剣を身体を張って止めたのは、黒い猫耳の獣人、タンザだった。

「てめぇ、このガキが!」

 傭兵が空いている方の手でタンザを掴み上げ、その体に喧嘩剣カッツバルゲルを突き刺そうとした。

「やめてええ!」

 それまでうずくまっていたエルフの少女が、銀の髪を揺らして叫んだ。

「そこまでよ!」

 一瞬、緑の光が走った気がした。

「うっ」

 傭兵の体が硬直する。他の男たちは理解できないという顔をした。その隙にタンザが猫族由来の身のこなしで歪んだ石畳に降り立ち、エルフの少女の背中のカゴを引っ掴んで走った。

「なんだぁ! てめえ!」

 動けないでいた傭兵が叫ぶと、緑の光が弾けて、剣を再び動かせるようになった。路地の入り口には、朝日を背負うように。金色のハンマーの徽章を付けた冒険者が立っていた。エルフ特有の尖った耳と美しい容姿、そして魔法使いであることを示唆する幅広で尖った帽子、そして上等な生地の上に魔法がかけられていそうな、オレンジのケープ。傭兵たちの表情が歪む。その冒険者の姿は、この薄暗い路地にそぐわないほど気高く、まるで光そのもののようだった。

「へ、へえ、上等なエルフ様だ」

 傭兵の一人が狼狽を隠すように言った。

「あれぇ、こいつどこかで………あっ! 冒険者ギルドのパレードで見たぜ!」

 他の傭兵たちも顔を見合わせる。エルフの女性のオレンジ色のケーブの胸元を見た。そこにはハンマーの紋章が金色に輝いていた。途端に下卑た笑みが浮かぶ。

「金槌級冒険者様にこんな路地で会えるとはなぁ」

「へっへへ、立場がおありの方がトラブっちゃいかんよなあ。なあ、さっきのは傭兵への魔法の行使だよなあ? ギルド同士の揉め事はまずいんじゃねえかあ?」

 その時、明るい声が路地に響く。

「ひっひひ、なーに揉めてんすか?」

 傭兵たちはキョロキョロする。エルフの魔法使いだけが帽子を手で傾けて上を見た。その唇が少しだけ動いた。何かを口ずさんでいる。その瞬間、レカは地上に降り立った。朝日を背に受け、風にはためく金髪。泥が跳ねたが、それは冒険者ではなく傭兵の方にだけ跳ねた。エルフの彼女が唱えていた魔法の詠唱が途切れる。彼女の鋭い直感が、この少女に危険を感じ取っていた。そして、その敵意が自分に向いていないことも。路地の影から現れたレカの姿に、傭兵たちの笑いが凍りつく。

「また何か出やがった! 今度は何だ!」

 レカは頭をこれみよがしにゆっくりかきむしりながら傭兵たちに近寄る。手の位置が上であれば、神速の拳でいつでも相手を昏倒させられる。

「あー、なんつーか、すいやせんねえ。この路地、ぜーんぶあーしの商売のシマなんスよ? お客さん同士の喧嘩は困るっス」

 その声は明るいのに、どこか冷たい。朝日が徐々に路地を照らし始め、レカの金髪が淡く輝く。傭兵たちは思わず後ずさる。

「て、てめえ」

 魔法の知識に疎い傭兵でも、戦場のセオリーは知っている。赤い目のやつには近づくな。

「なにかお困りですかぁ?」

 レカの陽気な声。だがその目は笑っていない。傭兵たちは一瞬で血の気が引いた。彼女の赤い瞳に、暗殺者の本性を見てとったのだ。男たちの顔は青ざめ、まるで悪魔を見たかのように逃げ出した。

「き、きっとこいつが吸血鬼だ!逃げろ!」

 走り去っていく傭兵の後ろ姿を見ながら、レカは大きく首を傾げた。その仕草は、さっきまでの威圧的な雰囲気が嘘のように無邪気だった。

「はあ? なんだってんだ」

 慌てて立ち去る傭兵を見送りながら、レカはタンザの頭を撫でる。少年の髪は獣人特有の剛毛だったが、その感触は彼女の手に馴染んでいた。

「よくやったな」

 タンザは笑う。

「レカ姉ちゃんに教わった通りだよ。最初に相手の武器を押さえた。よくやったでしょ」

 レカは調子に乗ってにかっと笑うこの男の子を軽くこづいて叱る。

「いてえ」

「ばっきゃろ、おめー。危なかったぞ。助かったのはあの人のおかげだ」

 レカとタンザがエルフの女性の方を向く。彼女は帽子を取ってうやうやしく頭を下げた。ウェーブした金髪がふわっと広がる。

「あ、いや、頭下げるのはオレの方で…………」

 栄養状態のいいエルフ特有の美貌に、タンザ少年はドギマギしてしまう。

「タンザお兄ちゃん!」

 先ほどの少女が駆け寄ってくる。純血のエルフの特徴である銀色の髪を、朝日に輝やかせて。レカは、目の前にいるエルフの魔法使いから目を離さなかった。先ほどの魔法…………。傭兵の動きを封じていた。非常に高度な魔法。おそらくレカでも、暗殺者用の対魔法術式が施されたあのスーツなしでは簡単に拘束されてしまうだろう。ランニングシャツから出た肩に、今日初めて寒さを感じた。しかしそんなレカの警戒心を知ってか知らずか、目の前の冒険者は目を細めてタンザたちを見ている。

「よかった」

 そんなセリフが聞こえた。

「レカだ。暗殺ギルドの非正規の所属。この街区で世話役をやってる」

 レカは先手を打って手を差し出した。魔法使いは、なんの逡巡もなくそれに応じた。

「ルゥリィよ。金槌級の冒険者をしているわ」

 胸の徽章が光る。レカは答える。

「こ

の街で少しでもギルドの情勢に詳しいなら、知ってる名だよ。今現在最高の冒険者パーティのメンバー…………」

 ルゥリィと名乗った女性は微笑む。エルフの耳が少し傾げた。

「あら、私もあなたのことは知ってるわ。この前、チラッと会ったよね。貧民街の番長さん」

 レカは挨拶もそこそこに、タンザたちの様子を見た。

「大丈夫か、キナ?」

 タンザが少女の体を確かめるように見回す。キナと呼ばれた少女は、嬉しそうに頷いた。

「うん! タンザお兄ちゃんが助けてくれたもん!」

 ルゥリィの顔がほころぶ。そして子供たちに近づこうとした。おそらく頭を撫でようとしたものだろう。しかし、レカの素早い動きが彼女を制した。その瞬間、二人の間に緊張が走る。魔力を帯びた赤い瞳と緑の瞳が、まるで対峙する獣のように睨み合う。

「なあ、ルゥリィさんヨォ。冒険者ギルドの金槌級…………高位の冒険者サマが、こんな路地で何を? あんた、前も巡回してたよなあ」

 レカの声は軽いが、その目は笑っていなかった。朝靄の中、ルゥリィの姿がより鮮明になる。オレンジのケープの下の魔導士のローブ。貧民街には不釣り合いな、高価な装束。冒険者たちの象徴だった。

 ルゥリィは一瞬、目線を左上に送った。考えたが…………しかし誤魔化しは通用しないと悟り、小さく息を吐いて正直に告白することにした。

「エルフが殺されているの。血を抜かれて」

 朝日が石畳を照らし始める中、レカの視線が僅かに揺れる。噂には聞いていた。暗殺ギルドにも、似たような情報が流れ込んでいた。

「この一ヶ月で13人目よ。冒険者ギルドは表向き、この街の治安は安定していると言っているけど……」

 ルゥリィの声が途切れる。レカは無意識に子供たちの方を見た。エルフの少女キナはまだ、恐怖に震えている。タンザが静かにその手を握っていた。レカはルゥリィに近づき、子供達に聞こえないように小声に切り替えた。

「あーしらも知ってる。暗殺ギルドでも死体を見つけてる。喉から血を抜かれている。そっちも同じか?」

 レカの言葉にルゥリィの緑の瞳が揺れた。

「やはり暗殺ギルドも気づいているのね。大変な問題。それなのに冒険者ギルドは動かない。上層部は『大時計塔の探索に人手を取られている』って」

 ルゥリィの声に苦々しさが混じる。レカは黙って聞いている。街の秩序を守るはずの冒険者ギルドが、結局は大時計塔の利権に縛られている。その構図は、暗殺ギルドとて同じだ。リリアやレカがいなければ、暗殺ギルドは娼館の利権だけを守り、貧民街を放っておくだろう。

「ねえ、レカさん。私ね…………」

 ルゥリィが続ける。その声には、長年封印していた感情が滲んでいた。

「昔、私もこの子たちと同じ立場だった。下級娼館で働かされ、路上で眠り、人間に蹴られた。冒険者ギルドがエルフからも魔法の才能を拾おうとする前、暗殺ギルドが娼館を管理する前。私たちエルフは…………」

 レカの赤い瞳が、聖職者に告解するような鎮痛な顔のエルフの女を見据える。口にできない何かが、二人の間に漂う。レカには分かっていた。この街で「長耳」と蔑まれる存在の、底なしの絶望を。何人も見てきたのだ。

「なのに、エリオン様は違った」

 ルゥリィの瞳が輝きを取り戻す。青い瞳がレカを見る。レカは少しだけ、目を逸らしたくなった。あまりにも純粋な、夢をみる女性の輝きがそこにあった。

「白金剣級の冒険者、英雄そのもの。最も深くダンジョンを探索し、その収益で新しい亜人種系の冒険者枠を作った人。偉大な冒険者、エリオン様。彼は冒険者ギルドの試験で、私の魔法の才能を見出してくれた。エルフの血を、むしろ誇りにしてくれた」

 その言葉に、レカは内心で舌打ちする。確かにエリオンの功績は知っている。だが、それは中央区画の話だ。ここ貧民街では、相変わらずエルフは娼婦に、獣人は傭兵にしかなれない。タンザのようにガラクタ集めで少しだけお金を貯めて、ミーチャのように屋台を持てば、真っ当に生きられるが…………。大時計塔の方を向けば、いつも主要ギルドの煌びやかな建物が見えるのだ。自分の貧しさを強調するかのようなそんな光景を背景にして、ずっと一攫千金の夢を見て見ぬふりしてられるものは多くない。すでにその夢を掴めてしまった人間の、キラキラした眼差しが、どれだけレカを含む貧民街の人をイラつかせるか…………。レカには言葉にできる自信はなかった。

「エリオン様、彼が私に教えてくれたの。街には光が必要だって。この路地にも、エルフの子供たちにも……」

「へえ」

 レカの声には、かすかな嘲りが混じっていた。

「そっか」

 その言葉は、刃のように冷たく響いた。レカは退がり、エルフの中でも外れ値、成功者の高位冒険者から体を離す。ルゥリィの表情が凍る。路地に残る朝もやが、二人の間でゆらめいていた。

「その!」

 ルゥリィは信頼を失ってしまったことに気づき、声を明るくした。

「レカさん、私たちには力があるわ。冒険者ギルドとして、この街を変える力が! 今回の事件にしてもそう、必ず解決してみせる。レカさん、あなたの噂は聞いているわ、ぜひ今回の事件解決に協力して! そしてもしよければ、この街の改革にも…………」

「あーね。上等な理想だこと」

 レカは子供達の方を向き、ルゥリィに背を向けてしゃがみ込む。困惑したタンザとキナの顔。そしてレカの背中には、どこか深い孤独が滲んでいた。

「…………なあ、ルゥリィさんよぉ。だいたいあんたらが何をしようとしてるかはわかってる。たぶん、あんまり優しいやり方じゃねえってことも。あーしはねえ、こいつらを守りたい。それだけなんだ」

 その物言いに、ルゥリィは言葉を失う。レカはタンザとキナを優しく両手で持ち上げ、肩に乗せた。その仕草は、エルフの少女の背中に残る痛みを気遣うように、驚くほど優しい。

「じゃ、あーしが救貧院まで連れてくから、お偉いさんは自分の任務とやらに戻りな。助けてくれたのは感謝する。それはそれとして、忠告だが、シンパシー振りまくだけで味方が得られると思うなよ」

 その言葉には、自虐と諦めが混じっていた。朝日が強まり、路地の影が薄れていく。レカは子供二人を抱えてハイジャンプをして屋根に乗ろうとする。

「ま、待って、』

 最後にルゥリィが呼びかけた。

「あなたの瞳……」

「ん?」

「私と同じね。遠い昔の魔物の血を引いている。私のはなんの変哲もない青だけど、魔法を使う時は緑の光を帯びるの。でもあなたの赤は、ずっと強い身体強化…………」

 レカは黙って子供達を抱き寄せる。その腕には、父から受け継いだ暗殺者の力が秘められていた。けれど今は、ただの温もりとしてしか使えない。

「そうかもな。でも、あーしはあんたみてえに救われちゃいねえよ。必要なのは救いじゃなくて…………」

 その続きは、レカの心の深淵に消えた。ルゥリィの背中が僅かに震える。エルフの鋭い直感が、レカの言葉の真意を悟ったかのように。

 レカは屋根に飛び乗った。二人は互いの運命に気付かないまま、それぞれの道を選び取っていく。光の中へと消えていくルゥリィ。そして影の中へと溶けていくレカ。


 レカは救貧院の裏手で、タンザとキナの体を静かに下ろす。

「レカお姉ちゃん……」

 キナが震える声で呼びかける。エルフの耳がしゅんと下がっている。かわいそうに、今になってもまだ恐怖が引かないのだ。レカは立ち去ろうとする足を止めて、キナを抱きしめてやる。タンザが心配そうに見守る。

「ねえ、レカお姉ちゃんも、エルフの血を引いてるの?」

 キナの喉の震えを感じる。レカはゆっくり答える。

「…………わかんね。母親も…………父親もわからねえからな」

「私たち、あの魔法使いの人みたいに、光の中には出られないんだね」

 その言葉に、レカは苦笑いを浮かべた。朝の斜めの日光が、彼女の影を長く伸ばしている。

「少なくとも、あーしはただの影の住人だな。でも…………」

 レカは空を見上げた。その赤い瞳に、決意の色が宿る。

「お前らは幸せにする。光の中に押し込んでやる。街をどうするとかは…………あーしにはよくわかんねえ。テルとか、あの冒険者に考えてもらう際。少なくともこれだけは言える。街がどうなろうと、誰かが闇の中で生きなきゃいけないんだ。光の中にいられる人を、守るために」

 キナの返事を待たず、レカは体を離すと大きくジャンプした。街の喧騒に溶けていった。彼女の背後で、救貧院の扉が開く音が響いた。

「あら、こんな所にいたの? さあ、中へどうぞ」

 リリアの優しい声が、路地に漂う。それは光のように温かく、闇を照らすように思えた。だがその光が届かない場所で、レカは暗殺者としての仕事を続けていく。それが、彼女の選んだ道なのだから。

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