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マリオネットとスティレット  作者: 北條カズマレ
第六章 英雄の苦しみ
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第四十五話 雪の闘技場(前)

 夜の工業地区に、怪鳥のような甲高い警笛が響き渡る。青白い光と紫の煙を上げながら、銃器を思わせる筒状の車体が港湾地区に入ってくる。魔導列車だ。北の工場地区から港へと続く短い路線を疾走していく。ロドヴィコ・アルエイシスは倉庫の二階から、自らが生み出した技術の結晶を眺めていた。魔導列車が通り過ぎると窓ガラスが微かに震え、彼の姿に光と影が交錯する。

「まだまだだな」

 魔法科学ギルドの筆頭科学者の呟きは、焦りを含んでいた。五年前の開通……それからずっと停滞したままの鉄道延伸計画。南部農業地域、そして街のはるか彼方の鉱山地帯への路線拡張は、遅々として進まなかった。予算の問題、技術的課題、そして労働力不足……。完成率はわずか一割にも届かない。評議会での議論は平行線を辿るばかりで、具体的な進展は見えない。

「君はよくやっているよ、ロドヴィコ」

 声は彼の背後から突如として現れた。ロドヴィコは振り返らなかった。影のように音もなく現れる男がいることを知っていたからだ。

「タティオン」

 暗殺ギルドの当主、タティオン・ヴォルヴィトゥールが窓辺に歩み寄り、ロドヴィコと並んで魔導列車を見下ろした。老暗殺者の目には、技術への称賛と同時に何か別の思惑が宿っていた。

「魔光灯、魔導列車、飛空艇……。これ以上何を望むというのだ? ワシの若い頃と比べれば、この街は格段に力を増している。それこそ、リミナルダンジョンの発掘品に頼らなくてもやっていけるくらいにな」

「フン。南部への延伸工事は亜人種による襲撃で全く進まん。傭兵ギルドの追加派兵はこの前の件でおじゃんだ。兵力不足は一時的だと思いたいが……。お前も会議で見ていただろう?」

 ロドヴィコの言葉に明らかな苛立ち、侮蔑、焦燥。彼にとって魔導列車は単なる交通手段以上の意味を持つ。魔法と科学の融合による発展の象徴であり、パラクロノスの未来そのものだった。タティオンは微笑んだ。

「ワシは中立の立場だがね」

「どうだか。傭兵ギルドの権限拡大に賛成していたではないか? 裏切ったのかと思ったぞ?」

 タティオンは白い髭の中に笑みを含んだ。

「牽制だよ、若き貴族よ。バランスこそこの街に最も必要なモノだ。評議会の半数が『貴族のおもちゃに金をつぎ込むより、街の治安改善を』と言えば、ワシも黙っているわけにもいかない。彼らが変に傭兵ギルドの権限を強化して、街の中に冒険者ギルドの警ら隊以外に、傭兵まで正当な理由でたむろするようになるのは……ワシらも困る」

「フン! 優先順位のわからんやつらに同調してほしくはないがな!」

 ロドヴィコは冷ややかに言った。彼らは表向き協力関係にあるが、それぞれの思惑は必ずしも一致しない。ロドヴィコは技術的優位性の確保と経済発展を、タティオンは暗殺ギルドの活動領域が制限されることへの懸念を隠し持っている。ロドヴィコはため息をついた。

「……まあ、評議会が危機感を持つのもわかるがな」

 ロドヴィコはデスクの上に目を向ける。魔光灯の光が揺れ、古い羊皮紙の地図の上に不吉な陰影を投げかけていた。ここ、港湾施設には何も記載されていないが、貧民街を表す図面には、たくさんの赤い印が書き込まれている。ロドヴィコの指が地図の上で踊るように動いた。

「ここの区間での治安が急速に悪化している……わけのわからん邪教のせいだ」

 タティオンの赤い瞳がその指が指し示す地点を確認する。

 ロドヴィコは苦々しい表情で地図を睨みつける。その姿は魔光灯の青白い光の中でこざっぱりとしていたが、ここ数週間の疲労が刻まれていた。中央区画の一等地に聳える彼の邸宅ですら、最近は夜間に投石を受けるようになっていた。反乱により傭兵ギルドの獣人勢力が粛清されて以降、街の緊張が高まりつづけている。

「よくもまあ、見たこともないものに期待をあずけられるものだ」

 ロドヴィコはタティオンを見据える。

「直接ヤツと対峙したお前と違ってな」

 タティオンの赤い瞳が一瞬だけ、何か遠い記憶に浸るような色合いを帯びた。

 だが、轟音がその感傷を吹き飛ばす。

 大地が揺れ、窓ガラスが激しく震える。倉庫の二階全体が波打つように揺れた。二人は反射的に壁に身を寄せる。距離は遠いが、爆発のような衝撃波だった。

「何だ!?」

 ロドヴィコが叫んだ。彼らが窓の外に目を向けると、大時計塔の方向から煙が上がっていた。爆発の赤い光、そして魔力の青い瞬きが、夜空を不吉に照らしている。さらなる混乱の幕開けが……。


*****


 朝日は分厚い雲に邪魔されて見えなかった。真っ白にぼやけた空から雪が降っていた。貴族の区画に最も近い橋の上で、テルは薄いコートの襟を立て、震える体を必死に抑えていた。昨夜の爆発から数時間が経ち、朝靄の中、貴族たちは避難する場所もなく、家人たちと一緒に橋の上に集まっている。今季初めての雪片が舞う街の空気は冷たく、混乱に包まれた雰囲気もあいまり、彼らの表情を不安の色だけに染めていた。

「若様、これを……」

 欄干に寄りかかって座り込んでいたテルは顔を上げる。チラチラと白いものがふるなか、執事が素焼きのカップを持って立っていた。いつもは取り澄まして家のあらゆることをこなしてくれる彼の顔には、取り繕いようのない疲労が浮かんでいる。

「ありがとう」

 テルは不安げな様子を極力押し隠して手を伸ばし、カップを受け取った。体を縮こめるようにコートの中にそれを入れる。貧民街ではよく嗅いだことのある、様々な野草や雑草を混ぜたいい香りだった。抱えた膝の間にぎゅっとそれを持つと、体全体が温まるようだった。

「普段なら絶対に若様にはこのようなものを提供しないのですが……」

 執事は苦々しげに言った。彼はテルの貧民街での活動には反対の立場だ。テルはにっこりと笑って見せる。

「緊急事態だからね……」

 ここは橋の中央部。どこかの家のキングサイズベッドシーツを使った幕が張られた一角に、貴族の家々の使用人たちが集まっていた。こういう時のパラクロノスの貴族の協力プレーは頼りになる。

「父上は?」

「お父上は魔道列車で急遽お戻りになられた後、緊急評議会へ…この混乱への対応を協議されるのでしょう」

 テルは首をゆっくり回して、橋の欄干の隙間から見える景色を見つめた。街の中央部、大時計塔のお膝元に組まれた屋敷の群れ……。そこからは、今も淡い煙が立ち上っている。

「一体何が……?」

 その時、橋のたもとの方で騒がしい声が上がった。

「魔王だ! 魔王様だ!」

 テルはその声に素早く顔を上げた。方角は貧民街側。

「若様!」

 テルは執事の心配する声をよそに、貴族の家々の使用人たちが作る人の壁を抜け、警戒の声を無視して橋の貧民街側へと数歩踏み出した。その瞬間、彼の鼻腔を襲ったのは、いつもの貧民街の匂い——汗と垢と獣人の毛皮の臭い——をさらに濃縮したような強烈な匂いだった。息を呑み、目を凝らすと、視界の端から端まで人の波が広がっていた。いつのまにこれほどの数が集まったのか。数百、いや千人を超える民衆の顔には、同じ怒りと絶望が刻まれていた。その荒々しい息遣いは湯気になって立ち上り、降りしきる雪の冷気さえ溶かしそうだった。

「貴族どもに裁きを! 魔王様の怒りがついに降りた!」

「富の独占者に死を! 魔法科学ギルドの悪魔どもに制裁を!」

「魔王様こそ我らの救い主だ! ギルドは我らを見捨てた!」

 怒号は雪片を切り裂き、寒気となって橋上の避難民を震わせた。テルは呆然と立ち尽くしながらその群衆を見つめた。彼らの叫びには、単なる狂信以上のものがあった。飢えと絶望と屈辱の果ての怒りだ。彼らは昨夜の爆発を神の裁き……いや、魔王の怒りだと信じることで、自分たちの怒りに正当性を見出そうとしているのだ。テルの脳裏に「これは暴動の前触れだ」という冷たい認識が走った。

「若様! こちらへ!」

 アルエイシス家の護衛が、彼の腕を無遠慮に掴んだ。橋を守る衛兵たちが、激昂した民衆との間に人間の壁を作り始めている。護衛はそのわずかな隙間を縫うように、テルを橋の反対側へと強引に導いた。

「このままでは危険です!」

 言葉は、飛んできた硬い石ころに遮られた。それは護衛の肩に当たる。

「ぐうっ!?」

 護衛がテル自分の影に引っ張った勢いで、テルは素焼きのカップを地面に落とあした。熱い液体が溢れ、白く積もり始めた雪を溶かす。

「貴族の血を捧げよ!」

 その瞬間、テルの脳裏に閃光のように思い出が甦った。闘技場での惨劇。血に飢えた観客たち。そして彼らを煽るジャドワの残虐性。あの時もこうだった。怒りを振りまくのは、決して悪人だけではない。だがその怒りに名前を付け、方向性を与える者の責任は重い。そこには確実に破壊の意思があったー

(この暴動にも、何か意思が……?)

「若様、急いで!」

 執事の声が遠く聞こえる。テルは自分より背が高い護衛と執事に守られ、引きずられるように橋の真ん中へと移動する。テルはそのわずかな時間で、群衆の方を見た。彼らの目には、憎悪と共に恐怖が渦巻いていた。

「魔王様の裁きを受けよ、貴族の餓鬼が!」

 第二の石が、テルの近くに落ちた。テルは投げた男を見た。雪と護衛の体の陰の間に一瞬だけ……。

(この男は魔王なんか信じちゃいない。ただ運命を憎み、その怒りに矛先が欲しいだけなんだ)

 雪は予想よりも早く積もり始めていた。その白さが石畳の汚れを覆い隠す様は、不思議なほど美しい。だが、これは表面だけの浄化だと、テルは知っていた。雪が解ければ、すべての汚れが、そして怒りが、再び表面に浮かび上がるだろう。

「若様!こちらへ!」

 執事が焦りの色を見せて、テルの腕を強く引っ張った。避難中の貴族たちの間には動揺が広がり、悲鳴まじりの声が上がる。

「冷静に! パニックにならないで!」

 橋の中央側の岸にいた冒険者ギルドの衛兵隊長が懸命に叫ぶが、その声はかき消されていく。テルは混乱の中で冷静さを保とうとした。テルは執事の心配する声をよそに、貴族の家々の使用人たちが作る人の壁を抜け、警戒の声を無視して橋の貧民街側へと数歩踏み出した。その瞬間、彼の鼻腔を襲ったのは、いつもの貧民街の匂い——汗と垢と獣人の毛皮の臭い——をさらに濃縮したような強烈な匂いだった。息を呑み、目を凝らすと、視界の端から端まで人の波が広がっていた。いつのまにこれほどの数が集まったのか。数百、いや千人を超える民衆の顔には、同じ怒りと絶望が刻まれていた。その荒々しい息遣いは湯気になって立ち上り、降りしきる雪の冷気さえ溶かしそうだった。

「貴族どもに裁きを! 魔王様の怒りがついに降りた!」

「富の独占者に死を! 魔法科学ギルドの悪魔どもに制裁を!」

「魔王様こそ我らの救い主だ! ギルドは我らを見捨てた!」

怒号は雪片を切り裂き、寒気となって橋上の避難民を震わせた。テルは呆然と立ち尽くしながらその群衆を見つめた。彼らの叫びには、単なる狂信以上のものがあった。飢えと絶望と屈辱の果ての怒りだ。彼らは昨夜の爆発を神の裁き……いや、魔王の怒りだと信じることで、自分たちの怒りに正当性を見出そうとしているのだ。テルの脳裏に「これは暴動の前触れだ」という冷たい認識が走った。

「若様! こちらへ!」

アルエイシス家の護衛が、彼の腕を無遠慮に掴んだ。橋を守る衛兵たちが、激昂した民衆との間に人間の壁を作り始めている。護衛はそのわずかな隙間を縫うように、テルを橋の反対側へと強引に導いた。

「このままでは危険です!」

言葉は、飛んできた硬い石ころに遮られた。それは護衛の肩に当たる。

「ぐうっ!?」

護衛がテルを自分の影に引っ張った勢いで、テルは素焼きのカップを地面に落としてしまった。熱い液体が溢れ、白く積もり始めた雪を溶かす。

「貴族の血を捧げよ!」

その瞬間、テルの脳裏に閃光のように思い出が甦った。闘技場での惨劇。血に飢えた観客たち。そして彼らを煽るジャドワの残虐性。あの時もこうだった。怒りを振りまくのは、決して悪人だけではない。だがその怒りに名前を付け、方向性を与える者の責任は重い。そこには確実に破壊の意思があったー

(この暴動にも、何か意思が……?)

「若様、急いで!」

執事の声が遠く聞こえる。テルは自分より背が高い護衛と執事に守られ、引きずられるように橋の真ん中へと移動する。テルはそのわずかな時間で、群衆の方を見た。彼らの目には、憎悪と共に恐怖が渦巻いていた。

「魔王様の裁きを受けよ、貴族の餓鬼が!」

第二の石が、テルの近くに落ちた。テルは投げた男を見た。雪と護衛の体の陰の間に一瞬だけ……。

(この男は魔王なんか信じちゃいない。ただ運命を憎み、その怒りに矛先が欲しいだけなんだ)

雪は予想よりも早く積もり始めていた。その白さが石畳の汚れを覆い隠す様は、不思議なほど美しい。だが、これは表面だけの浄化だと、テルは知っていた。雪が解ければ、すべての汚れが、そして怒りが、再び表面に浮かび上がるだろう。

「若様!こちらへ!」

執事が焦りの色を見せて、テルの腕を強く引っ張った。避難中の貴族たちの間には動揺が広がり、悲鳴まじりの声が上がる。

「冷静に! パニックにならないで!」

橋の中央側の岸にいた冒険者ギルドの衛兵隊長が懸命に叫ぶが、その声はかき消されていく。テルは混乱の中で冷静さを保とうとした。だがそれは無駄な努力。他の貴族たちは到底落ち着いてなどいられない。

「このままでは収まらない……魔法科学ギルドの私兵を呼べ!」

 貴族の一人が恐怖に歪んだ顔で叫んだ。

「いや、傭兵ギルドだ! このまま放置すれば暴徒と化す!」

 別の貴族が声を張り上げる。

「愚か者め! 傭兵ギルドは獣人反乱後、兵力が半減している!」

「では暗殺ギルドか?!」

「呪われた者たちを呼ぶな!」

 雪が降る橋の上、貴族たちの間で、恐怖に駆られた議論が勃発していた。テルはその混沌に眉をひそめる。彼らは目の前の群衆を、まるで別種の生き物のように扱っている。亜人種だから? 同じ種族でも金がないから? バカバカしい……。それが何世代にもわたって積み重なってきた街の歪みの本質ではないのか。

「若様、退がって!」

 執事が声を張り上げたが、テルには彼の言葉は届いていなかった。テルは執事の方を振り返ったが、彼の目には、橋の向こう、わずかな隙間から覗く大時計塔の巨大な姿だけが映っていた。その威厳ある姿は、この混乱の中でも変わらず、街を見下ろしている。

「魔法科学ギルドの私兵が来るぞ!」

 群衆の中から誰かが叫んだ。テルの視界の端に、青白い魔力の光を放つ銃を持った一団が見えた。ローデシア家の魔導兵だ。

(これ以上の流血は……)

 テルは突然、決断した。この場に留まることは、ただの見物人として暴力の連鎖を黙認することを意味する。それとも貴族の一員として、非力ながらもこの弾圧に加担することか。どちらにせよ、彼はここにいるべきではないと強く思った。

「フェリク!」

 テルは執事を振り返った。

「若様!」

「僕はリリアの救貧院に退避する」

 執事の目が驚きに見開かれた。

「そんな! 貧民街など危険です! この橋は危険です、中央区画にお戻りください!」

 テルは首を横に振る。

「いや、この人たちが雪崩れ込むかもしれない。それに……」

 テルは執事フェリクの肩に手を置いた。彼は突如として、自分が何も出来ない無力な存在であることを痛感していた。彼にできることといえば、せめて混乱の原因から自分を引き離すことくらいしかない。

「父上に伝えてくれ。僕は無事だと」

 空を見上げると、雪がますます激しく降り始めていた。薄いコートのテルと黒い上着を着た執事の肩に、白いものがポツポツと落ちていく。それらは落ちた端から溶けていくが、やがて厚い層を成して積もっていくだろう。長年アルエイシス家に仕えてきた執事はためらったが、やがて渋々と頭を下げた。

「お気をつけて。しかし、随分と危険が迫ったならば、速やかに引き返してください」

 テルは最後に苦笑いを浮かべると、欄干に片足をかけた。

「若様!」

 彼の制止の声もむなしく、テルは欄干を乗り越え、橋の外側へと身を滑らせた。石造りの橋の側面には、装飾用の彫刻と排水用の突起が並んでいた。テルの手がそれらを掴み、彼の体は橋の下に宙吊りになった。流石に腕だけではこらえきれないとわかり、苦労して足を上げ、橋の装飾の突起に引っ掛ける。石の冷たさが、彼の指先に伝わる。橋の側面の石は雪と濡れ、指が滑りそうになる。下を見れば、川面までは優に5メートル以上の高さ。テルは喉の奥で恐怖に身震いした。これは誰かの彼の体は本能的に動いていた。一つの突起から次の突起へと体を移動させながら、テルはゆっくりと貧民街側へと向かった。

 上からは怒号や悲鳴が聞こえてくる。そして時折、魔力銃の発するバネが大きく振動するような不気味な唸り声が聞こえてくる。威嚇射撃だろうか? その音は冷たい空気を震わせ、テルの心臓を早鐘のように打たせた。両手は彼の体を支えるために精一杯で、耳を塞ぐことさえできなかった。テルの腕と脚は悲鳴を上げていた。アトリエでキャンバスに向かう時間に慣れている彼の体は、こうした過酷な行為には適していない。指先に走る痛みが、彼の呼吸を荒くする。それでも、彼は一歩一歩、ゆっくりと移動し続けた。彫刻の背に刻まれた翼の形が、今は彼を支える唯一の突起となっていた。

 ついに貧民街側の岸に辿り着いたとき、テルの手は震え、指は感覚を失いかけていた。だが上には登れない。そこはまさしく今も混乱の渦中にあった。彼は川縁の下に行くことにした。足を慎重に動かし、石で組まれた川岸の下にある通路の縁に確実に着地する。橋の外壁に沿って設けられた、護岸工事の際に作られた点検用の細い通路だ。雪がすでに積もりつつあったが、足を滑らせることはなかった。

 テルは白い息を吐きながら、今までいた場所を見上げた。橋の上では、私兵たちが拝魔王教徒たちの一部を取り囲み、魔力銃を構えていた。青白い魔力の光が雪片を照らし、不気味な影を作り出す。彼らの注意はすべて中央に向けられていたため、誰もテルが橋の下に移動したのに気づかなかった。テルは息を整えると、雪が薄く覆う階段を慎重に登り、街路に身を踊り出させると、コートで身を隠すようにさっと貧民街の路地へと身を滑らせた。彼のコートは石の粉と氷で汚れ、どこかで引っ掛けたのか肩のところは擦り切れ、指先からは血が滲んでいた。寒さと緊張で顔は蒼白になり、髪には雪がいくつもくっついていた。

「これでよかったのか…」

 背後から聞こえる悲鳴、苦悶の声、魔法銃の独特の銃声……。混乱の音は、ついに魔法科学ギルドの私兵たちが群衆に攻撃をしたことを示唆していた。それは彼が逃げてきた現実だった。魔法科学ギルドの私兵たちは評議会の命令で動いているのだろうか。それともローデシア家の独断なのか。どちらにせよ、テルには今は力がなかった。止めることはおろか、権力の中心に関わることも……。

 彼は薄い積雪の上に自分の足跡を残しながら、救貧院へと向かう路地を選んだ。雪は彼の足跡をすぐに消していき、橋から離れるにつれて、怒号や叫び声は次第に遠ざかっていった。だが、胸の中の重い自責の念だけは消えなかった。

(また逃げ出しただけじゃないか)

 靴が雪を踏みしめる音だけが、彼に付き従った。

(どうして自分はいつも、最も重要な時に何もできないんだ)

 救貧院へと通じる細い路地をテルは急いだ。

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