第五十九話 灰になった街を思う
テルはヒヤヒヤする。
ロドヴィコが彼を引っ張って、
木箱が人の背の高さまで積まれた船室の向こうの、
キャビンの方へ行った。
テルは流石に心配が勝ったが、
有無を言わさぬ大柄なロドヴィコの太い腕が、
無理矢理に息子を隔壁の向こうへ連れて行った。
模擬的な……組み手の経験は、
無論、ある。
スタヴロがヒイヒイ言いながら、
レカとタティオンがずっと技術をやり取りをしている。
もう月に何回かに減った訓練での光景は、
そんなものだった。
しかし今は……。
それよりはるかにヒリヒリした状況。
木箱だけの船倉で、
椅子に座ったレカ、
目の前に立つタティオン。
彼の右腕はレカの頭の上に乗せられ……。
コンマ数秒以下、
人間の神経の反応速度以下の時間で、
タティオンはレカを制圧することができる状況。
暗殺ギルドのボスとして、
この状況を愛する娘がどう覆すか、
タティオンは非常に興味があった。
彼は笑みを浮かべた。
「さあ、どうする? レカ……」
レカは思案する。
ヴォルヴィトゥールの暗殺術は、
触れられたらアウトと言っていい。
特に頭部、頸部、胸部、腹部。
バイタルパートと呼ばれるそれらの部分であれば、
すぐに振動波を流し込まれ、
軟組織を破壊できる。
脳も内臓も別の場所にあるザドワンなら回避できるわけだが……。
レカにその手段はない。
詰み。
それ以外の感想を抱きようもない状況だったが……。
レカは、赤い瞳の能力を抜いたとしても、
天才なのだ。
レカが、まるで日常の動作のように立ちあがろうとする、
その前兆、起こりをとらえて、
タティオンの手のひらが緊張し、彼女を頭を抑えようとする。
その一瞬を捉えた。
振動波は、完全に脱力した筋肉の、
瞬発的な緊張のコントロール。
それによって生じるから、
あえてゆっくり立ちあがろうとすることで、
タティオンの腕に不要な緊張を生じさせたわけだ。
最も重要な脳に、相手の手のひらがベッタリ近接している状況で、
絶対不可避の振動波を打たれる可能性を消す。
そして次に本気の速度で左拳を突き、
タティオンの脇の下に一撃、
ついで肘、体当たり、距離が離れたところにさらに連撃……。
という、レカのプランだったのだが……。
「う……っ!!」
立ち上がる、少なくとも椅子から少しでも腰を浮かせ、
体術で渾身の牽制打を打ち……。
というプランが、そもそも破綻してしまった。
タティオンは、振動波も何もなしに、
レカの頭に手を置いているだけで、
その全身の自由を奪っていた。
声にならない驚きで冷や汗をかくレカ。
まあ確かに、この体制で刃向かおうというのが
そもそも無理だったが……。
それはそれとして、ここまで完璧に制圧されるのも予想外だった。
タティオンは鼻で少し息をした。
「やれやれ、年寄りにこういうゲームを仕掛けるのはやめてくれんか」
「お、おとーさ……」
タティオンは、有無を言わさず抱きしめた。
娘を。
ゼゴと同じように作らせた、
しかしそれでいて手元に置き続けた娘を。
レカはもう抵抗するのもやめて、
大きなタティオンの体にピッタリ身を預け、
体の心の強張りが解けていく心地よさに身を任せた。
タティオンが喋ると、
スーツの胸襟越しに、彼の胸郭の振動を、
レカの顔の皮膚が感じる。
「初めてだな。お前がここまで反発するとは。わかるぞ」
レカは半ば目を閉じて聴く。
「だいぶ情が移っていたようだからな。だが仕方ない。仕方ないんだ、街のためには……」
レカは愛する父の匂いと鼓動に夢中で気づいていなかったが、
木箱の後ろに、テルがいた。
レカがタティオンに抱きしめられ、
恍惚としているのを、見ていた。
グルーミングというのは、ある。
より強い立場の人間による、
手懐け……。
だが父子間のこと。
テルはそういうニオイを察知しつつも、
あまり積極的には踏み込んでこなかった。
しかしこれは……。
……吐き気がした。
テルの胸中に、色々な想いが去来する。
(君はそうやって! 本当は嫌なことまで絆されて誤魔化されて、やってきたっていうのか!?)
彼は唇を噛んだ。
悔しかった。
大好きな、幼馴染以上の存在を、解放してやれない自分が。
だが、テルのタティオンへの怒りは、
正当なものいいではあったが、
その実、嫉妬に駆動されていた。
レカがあんな……乱れた顔を晒すなんて、許せない。
彼は否定するだろうが……そういう感覚はあった。
テルはそっと木箱の影から離れ、
キャビンへの扉を開けて戻る。
どんなに音が出ないように気をつけても、
耳のいい暗殺者親子なら絶対にバレるだろうが、もう、気にしない。
今はバレても、どうでも良かった。
再び音がしないようにドアを閉め、
それに背中を預けてフーッと息を吐く。
濃い金髪の髪は、
最近手入れができず、少し乱れている。
シャツも汚れが目立つし、
気分だって良くない。
彼は少し襟を開いて、へたり込む。
「覗きは感心しないぞ? 息子よ」
ロドヴィコはキャビンで何か操作していた。
前に見せた、ドローンの操作盤のようだった。
テルは何も答えない。
ドアに背中をベタっと預けて、
疲れた顔を晒すだけだ。
実際、この一ヶ月間、事態の収集に彼もまた走り回ってきたのだ。
疲れが出るころだった。
しかしロドヴィコは、まるで無限の体力があるように、
ずっと仕事をしている。
各ギルドの間の折衝、自称革命政府との交渉、
それから発明王として突き上げを受けている技術公開に関して、
どれを公開すべきでどれを秘匿し続けるかの検討……。
到底、常人の仕事量ではなかった。
父さんはすごいや。
テルはそう思っても、なかなか口のは出せなかった。
敗北が決定的になりそうで。
「テルーライン、あまり落ち込むな。お前だって嫉妬されるようなことはしているだろう?」
「やめてよ、父さん」
テルは正直思い出したくないことをつつかれ、不快感をあらわにする。
ロドヴィコは笑った。
相変わらず操作盤を掴んで色々いじりながら、話しかける。
「ひとつ、お前に有用な絶望を教えておこう。これだけは覚えておけ。お前がどれだけ誠意を示そうとも……恋人も、友も、変わったりしない。人に、人を変える力なんかない。自分は変えられるがな……。つまり、変わってほしい人間が、自分で気づくのを待つしかないのさ。待つこと。それこそが愛というものだ」
言いたいことは、わかった。
レカの父への偏愛も、
タティオンの老いによってだんだんと萎んでいくだろう。
その程度のものだ。
しかし……。
そのあとで僕を自分というスティレットを握らせる相手として選んで、
それで本当にレカのためになるのか?
そういう、根本的な疑問があった。
「父さんには、わからないよ」
テルは顔を膝に突っ伏しながら言った。
ロドヴィコはずっと操作盤を見つつ、
ため息混じりに答える。
「わかるさ。私にも友がいて……やつは……まだ縛られている。この街に。私はそれを解き放ってやることができなかった。しかし……お前ならできるはずだ。テルーライン。暗殺ギルドを、この街に不要な存在にしてほしい」
あまりに意外な言葉に、
思わずテルは顔を上げた。
「何を言ってるの?父さん」
彼は少し驚いた顔で操作盤の中の映像を見た。
そして操作を終え、膝の上のそれをキャビンの他の席に置いて、
テルの方を見た。
「見た目よりもタフなお前なら、耐えられるはずだ。人間への絶望からすべての夢は始まるべきなのだよ。絶望した先に……無償の愛があるということだ。ヨトゴォルが感じているような……」
「……え?」
テルには、父の言っていることが全くわからなかった。
機動飛行船は飛行し続ける。
ミルエラの操縦だった。
テルには見えない角度になった、操作盤の画面には、
焼け残った貧民街の廃墟の中に隠れる、
ガズボとシャルトリューズの姿があった。
船倉のレカとタティオンは、
備え付けのテーブルに向かい合って座り、
保存食を食べていた。
この機動飛行船は、ロドヴィコの方針に賛同する者なら……。
誰でも利用できるセーフハウスである。
現状チームは多くはないが、
だが確実に街のガバナンスと治安回復の目的を共有する仲間だ。
信頼できる相手が管理する休める空間だった。
レカは干し肉に食らいつき、
タティオンはクラッカーを食した。
タティオンは、
レカが数時間ぶり(タティオンからすれば一ヶ月ぶりだが)に
食事にありついてがっついている姿を愛おしそうに見つめる。
「レカ。あの少年と逃げることもできるのだぞ?」
「ふぁいひ!?」
レカはいきなりの言葉にむせてしまう。
タティオンが背中を叩いてやる。
レカは口を押さえながら、
「えほ……な、なんて……」
タティオンは少し考えた後、
「ワシだって、お前にとって最も現実的で手堅い、幸せのプランを考えてはいた。テルーラインくんとともに、この街を良い方に導いていくプランだ。……だが、事態がこうなっては、なかなかそれも難しい可能性がある。お前の意思を、全く汲まずに決めた負い目もあったしな。全ての運命や責任に背を向けて、どこか知らない場所でテルーラインくんと幸せに暮らすことも……」
レカは干し肉を握りしめたまま、考えた。
前に、地方の牧場ででも、ガズボもシャルトリューズも巻き込んで、
幸せに暮らすんだ、なんて妄想を父に語ったこともある。
確かに、今もそれを夢見たりもする。
当時は流石に、非現実的なプランに思えたが、
今は誘引力すら感じるほどの妙な魅力を感じる。
それゆえレカは、
冷静にその可能性を考えられる自信がない。
むしろかえって、
何も考えずに父であり、ボスであるタティオンに従う方が
楽である気がする。
そうだ、それがいい。
レカは思った。
ガズボもシャルトリューズも最初からいなかった、
どうでもいい。
これから、テルと父だけ大切に思って生きていけばいい。
それでいいんだと。
「レカ、レカ? 聞いているか?」
「あっ……」
レカは現実に引き戻される。
タティオンは意外そうに眉を上げた。
「お前がワシの前でそんなにぼーっとするとは、初めてだな。流石に、ストレスが大きかったか。初めて、親子喧嘩もしたしな。仮眠を挟んだ方がよさそうだ」
親子喧嘩……?
頭を押さえつけられていただけのあれが?
違和感をちくりと覚えたが、
レカは答える。
「そ、そうかもしれないね、おとーさん……」
タティオンは咳払いする。
クラッカーはもうなくなっていた。
「……ふう。これが食事だとはな。船乗りは毎日これで満足するのか……。缶詰という発明を聞いたことがある。これからアーティファクトがいよいよ枯渇するようになれば、そういうものを生産すればいいと」
「へえ……」
レカは上の空だ。
タティオンはため息をついた。
「もう、それを実現するための工業力も失ってしまった。革命政府は工場での労働を禁止したからな。なあ、レカ。この街の復興は、極めて困難だというのが実際のところだ。テルーラインくんの世代は、貧乏籤を引いたな」
レカは手元の干し肉を見る。
こういった産物も、いつまで生産できるのやら。
「テルーラインくんとこの街から去るのも、相対的に十分に幸せな人生と言えるようになってしまったわけだ」
「なるほどね」
ここまで言われてもレカは、それを現実的だとは思っていない。
どうしても、この街から離れられそうにない。
なぜだろう。
赤い瞳が、
迷うように定まらずに動いた。
タティオンはその様子をじっと見ている。
また話を続ける。
「現実的に聞こえないのはわかっているさ。まず、ああ見えて、ワシと変わらないくらい、息子を溺愛しているロドヴィコ・アルエイシスが許さないだろう。ワシも実際にお前たちが逃げるとなれば、追っ手くらい出すかもしれん。スタヴロが後を継いでいれば、やつは嬉々としてそうするかもしれんな。だがなあ、レカ」
タティオンは、テーブルの上に手を出して、
レカの手を握った。
彼女の手の、干し肉の汚れも気にせずに。
高級なシャツの袖も汚れるが、
だからといって手を引っ込めたりしない。
レカの手を、老人らしさがまだ少ない手が握る。
サクラの手と比べると、まだまだ若さすらある。
レカはタティオンの目を見た。
強い目だった。
赤かった。
魔族の力を感じた。
赤い瞳の、その力。
ヨトゴォルと話せるとか、言っていたような……。
「レカ、レカ。よく聞いてくれ。子供の幸せを願わない親がいると思うか? お前は明らかに、確かに、あのテルーラインくんを……。ご主人様、当主様、テルーライン様、……ではなく、テル坊と呼んで嘲って、追いかけ回したりからかったりする方が幸せのはずだ。この街が再建して、あの若き貴族の懐刀になったら……やつの妻になる女にもペコペコしなけりゃならんのだぞ?」
レカはタティオンの目から視線を外し、テーブルの隅っこを見た。
「まあ……ね」
わかっていたことだが、
言葉にして考えたこともない。
テルがこのことをどう考えるかも想像したくなかった。
変わりたくなかったし、変えたくなかった。
自動的に幸せになれるなら、それが一番良かった。
レカは思う。
逃げるのは、魅力的選択肢だと。
レカは眠った。
とりあえず今の所この街で一番安全な、
ロドヴィコの発明した飛行船の中で。
臨時革命政府は、
傭兵ギルドの残党を受け入れたことで指揮系統に混乱が生じ、
間も無く自壊した。
だが、革命の意志は、消えたわけではない。
少なくともザドワンの姿をした獣人と、
触手の化け物を火炙りにするまでは。
評議会が招集される。
主体となる貴族にとっては忌々しいことに、
臨時革命政府の元代表も呼んで。
そして、残りのギルド全秘匿部隊を使い、
魔王ザドワン討伐計画が立てられることになる。
第二部、完
次話より、第三部、最終部




