第四十三話 儀式
「竜の爪」は暗殺ギルドの関係者たちがひそかに集う場所。なんの変哲もない古びた貧民街の建物のガワの中で、秘密の会話を厚い石壁と何重にも重ねられた敷物で遮音していた。蝋燭の火が、粘りつくような黄ばんだ光を投げかける。そのともし火がテーブルに飛び散った肉汁の上で踊り、ガズボの獣じみた頬に不気味な明かりを宿らせた。
「エルフや落ちこぼれの集会ねえ」
ガズボは豪快に肉を齧りながら、自分の肘をテーブルに広げて、広々と陣取っていた。その分厚い指で肉を噛み砕く音が、独り言と同様に無視された。肉の破片が彼の口を汚し、血のような赤さの肉汁が滴っている。
「ったく、あいつらぁろくなことしやがらねえな」
対照的に、触手族のシャルトリューズは、皿の上の骨をそっと触手で撫で、溶かしては舐め取っていた。その手つきは技巧的で、まるで愛撫するようでさえある。
「骨、おいしぃ〜」
触手が骨の髄を溶かして吸い上げるたびに、身悶えるような陶酔の色が浮かぶ。この二人の間で、レカはグラスの縁を親指でなぞりながら、泡立つドリンクを見つめていた。金髪のポニーテールは少し乱れ、赤い瞳には今日の疲れが滲んでいる。
彼女は窓の外、月明かりさえ届かない裏路地に目をやった。小窓からは、あまり外は見えない。だが闇の向こうに、先ほど会った老いたエルフと包帯に巻かれたあのゼゴという、女か男かもわからない者がまだこちらを見ている気がする。その幻想の存在感は、酒場の闇より濃く彼女を圧迫していた。
(ゼゴ……ボスの子? 本当か? しかしあの婆さん……あーしとボスの関係も知ってやがった……)
レカはテーブルに目を落とし、思考の糸をたどりつつぼんやりとグラスの中の渦を見つめる。グラスに映る自分の顔が、ひどく他人のように思えた。彼女は無意識にグラスを握りしめ、表情を引き締める。
「エルフのやることと言ったらよぉ」
ガズボが嘲るように笑う声が、レカの思考を打ち砕いた。しゃがれたオオカミのような声が耳障りに響く。
「なーんにも人間らしいことは期待できねえ。道を這いつくばってる物乞い以下だ。エルフの逃亡奴隷は特にな。牛よりも何も考えてねえような虚ろな目ん玉で、犬と縄張りを争う。そのくせ魔力が残ってやがるのがいて、たまに集会なんかすると、えれえことになるんだ」
レカはようやく現実に引き戻された。じっと目の前にどっかり座って肉を食うガズボを睨む。
「ガズボ。オメーですらそう言うとはな。オメーだってジャドワと一緒に奴隷みてえに扱われてたじゃねえか」
レカは身を乗り出した。
「知ってんだぞォ? あの闘技場でオーナーって言われてた太っちょのナイフ刺されてても何も言えなかったのヨォ」
「ッケ、知ってたのかよ」
ガズボは露骨に嫌そうな顔をした。
「あれは……ジャドワの兄貴の顔を立ててたんだよ。傭兵ギルドを反乱までこぎつけるにゃあ、あのデブが必要だったからな」
「結構長い付き合いだったのか?」
ガズボの目が鋭く光る。テーブルの上の肉を齧るのを止めた。嫌悪感に満ちた表情で、低い声で言う。
「姐御、人の過去を探るもんじゃねえぜ」
牙が見えた。その威嚇に、レカは微塵も怯まない。寧ろ反撃に転じる。獣人の言い分を否定するわけではなく、共感を示しながら論点をずらしていく。
「……どんな過去があるにせよ、オメーの大変な人生は、エルフが大変な目にあってきてるのと似てるんだからよ。少しは憐れみってもんを持ってもいーんじゃねーかぁ?」
そうやって食い下がる。ガズボは不機嫌そうに答えた。
「獣人はみんなエルフ嫌いさ。ジャドワの兄貴は……人一倍エルフに厳しかったっけなあ。目の前を横切るだけで、次の瞬間には首が落ちてた」
その言葉には、奇妙な誇らしさすら混じっている。そしてなにより、ガズボの態度と言葉の端々から、彼自身もエルフに暴力を振るってきたのだと感じた。わかっていたことだ。ガズボは大量殺人鬼。殺してない亜人種はいないだろう。わかってはいたが……。少し不快な感覚が胃の辺りに広がる。
「ねえ、レカちゃん♡今度のお掃除は拝魔王教? 悪い悪い魔王を拝む弱者たち……」
会話に割り込んできたのは、シャルトリューズの甘ったるく粘つくような声だった。触手が緩やかに踊り、機嫌がいいことを示している。
「弱者たちなのは確かだが……」
レカは口篭った。「悪い奴らかどうかは」と言おうとしたのだ。しかし、その言葉を飲み込んだ。そんな弱気なことを口にしてはならない。それがボスからの指示なのだから、迷いなく実行すべきなのだ。レカはうつろな表情でドリンクを飲む。スパイスの辛味が脳をシャッキリさせるが、心は晴れない。先ほどの老婆の話が心に引っかかっていた。
シャルトリューズは全て見透かしたように、テーブルに触手を這わせて微笑んだ。それはレカの方にゆっくり近づいていき、その手に重なる。レカはスッと手を引いてしまうが、シャルトリューズは嬉しそうだ。
「うふふ。優しいのね、レカちゃん」
その洞察力は恐ろしいほどだ。レカは心の動揺を隠すように話題を変えた。
「オメーら、ゼゴっていうミイラみたいなやつとか、ただ老エルフって呼ばれてるエルフの婆さんを知ってるか?」
シャルトリューズは触手を垂らして首を横に振った。
「うぅーうん、知ーらない」
ガズボは肉を齧りつつ返事した。
「エルフのババアだあ? この俺がそんな食いでがねぇもん気にするわけねーだろ」
その言い方に、本当に食べる可能性があったのかと一瞬思ってしまう。レカはため息をつく。
「まあそんなもんか。だがよ、あーし、どっかで見たような気がすんだよな。どこだっけ……」
レカは片手で自分の金髪をかきながら、記憶を探る。あの老エルフとゼゴ。どこかで見た覚えがあるのに。シャルトリューズが唐突に言った。
「ウチにはエルフの娼婦の友達もいるしぃ。お金、いつも借りるんだぁ。返したことないけどー」
レカは突然の閃きに、身を乗り出した。
「……シャル。オメー、これ終わったら一緒に金返しにいくぞ」
シャルトリューズは目を丸くして、触手全体が驚いたように上に跳ね上がった。
「えー! なんでー? 信じらんなーい」
ガズボが大きく笑い、肉汁を飛ばしながらテーブルを叩いた。レカは笑わなかった。今夜の仕事に備えて、頭を冷静に保たなければならない。
月明かりが下水道の金属の梯子を青白く照らしていた。湿った石の壁から滴り落ちる水音が、レカの耳を打つ。彼女は革のスーツに身を包み、獣のような静けさで湿った階段を降りていく。空気は腐敗臭に満ちていたが、レカはそれを気にする余裕もなかった。
レカはルゥリィのことを思い出していた。
殺した記憶は、通常なら暗殺者の心に残らない。それが彼らの仕事の一部だから。しかしレカはポツポツと、いくつかの記憶を思い出すことがある。何度拭おうとしても、心の奥底から甦ってくる記憶。金髪の冒険者ギルドの魔法使い、ルゥリィ。緑の輝きを持つその瞳が、今も夢に現れる。
(私たちは本当は同じ立場のはずよ。この街を守るために動く者)
ルゥリィの声が、まるで下水道の冷たい壁から響いてくるかのように鮮明だった。レカは足を止め、湿った空気を深く吸い込んだ。悪臭すら気にならない。地下の闇の中で、彼女の赤い瞳が一瞬だけ炎のように燃える。
(あなたの苦しみが伝わってくるの)
(レカさん、私はね、エルフの村で生まれて、奴隷として売られた時、あなたのお父様に出会ったの)
「どうしてこんなことに……?」
レカの呟きが、下水道の闇に溶けていく。答える者はもちろんいない。だが、答えはもう出ていた。彼女は暗殺者だ。タティオン・ヴォルヴィトゥールの隠し子、レカ。影の中で生き、影の中で戦い、影の中で死ぬ運命を背負った存在。
レカはそんな根源的な問いかけを頭から追い出し、任務に集中する。真っ暗な下水道の先に、壁の内部を走る配管を伝わせ、シャルトリューズを先行させてある。
タンザの作った地下下水道の地図は頭に叩き込んであった。
(こんなことに使うなんてな)
レカは脳内の地図を頼りに進路を選んでいく。暗黒の底なしの深淵にも思える下水管の錯綜した迷路の中を、彼女は確かな足取りで進んでいった。
そこで、前方から何かの気配を感じた。レカは素早く身を隠す。一瞬だけ赤い魔力を瞳に宿らせ、視力を強化して暗闇を貫く視力を得る。
そこには、下水道の仕切り壁から漏れ出る薄明かりに照らされた儀式の場があった。
(これが、拝魔王教の集会場か)
レカは身を潜め、遠くから観察する。使われていない下水道の一角を改造したような広間だった。老朽化した石組みの壁から覗く錆びた鉄骨が、闇に潜む赤い目のように見えた。湿気を含んだ冷たい空気が、ぬるい彼らの体温を伴ってレカの肌を這う。
人々が集まっていた。エルフ、人間のホームレス、障害を持つ者たち。この街で最下層に追いやられ、互助会すら形成できなかった者たち。中央の魔光……中央で製造された魔光結晶を使っていない、純粋な魔力の光に照らされた彼らの顔には皆、絶望と希望が奇妙に混ざり合っていた。
(エルフの魔力……。もうこの街にいるエルフたちには、ほとんど残ってないはずだが……)
純潔のエルフは少ない。魔力をいまだに持ち続けているエルフが少ないということ。娼館で産み落とされた混血のエルフが多い中、魔力を少しでも持っている存在は街全体のリスクだ。一人一人の魔力は少なくても、こうして集会を開けば魔力の光くらい簡単に生み出せる。だからこそ、エルフたちに魔力を生かす場を提供するのが冒険者ギルドであり、魔力を飼い殺すのが暗殺ギルドだったのだが……。
(管理が行き届いてなかったってことだな)
レカは、胸の内に沸き起こった罪悪感を打ち消す。ボスの指示は絶対だ。彼らは闇の儀式に関わる危険分子であり、排除すべき存在なのだと自分に言い聞かせる。だが、なぜか心が重く沈むのを感じた。通りに横たわる浮浪者のエルフの面倒を見ている彼女にも、直接の責任を感じることに正当性があった。
そんな彼女の葛藤をよそに、儀式は既に始まっているようだった。石造りの円形の広間の床には、長年の湿気で生まれた苔が深緑の絨毯のように敷き詰められ、人々が集まっている。ある瞬間に、周囲の人々がさーっとひざまづいた。中心の幾人かの影がはっきり見える。みんな耳が横に張り出している。エルフたちだった。円形に並べられた蝋燭の中央に、老いた一人の男、長い耳が片方もげたエルフの司祭が立っている。その手には、レカが見覚えのある帽子があった。
(あれは……ルゥリィの……?)
ルゥリィが常にかぶっていた特徴的なターコイズカラーの魔術師の帽子だった。彼女の死体から持ち去られたものなのか。
(どうやって……!? いや、それよりも何に使う気だ!?)
レカの胸に冷たいものが広がる。司祭は帽子を高く掲げ、何かを唱えている。レカは耳を澄まして司祭の声を聞き取ろうとする。だんだん、呪文のような言葉の端々が聞こえてくる。集まった人々の顔には、復讐に燃える激しい表情が浮かんでいた。レカは身を潜め、隠れた場所から状況を把握しようとする。青い光が中心に起こる。魔力の反応だ。その光は徐々に強くなり、蝋燭の光よりも強くなっていく。
そのとき、下水管の配管からコンコンと聞こえた。シャルトリューズからの合図だ。触手族の柔軟な身体は、このような狭い空間では最大の利点となる。レカは後ろに下がる。
「あ〜んっ、もうっ! さいっあく!」
汚水がチョロチョロ流れる配管の口から、粘液に包まれた軟体の体が現れる。シャルトリューズだ。でろんと石造りの床に降りると、粘液をたくさん分泌して汚れを落とした。一旦きれいになった彼女は、小さな声でレカに耳打ちする。
「拝魔王教の儀式、近くで確認したわぁ。レカちゃんの言ったとおり、そこの大きな空間にそーとーな数が集まってるわねえ」
「そうか……」
レカは頷き、シャルトリューズの肩に手を置いた。
「うっし、シャル。そこにあつまってるのが明らかなら、催眠ガスを使うぞ。なるべく殺さずに捕えたい」
シャルトリューズは急に表情を曇らせた。
「あー……」
触手がゆらゆらと自信なさげに動き、それからその視線が泳ぐ。言いにくいことをどう言ったものかという躊躇があるように見える。レカは少し不審に思った。
「どうした? なんか問題でもあんのか?」
シャルトリューズは触手をもじもじさせながら、おずおずと言った。
「その……ガスを撒く前に、ちょっと言っておかなきゃいけないことがあるの」
「何だよ?」
「さっきぃ……人の集まりを確認したとき、ちょーっと気になる子がいたのよぉ」
レカは眉をひそめた。シャルトリューズがこんな風に言い淀むことはあまりない。
「ほら、レカちゃん前に言ってたでしょお? 猫族のタンザって子、それからひときわ魔力がつよそーな純潔エルフのキナって子……そこにいたわ」
一瞬、レカの呼吸が止まった。
「……何だって?」
「救貧院のリリアちゃんのところの子たちでしょう? 見てすぐわかったわぁ」
レカの頭の中が真っ白になる。タンザ。黒猫の耳を持つ獣人の少年。レカがいつも面倒を見ている子の一人。そしてキナ。タンザと暮らす人間の少女。どうして彼らがここに?
「……オメー知らねーだろ? 確かか?」
「変なおじいちゃんから名前を呼ばれてたわぁ。キナって子の魔力が必要みたい……。タンザにいちゃん行ってくるって」
レカの心臓が早鐘を打ち始めた。どうしてこんな場所に? どうしてこんな危険な儀式に? ……だが、思い当たるフシがないでもない。
(読み書きとか教えてくれるんだ。キナはまだ小さいから、俺が仕事してる間、面倒見てもらってるんだ)
レカは唇を噛む。
(タンザのやつ、この下水道……清掃の範囲外までマップを作ってやがった。マメなやつだなあとか、才能すげえなあとか、無邪気に思ってたけどヨォ……)
「こういうことか……」
レカは淀んだ臭気に構わず大きく息を吸い込んだ。
「シャル、あーしも確認する。ここで待機! ガスはまだ使うな」
レカは素早く身を翻し、壁の凹みに指を引っ掻け、ロッククライミングのように壁の裂け目や天井の出っ張りに取り付く。ギリギリまで近づいて儀式の様子を窺った。闇の中、レカも見たことがない強い青の光の中に浮かび上がる人々の顔。中心には女性のエルフたちがおり、青い光に手をかざしている。素早く汚れがこびりついた天井を移動して確認すると、リング状に並ぶ中に、小さな影が一つ。
(キナ……)
そこには確かに、タンザの妹分、キナの姿があった。さらに周囲には、救貧院で見かける獣人の子供たちの顔がちらほら見える。
(ちくしょう……)
エルフの司祭の声が、レカの耳に届いた。
「冒険者ギルドの勇士、ルゥリィの命を奪った者への呪い……我らがエルフの希望無慈悲に殺した者への復讐……魔王存在よ、我らの怒りと悲しみを受け取り給え!」
司祭の手の中で、ルゥリィの帽子が燃え始めた。オレンジの炎ではなく、青白い魔力の光だ。エルフが作る陣の外側に集まった人々が、その光に触れようと手を伸ばしている。
レカの脳裏に、ルゥリィへの暗殺任務の記憶が鮮明に蘇った。冒険者ギルドのために働く金槌級の魔法使いを殺せというタティオンの命令。彼女を追い詰めた夜。ルゥリィの緑の瞳の最後の輝き。彼女が持っていた情報は何だったのか。彼女がなぜ殺されなければならなかったのか。その時は考えもしなかった。命令だから。それだけだった。レカは再び天井と壁を伝ってシャルトリューズに合流した。
「確認した」
感情のこもらない声でレカは言った。シャルトリューズがため息をきつつ、
「レカちゃん……どうする? 魔法のことなんか全然わかんないけどぉ……あのままだととやばくなぁい? あとさぁ……」
「あと?」
「ウチの催眠ガス、あんまり調整が簡単じゃないのよぉ? こんな閉鎖空間で小さい子がいるなら、たくさん死んじゃうかも……」
レカは凍りついた。
「……どういう意味だ?」
「死んじゃうかもしれないってこと」
シャルトリューズの言葉は、まるで氷の塊のようにレカの心に突き刺さった。死ぬ。タンザが。キナが。リリアが守ろうとしている子供たちが。




