第四十二話 ギルドの闇
レカはそうそうにスケッチやメモの解読を諦め、テルに調査を任せることにした。レカはレカで忙しい。獣人傭兵は鳴りを顰めるようになったが、傭兵ギルドの構成員は獣人だけではない。もうすっかり冬になり、寒さが厳しくなり始めている。持たざる者にはきつい季節だ。無断で焚き火をする者による火事も起こりやすい。だがそんな貧民街をよそに、街には朝から気前のいいトランペットの音が響いていた。
「傭兵ギルドは勇者を求めている!」
大通りから貧民街に渡って響き渡る力強い声。人間の傭兵隊長が、冷たいはずの兜までも汗に濡らし、貧民街の広場で演説を続けていた。鋼鉄の鎧は朝陽に照らされて眩しく光り、周りを囲む複数の旗手たちが、傭兵ギルドの紋章を描いた旗を高々と掲げている。
「諸君! 我らが傭兵ギルドこそが、この街の真の守護者だ! 冒険者ギルドが守れなかった街、暗殺ギルドが影で牛耳る街、そんな不安定な場所に真の秩序をもたらすことができるのは我々だけだ!」
演説者の足元では太鼓が鳴り響き、後方では銅管楽器が勇ましい軍楽を奏でている。獣人の姿はまばらで、ほとんどが人間ばかりのパレード隊。ジャドワの反乱以降、獣人傭兵部隊はほぼ壊滅したため、その穴を埋めようと人間ばかりが集められていた。
「今こそ、傭兵ギルドは勇者を求めている!街の名誉と、金貨十枚の手付け金が諸君を待っている!ただちに登録せよ!」
パレードが貧民街の奥へと進むにつれ、通りの両側に集まる人々の表情は変化していった。最初は好奇心と期待に満ちた目で見ていた人々も、パレードが貧民街の中心部に差し掛かると、冷ややかな、あるいは露骨に敵意を含んだ視線で見るようになる。
「傭兵ギルドの真の力を見よ! かつての獣人部隊は去った! 今や我々こそが、この街の真の守護者だ!」
「よっと」
レカは屋根の上から隣の建物へと飛び移った。赤い瞳が一瞬だけ魔力の光に輝く。傭兵ギルドの新たな募兵パレードの音に、彼女は眉をひそめた。反乱から時が経ち、世情は少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。だが、それは表面的なものに過ぎない。街の根底に流れる緊張感は、日に日に濃くなっていた。
「相変わらず大騒ぎだなぁ」
レカは街の様子を冷静に観察した。街を橋へとつらぬく大通りから貧民街にかけて、傭兵ギルドによる派手な募兵パレードが行われている。闘技場での獣人反乱事件以来、傭兵ギルドの獣人部隊は事実上解体され、今やほぼ人間だけの組織になっていた。かつての多様性は消え、そのぶん過激な兵士だけが残っているように見える。
遠くからでも見える飾り立てた旗には、「偉大なる傭兵ギルド」「街の守護者」と書かれた旗が翻っていた。その下では、鎧や煌びやかにかぶいた色とりどりの衣服に身を包んだ人間の傭兵たちが、威勢よく武器を振りかざしている。
「……獣人がいなくなって、兵が足りねえんだろーな」
レカの呟きに皮肉な色彩が混じる。以前ならここで調子に乗った傭兵たちが貧民街にまで侵入し、略奪や暴行を働いていたものだった。彼女はそのような暴走を止めるため、何度も介入してきた。だがもうそんな余裕もないのか、みな品行方正に秩序を保っている。
パレードの一行が貧民街の奥にまで入り込むと、空気が変わった。かつて獣人傭兵部隊への憧れから傭兵に志願していた獣人の若者たちが、今では彼らを敵視している。特に獣人互助会のメンバーたちが道を塞ぐように集まり始めていた。
「またか……」
レカは通りを挟みこむように建っている建物の上に立ち、状況を的確に把握していた。獣人反乱後、獣人たちの社会的地位は急速に悪化していた。傭兵ギルドという唯一の出世コースを失った獣人たちは、自衛のため互助会を強化するしかなかった。
威勢のよい傭兵の一団が獣人たちに向かって何かを叫ぶ。レカには聞こえないが、挑発的な言葉であることは間違いない。獣人たちも黙ってはいない。両者の間で舌戦が始まる。本来尊重しなければならない傭兵団長の口上が、まるで単なるバックミュージックに過ぎないかのように、それは加速していく。
レカは静かに見守っていた。この街が日に日に分断されていくことへの懸念が胸に広がる。
「このままだと、また獣人反乱みたいなことが起きかねないな……」
そう思った矢先、状況は一気に悪化した。誰かが投げた石が傭兵の一人の額に当たり、血が流れる。怒号が飛び交い、双方が殴り合いのケンカを始めた。
「あーもう!」
レカは即座に屋根から飛び降りようとしたが、その必要はなかった。冒険者ギルドの警官たちが素早く現場に駆けつけてきた。銀色の鎧に身を包んだ彼らは、中立的な立場で非致死性の魔法を使い、両者を引き離していく。速度を抑制して暴れるものを無害化する魔法、両腕や足を拘束する光輪の魔法。色とりどりの魔術の光が通りで瞬く。治安維持のためなら、彼らの能力の右に出るものはいない。
「警戒はしてるようだな」
レカは少し安堵し、屋根の上に留まった。冒険者ギルドの介入で状況は収まりつつあったが、獣人たちの顔には怒りの色が残っていた。もはや普通の手段では、この街の分断は修復できないのではないか……。そんな思いがレカの胸をよぎる。
冒険者ギルドの警官たちが傭兵ギルドのパレード隊を別ルートに誘導し始めたのを見届けると、レカは屋根から身を翻し、貧民街の奥へと向かった。彼女の任務のために、拝魔王教の動向に関する情報を集めておく必要がある。
その前の日、執務室の窓から差し込む夕暮れの光が、古い書物や記録の並ぶ棚を赤く染めていた。タティオンは机に向かい、羽ペンで何かの文書に署名をしていたが、レカが入室(窓からだが)すると、その動作を止めた。
「おお、レカ。色々と興味深い情報を集めてくれているな。感謝する」
タティオンの言葉に、レカは軽く会釈した。暗殺ギルド本部の執務室の重厚な空気に対して、彼女の身のこなしは軽やかだった。
「いえ、もってーねーっす」
窓から差し込む夕日の光が部屋を赤く染める中、タティオンは書類に目を通しながら、レカからの報告を黙って聞いていた。所々汚れた革のスーツを着たレカは、先ほどまで下水道で情報収集をしていたのだろう。
「……そういう訳で、明日の夜、古い排水路の奥で拝魔王教の集会があるそうで。どうも地下水道を使ってるらしくて。獣人互助会が下水道について注意しているのも、これが関わってるのかも知れねーっすね」
「ほう」
タティオンは書類から顔を上げ、レカをじっと見つめた。彼の赤い瞳には、いつもの鋭さと共に、どこか思索的な色が浮かんでいた。
「レカよ、お前は考えたことがあるか? 貧民街の人々の心の中を……」
「え?」
タティオンは突然話題を変えた。
「貧民街の人々はなぜ憎しみに満ちているのか。なぜ我々の施しにいい顔をしないのか」
レカは少し戸惑った様子で、首を傾げた。彼女にとって、タティオンの哲学的な問いかけは常に難題だった。
「えっと……」
レカは少し考え込み、素直な気持ちを言葉にした。
「彼らは十分な食べ物や安全な住居がないからじゃないですか? リリアやあーしがパンを配っている時は、本当に嬉しい顔をしてくれる人もいるし……まあ、何か機嫌悪そうにする人も多いっすけど……」
「ふむ」
タティオンが穏やかに言葉を挟んだ。
「だが我々の救貧院にはしばしば石が投げ込まれる。リリアは善意で運営しているのに」
「それは……」
レカは言葉に詰まった。確かに彼女自身も見てきた光景だった。
「施しが十分ではねーってことっすかね?」
タティオンは微かに頷いたが、その眼差しは彼女の答えに満足していないことを示していた。
「それは、彼ら自身が言うところだが……実際には彼らの本心ですらない」
タティオンは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。執務室の窓から見える街の景色は、夕陽によって美しく彩られていた。しかし彼の視線は、美しい景色ではなく、その下の貧民街へと向けられていた。
「こういう話がある」
タティオンは背を向けたまま語り始めた。
「貧者のためパンを配る男の話だ。その男は毎日通りでパンを配っていた。『パンはいりませんか?』そう言って彼は自分の財産で揃えたパンを貧しいものに配って回った」
タティオンの声が執務室に響く。レカは身を乗り出さんばかりに、話の続きに耳を傾けた。
「ある日、とある困窮した人間が、その男を頼った。そいつは、男の家に招かれ、食事を振る舞われた。その夜、そいつは男の娘をレイプし、殺し、逃げ去った」
タティオンの声はまるで凍りついたかのように冷たくなった。レカは息を呑み、無意識に拳を握りしめる。タティオンの寓話には常に残酷な要素が含まれていたが、今日のものは特に生々しかった。
「……次の日、街にはいつものように男の声がこだました『パンはいりませんか?』」
タティオンは少し振り返る。夕陽の赤い光が横顔を照らし、黒いスーツに銀の髭が映える。その表情に謎めいた陰影を作り出していた。
「この話から何がわかる?」
レカは眉を寄せ、答えを探った。タティオンの問いには常に深い意味が隠されていた。単純な答えでは満足させられないことを知っていた。金髪の生えた頭を少しかきむしった後、彼女は答える。
「……人間の残酷さ?」
「いいや、そんなものはわかりきっている」
タティオンは窓の外に広がる街の景色を眺めながら、声に力を込めた。
「ここで重要なのは、弱者の持つ毒だ。それはプライドを傷つけられることによって増していく」
「プライド……」
「このパンを配る男は、施しによってその男のプライドを過酷に傷つけた。しかしそれによる報復を食らっても、かまわずに奉仕を続けたのは評価できるな」
レカは黙って聞いていた。胸の内で何かが引っかかる感覚があった。この寓話が意味するところ、そしてそれを今語る理由を、彼女は直感的に感じ取っていた。
「街の秩序は階層によって保たれている」
タティオンは続けた。
「互助会すら持てない最弱者たちは、いつも危険な思想に染まりやすい」
タティオンは窓から離れ、レカに向き直った。夕陽を背に、彼の姿は影のように見えた。
「エルフの集会は本質的に危険だ。この街でおよそありとあらゆる超常の力は魔法科学ギルドによって管理されている。あとは冒険者ギルドの個人的な才能による魔法行使と、あとは我々の持つ限られた隠密系の魔法だけ……」
タティオンは再び机に戻り、手元の書類を整理し始めた。
「しかし10年程度の周期で、貧民街のエルフが魔法の儀式を執り行うケースはある」
彼の視線がレカを捉えた。その赤い瞳には、容赦ない命令が宿っていた。
「レカ、その集会が儀式を成功させる前に叩け。憎しみの毒が育てた苗を、花開かせるな。その前に摘み取るのだ」
レカの背筋に冷たいものが走った。集会に参加したエルフたちを一斉に——しかし、それがタティオンからの命令なら。彼女は深く息を吸い、心を落ち着かせた。
「了解っす。ガズボとシャルトリューズを使いやす」
彼女は黙って一礼し、窓へと向かった。タティオンはそれをチラッと見た後、再び夕焼けに目を戻す。
「憎しみか……」
ただ夕陽の赤い光が徐々に室内から消えていくのを静かに見守る。やがて暗くなるころ、彼は机の引き出しに手を伸ばした。鍵のかかった秘密の引き出しを開けると、その中から布に包まれた細長い物体を取り出す。慎重に包みを解いていくと、中から現れたのは黒檀の鞘に収められた短剣だった。その柄には血のように赤い宝石が嵌め込まれ、微かに脈打つような光を発している。その短剣を手に取り、夕陽の残光にかざした。鞘から抜いていなくても、それは恐ろしいオーラを放っている。宝石の赤い光が室内に不気味な影を投げかける。
「憎しみは魂を腐らせる」
彼は短剣の鞘を指先で優しくなぞりながら呟いた。愛撫に答えるかのように、赤い宝石が強く瞬く。
「だが、怒りは時代を動かす原動力になる」
その光が強まり、まるでタティオンの言葉に応えるかのように脈動した。そして彼の顔に一瞬、苦悩の表情が浮かぶ。
「レカよ。この街を愛しているのか? ……辛いだろうに」
タティオンは短剣を再び布で丁寧に包み、しばらくその包みを手の中で握りしめた。彼の指が微かに震えている。長年この街の闇に生きてきた老暗殺者の瞳に、珍しく迷いの色が宿った。
「何十年かに一回、世界には……たくさんの人間が死ぬ風が吹くことがあるのだ」
窓の外で最後の夕陽が地平線に沈み、部屋は闇に包まれた。タティオンの輪郭だけが僅かな光の中に浮かび上がる。
「そして、その風がまた吹き始めている」
彼は再び短剣を引き出しに戻し、厳重に鍵をかけた。執務室には沈黙が広がり、やがて闇の中で灯される蝋燭の光だけが、彼の物思いに沈んだ表情を照らしていた。
貧民街の路地は複雑に入り組み、月の光はおろか、違法に引かれた魔光の灯すらほとんど届かない場所もある。だからこそ慣れが必要だ。レカは目を瞑っていても地形や建物の位置がわかる。いつもの革のスーツに身を包んだ彼女は慣れた足取りで、真の暗闇の路地を進んでいった。
ところどころの道ばたには、飢えて衰弱した人々が横たわっている。壁のくぼみには、毛皮の生え変わり期で見苦しくなった獣人の老人が震えながら座っていた。近くで人間の幼い子どもが泣いている。今夜の寒さでは何人も死ぬだろう。
こうした光景は、レカにとっては日常だった。彼女自身、9歳までこの貧民街で暮らし、生きるためにあらゆる手段を尽くしていた。しかし、タティオンに拾われてからは、その立場は変わった。
(レカ、今まで悪かった)
(っち、なんでこんなこと思い出しちまうんだ)
任務前のナーバスな心持ちが、彼女を一時的に繊細にしていた。
「あんた、ねえ、あんた」
闇の中から声が聞こえた。貧民街の最奥、これより外は廃墟とバラックだけ……。そんなもはや街の境界線と言ってもよい場所に向かう途中でのことだった。灯りなど一切ない。ただ路地に差し込む月光だけで、レカは声の主を見とめた。石畳の敷かれた道の脇にある古井戸の縁。身なりのボロボロなエルフの老婆が座り込んでいる。その隣に、まるでミイラのように汚れた包帯でぐるぐる巻きになった、かろうじて人とわかる小さな影。
その異様な佇まいに、レカは足を止めた。
「な、なんだよ」
若くして百戦錬磨、貧民街の闇も汚泥も全部見てきたレカですら、何か身震いするような不気味さを感じた。井戸はほとんど雑に建てられた石組みの家屋に埋まるように一部になっていて、老婆ともう一つの正体不明の存在は、その影の暗がりに蠢いていた。
「あんたは、暗殺ギルドの子じゃないかい?」
老婆が声をかけてきた。その声に重みがある。幾度もの苦難を乗り越えた者だけが持つ、深い響きだった。
「えぇ、まあ」
レカは警戒しながら近づいた。この老婆は一般的なエルフとは違い、どこか威厳があった。顔中に深いシワが刻まれ、長年の悲しみを物語っている。老婆はレカをじっと見つめ、かすれた声で語り始めます。
「そうか……暗殺ギルドの血を引く者か」
「いや、血っつーか……あーしは貧民街の世話役で、非正規構成員で……」
老婆の言葉にレカは眉をひそめた。普通、暗殺ギルドの構成員であることを知られるのは好ましくない。しかし、老婆の瞳には敵意ではなく、どこか諦観のような感情が浮かんでいた。
「あんた、タティオンの子だね?」
ゾクっとした。そしてレカの体が硬直する。彼女の素性を知る者は貧民街ではほとんどいない。レカは一歩後ろに下がり、警戒を強めた。膝を曲げて重心を低くし、敵意を露わにする。
「……あんた、誰だよ?」
老婆は微かに笑った。ヒェヒェヘェという、吐息で喉が掠れたような声で。笑い声というよりも、喉が音を立てたといった趣。長年の苦痛を耐え忍んだ顔の皺が痙攣したというべきものだった。
「名前なんてとうに忘れたよ。ここじゃみんな『老エルフ』って呼ぶだけさ」
老婆は隣に目をやった。包帯に包まれた小さな影に。
「この子はゼゴっていうんだよ」
「ゼゴ……?」
赤黒くしみのついた包帯に包まれたその姿は、子供よりは大きいが、成人にしては小柄。包帯と暗さのせいでよくわからないが、その形状には本来の手足に相当する膨らみが見受けられず、布に包まれた大きめの赤ん坊のようにも見える。見るからに障害を持つその子は、包帯の隙間から覗く目が異様に赤く、ほとんど光っているように見えた。レカの直感が鋭く反応する。その瞳の色は彼女自身のものと同じだった。
「タティオンの子だよ、この子も」
「なっ!? うっ……!?」
レカは彼女らしくもなく狼狽え、息を飲んだ。その心臓が跳ねる音が聞こえるようだった。包帯に包まれた小さな影、ゼゴとやらは、微動だにせず、ただそこに座っていた。その赤い瞳も、レカに向けられてはいるが、全く動いていない。見えていないのだろうか?
「う、うそだ……」
レカはさらに後ずさった。
「嘘じゃないよ」
追い詰めるような声色で老エルフが言う。
「あの方は、エルフを……特にこの貧民街のエルフを、よく訪れたものさ。亜人種を雇える娼館を整備したのも、あの人の趣味さ、ヒェ、ひぇ、へぇ」
老エルフの言葉に、レカの中で何かが崩れるような感覚があった。たまらず額に手をやる。じっとりと汗が滲んで金髪を肌に貼り付かせる。タティオンに関する謎めいた記憶の断片が、彼女の中でざわめき始める。
「う、うそ、うそで……」
「ウソじゃないさ」
老エルフはボロを纏った体を揺らしながら言った。
「タティオンの子なら、この街にはたくさんいるのさ。でも赤い目を持つのは少ない」
老エルフは静かに続けた。
「この子はね、エルフの妊婦から生まれたとき、すでに赤い目をしていた。普通の魔力持ちなら、もっと青みが混ざった紫の色をしているのに……。それがわかったとき、母親は狂ったように叫んだものさ。『魔物を産んでしまった』って」
レカは黙って聞いていた。呼吸が荒くなっていくのを感じながら。その話に真実味があることを、彼女は直感的に理解していた。
「ふぇ、ヒェ……赤い目を持つ者は、特別な力を持つ。それは魔の血筋……タティオンのそれは、いちだんと強いものなんだろうねlw」
老エルフはゼゴの頭を優しく撫でた。薄汚れた包帯に包まれた頭を。その手つきには愛情が感じられた。そしてレカに目を向ける。その瞳は白く濁っていた。
「あんたも、そうなんだろう?」
レカは黙ったままだった。彼女の胸に込み上げる感情を、うまく言葉にできない。タティオンの隠し子。それは絶対の秘密だ。生き馬の目を抜くギルド同士の抗争が常に燻るこの街で、そんな情報は漏れてはいけない。しかし、ではこの老婆はいったいどこから……。
「拝魔王教のことを調べているんだろう?」
レカの顔が驚きで硬くなる。
「ど、どうして……」
「あの集まりに行くのはね、私たちのような底辺にいる者だけさ。獣人の互助会にも入れない者たち。エルフや人間のホームレス、障害を持つ者たち……」
老エルフの声には哀しみが滲んでいた。
「私たちのようなゴミには、魔王の滅びを救いとするしかない……」
レカは静かに呼吸を整える。任務のことを考えなければならない。この老婆とゼゴが何者であろうと、拝魔王教の儀式を阻止するというタティオンからの命令は絶対だった。レカは息を整え終わると、エルフの老婆に歩み寄って膝をついた。代謝の悪いエルフだから体臭はあまりないはずだが、嗅いだことがないにおいがした。
「……集会はどこで行われる?」
「古い下水道の最奥、大時計塔の真下近く」
老エルフは微かに首を振った。
「でも行っても無駄だよ。あの人たちは死を恐れていない。だって、生きていても地獄なんだから」
レカは顔を背けた。タティオンの寓話が突然、胸に刺さった。弱者の毒。プライドを傷つけられた者の復讐心。
「行かなきゃならないんだ」
「わかってるさ。あんたは命令されたことをするしかない」
老エルフの目が月明かりに照らされて光った。もうろくに見えていないだろう白濁した瞳。その瞳には非難も許しもなく、ただ客観的に世界を見つめる冷静さがあった。
「でも覚えておくといい。私たちは単に救いを求めているだけ。暴力を望んでいるわけじゃない。暗い洞窟の中でメチャクチャに腕を振り回しているだけさ。洞窟に光が差せば、それを目指す」
レカは静かに頷いた。そして再び歩き始めようとしたとき、老エルフが最後に言った。
「あんたはタティオンに見捨てられていない。でも、この子は違う」
レカはその場に立ち尽くした。背中がこわばるのを感じる。それから、ゆっくりと踵を返して言った。
「……また、会えるか?」
老婆は静かに首を横に振った。
ここに結末部分の修正版となる追加描写を提案します。その仕草には確かな諦めと、長い年月をかけて得た静かな受容があった。
「この接触はあのお方はよく思わないだろう。バレたくない。あんたにはわからない場所へ移るよ。……この街では長く同じ場所にいられないのさ。特に、あの方の目から逃れるためには」
レカは胸に何かが詰まる感覚を覚えた。この老エルフとゼゴ。彼女の異母兄弟かもしれない存在。それともう会えないという事実が、なぜかレカの心を掴んで離さない。
「……そっか」
レカは静かに呟いた。そしてふと思い立ったように腰に差していた小さな袋から、数枚の銀貨を取り出した。
「これ、持ってけよ」
老エルフは微かに笑い、しかし手を伸ばして受け取った。
「優しいねぇ。でも、あの方に似てないよ」
その言葉にレカは胸の痛みを感じた。タティオンに似ていない。それはどういう意味なのか。褒め言葉なのか、それとも皮肉なのか。
「優しさは、この街では長続きしない。覚えておくといい」
老エルフの最後の忠告のような言葉に、レカは答えられなかった。ゼゴは依然として微動だにせず、ただその赤い瞳だけがレカを見つめている。それがレカには何より不気味で、同時に哀しく感じられた。
「……じゃあな」
レカはそれだけ言うと、背を向けた。足取りは重く、何度も振り返りたい衝動に駆られたが、彼女はそれを抑えた。任務がある。それはタティオンからの命令であり、彼女の存在意義でもあった。
月明かりに照らされた路地を抜け、レカは古い井戸と老エルフとゼゴの姿が見えなくなるまで歩き続けた。頭の中では様々な疑問と感情が渦巻いていた。タティオンの過去、赤い瞳の意味、そして見捨てられたゼゴの存在。
(お父さんは……一体どれだけの秘密を抱えているんだ?)
レカは拳を強く握りしめた。心の奥底で何かが揺れ動いているのを感じる。これまで絶対だと信じていたタティオンへの忠誠が、微かに、しかし確実に揺らぎ始めていた。
(でも今は……)
彼女は深く息を吐き出し、意識を切り替えた。任務に集中しなければならない。感情は後回しだ。
夜の闇に溶け込むように、レカは二人の亜人種の部下たちと合流するため、いつもの酒場、『竜の爪』に向かった。背後では、大時計塔が街全体を見下ろすように聳え立ち、その巨大な影がレカの歩む道を覆い尽くしていた。




