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マリオネットとスティレット  作者: 北條カズマレ
第五章 魔王を拝むモノたち
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第四十一話 母の凍った時間

 月光がアトリエの窓から差し込み、ホコリの舞う空気を藍色と銀色のきらめきに染めていた。埃まみれの床には、使い込まれた木炭、鉛筆、絵の具、筆、キャンバスの切れ端が散乱している。テルは絵に一心に向かっていた。小さな魔光灯に照らされたベッドには、タンクトップ姿のレカが仰向けで足をぶらつかせながら天井を見つめている。ほどかれた暗殺者スーツが画材と共に転がり、金のポニーテールが枕に広がっていた。

「魔王存在か……」 

 レカは呟くように言い、枕元の紙片を指先でなぞった。「魔王による救済」という文字は、雑なガリバン印刷で安い紙に印字されている。貧民街でも作れるクオリティだ。彼女は天井を見上げて息を吐いた。テルはその様子を横目に見ながら、絵筆を動かし続ける。

「最近、町中でよく見かけるようになったね、あのチラシ」

 テルは筆を走らせながら言った。

「でも拝んだところで何も変わりはしないと思うけど」

 レカは体を起こし、髪を直しながら顔をしかめた。

「タンザのやつがコレを配ってるところを見かけたこともある。仕事は選べと言おうと思ったんだが、どぶさらいが済んじまえばどうしようもねえ」

 テルの手が止まった。キャンバスに描きかけの大時計塔が浮かび上がっている。

「そう言えば、タンザや他の子たちに仕事を斡旋したの、本当に正しかったのかな…」

 レカの顔が一気に曇った。

「あ? なんで今頃そんなこと言い出すんだよ」

 その声には明らかな苛立ちが混じっていた。

「だって…」

 テルは筆を置き、窓の方へと視線を移した。

「僕は結局、こうして学院に通って好きに絵を描いて……将来は父の意向通り街の支配者になるのを待ってるだけじゃないか」

 テルの声は自嘲的だった。キャンバスの貧民街。その夕景に筆で暗い色を重ねる。

「最近、よく憎しみの視線を感じるんだ。貧民街でね」

 レカは起き上がり、ベッドに座った。

「なーにいってんだよ。おめーは……いろいろ救貧院でやってるじゃねーか。食い物配ったり、絵や文字を教えたり……」

「貴族として余ったものを与えているだけだよ」

 テルの表情は硬い。レカは少しため息をついて床のハケを拾い、テルに向かって振り回した。

「フツーの貴族サマなんて、言い訳する時間も惜しんでパーティー三昧だぜ。おめーは違う」

 レカの言葉は少し粗いが、慰めようとする気持ちが伝わってくる。テルは少し表情を和らげたが、すぐに再び沈んだ。

「でも僕の精一杯なんて、きっと関係ないんだろうね。みんな憎しみを抱いているんだよ」

 レカは黙ってテルを見つめた。ふたたび口を開いた時、彼女の声はいつもより低く、重みがあった。

「その憎しみの向かう先が魔王かもしれねーな」

 テルは驚いて顔を上げた。

「え?」

 レカはチラシを畳んでしまって、暗い声で言った。

「あいつらは革命じゃなく、自分たちも巻き込んだ復讐を望んでいるのさ。それが全てを奪われて、打ちのめされ、尊厳をみんな奪われて木偶の坊になっちまった人間が最後に望むもの」

 テルはショックを隠せない。

「みんな、この街がなくなった方がいいと思ってるのかな?」

 レカは肩をすくめた。

「みんなかどうかはわからねえ。ただ、あーしは見てきた。全部奪われたやつらが最後に望むのは自滅的復讐だってな」

 テルの手が止まった。

「エルフや人間の底辺労働者が拝魔王教に染まりやすいのも、それが理由なのかな?」

 レカも答えを出せないようだった。部屋を行き来しながら考え込んでいる。

「母さんが言ってたよ。愛情の反対は憎しみじゃなくて無関心だって」

 レカは驚いて振り返った。

「……なるほど。確かにな。愛情……。街の底辺の連中に足りないのはそれかもな」

 テルは深く息を吐いた。絵は完成していた。暗い、夕暮れの街の絵。貧民街を大時計塔の影が覆っている。

「誰かが何かを流布したりしてるんだろうか? エルフ、ホームレス、障害を持つもの……社会から切り捨てられた人たち」

 レカは片手を握りしめ、もう片方の手でその拳を包み込むようにして、胸の前で言葉を紡いでいく。その姿はまるで祈るような、何かに誓いを立てるような印象を与えた。

「あーしは……そんな人たちに同情するけどさ」

 レカはチラリとテルを見た。一瞬の躊躇いと、戸惑いが彼女の表情を掠めていく。肩の力が緩み、諦めたように吐息がこぼれた。

「……でも街の秩序を壊すようなことになったら、放っておけねえ」

 テルはレカの声に含まれる迷いを聞き逃さなかった。彼は絵筆を置き、画材の散らかった机の前で両手を膝に置いた。やがて諦めたように肩をすくめた。

「ねえレカ。君こそ本当によくやってるよ」

 テルは疲れた目をこすりながら言った。

「愛情の反対が無関心なら、君は関心そのものだ。それが君の本質。暗殺ギルドの仕事なんか関係ないよ。君の美徳だ」

「そうかねえ」

 レカは窓際に背を預け、夜空に目をやった。魔光灯の光が彼女の横顔を青白く照らしていた。

「僕は違う」

 テルは急に立ち上がり、キャンバスに向かって数歩進んだが、途中で足を止めた。彼の背中は弓なりに曲がり、肩は落ち、まるで目に見えない重荷を背負っているかのようだった。彼は窓の方には背を向けたまま、右手で自分の髪をかき乱した。

「今思うと、本当は無関心なのに関心ある風を装って関わった結果、憎しみが溢れ出すのなら、そもそも関わらない方が良かったんじゃないかって……」

 その言葉を口にする間、彼の指は小刻みに震えていた。レカは黙ってテルの言葉を聞いていた。彼がここまで繊細になるのは珍しかった。レカは、テルに歩み寄る。手を伸ばしそこに触れるのは怖い。まだ彼らの関係は、肉体的接触を恐れていた。テルは部屋の中を見渡す。散らかる画具とガラクタ、そして空想冒険小説や絵の技術の本……。

「まあとにかく、魔王についての知識はあった方がいいね。報告するだけにせよ、なんにせよ……。正直言って、アトリエには魔王に関する本はないよ」

 レカは肩を落とす。

「そっかあ……」

 テルはふと思い立ったように顔を上げて言った。

「母さんは魔王についての古い本を持ってた。たぶん今でも屋敷に……」

「ほんとか!?」

 レカの声が明るくなる。テルはなんだか懐かしい気持ちになった。子供の頃、レカとともに屋敷の本棚から物語の本を引っ張り出して読んでいた記憶が蘇る。

「そうそう、母は異国の物語をよく集めていたんだ。東方からきた話や、海の向こうの伝説とか」

 テルの声には、いつも母の話をするときの柔らかさと痛みが混ざっていた。レカはそれを察して静かに頷いた。

「でも屋敷の本棚は……」

 テルは言葉を切った。父のロドヴィコは、妻の死後、彼女の部屋や持ち物に触れることを厳しく禁じていた。テルでさえ、もう何年も入っていない。

「行くしかないね」

 レカは決意を固めたようにテルの肩を叩いた。

「あーしに任せな! いくぜオラ!」

「え、あ、うん……え!? 今!?」

 テルは驚きつつも諦めていた。レカが何かを決めたら、もう止められないことは知っていたから。

 十秒後、テルはシャツの襟を掴まれ、屋敷の屋根にいた。


「さ、寒くないのかい? レカ……」

 屋根の上で、テルは自分の肩をシャツの上からさすりながら、黒いタンクトップ一枚のレカに聞いた。豊かな筋肉を覆う白い肩が丸く月の光を反射している。レカは口に指を当ててテルに静かにしろとジェスチャーで示す。アルエイシス邸の天窓から二人は忍び込んだ。この大きな屋敷には、二人が幼少期から知る秘密の通路がいくつもあった。一階や地下の通路はテルも知っていたが、屋敷の上層のそれはレカだけが知っていた。使用人たちが見ていない隙を狙い、二人は亡き母の書斎へと足を踏み入れた。

「なんだか緊張するな」

 レカの声が、静寂の中で異様に響いた。

 部屋は完璧に保存されていた。まるで今にも主人が戻ってくるかのように。カーテンが引かれ、ほのかなホコリの匂いがするだけで、すべてが整然と並んでいた。テルが魔光灯のランプの光を当てると、それはさっきまで人が住んでいたように見えた。テルは少し胸が詰まるような感情を得る。その光景は、何年経っても慣れることができなかった。

「父上の言いつけで、母が亡くなってからこの部屋に誰も入れないんだ。掃除も自分でするって言ってたけど……」

 テルは窓際の机に近づいた。そこには精巧な飾り文字で装飾された羽ペンと、開かれたままの日記帳。ページの端には、何年も前に綴られた言葉が。執筆の途中で時間が止まったままだった。テルはその文字をあえて読まずに、そっと目を逸らした。

「オメーのお母さん、どんな人だったんだ?」

 レカが本棚を眺めながら尋ねた。その声には、いつもの荒々しさではなく、胸がいっぱいになっているであろうテルを気づかう柔らかな響きがあった。

「僕にもよく分からないんだ」

 テルは窓辺の写真立てを見つめた。

「記憶はおぼろげだよ。絵本を読んでもらったことは覚えている。でも細かな部分は写真と父の話からしか知らない。美しくて、優しくて、とても聡明な人だったんだって。メイド長が言ってた。でも父上はなかなか話してくれないな。たまに話すときの表情が、どこか苦しそうで……」

 レカはテルの言葉を聞きながら、背の高い本棚に目を走らせていた。指先が埃をかぶった背表紙の上を滑るように移動する。

「ヨトゴォルに関する本を見つけなきゃな」

「母さんの日記に何か書いてあるかもしれないけど……」

 テルは再び机に視線を落とした。開かれた日記帳は、読まれるのを待っているようにも見える。

「……でも、読む勇気がないよ」

 レカは机に寄り、テルの代わりに書かれた文字を読んだ。数年前の日時が記され、起床時間と体調について、それから読書の目録が記されている。日記帳をめくり、表紙をあらわにすると、そこには……。

「なあテル、これって……?」

 それは変色することなく、表面の文字が簡単に読み取れた。『リミナルダンジョンについて』と、一番上の紙片に書かれている。テルが近寄る。魔光灯に照らされると、それはまるで昨日書かれていたような表面をあらわにした。

「まさかこれは……」

 テルは驚いた様子でページをめくる。日記帳を開くと、様々なスケッチと共に、詳細な描写が記されていた。ダンジョン内の生物について……。

「これは、母さんが実際に見聞きしたものなのか?」

 そのなかで、魔王存在ヨトゴォルについての記述を見つける。

「ヨトゴォル…」

 テルは小声で読み上げた。

「多元平行世界を跨いで存在し、世界の間の分配を見守る存在……?」

 レカは眉をひそめたあと、テルと顔を見合わせる。テルも首を捻って困惑する様子を見せた。

「何のことだか、さっぱりだね、続きは……?」

 テルはページをめくった。

「えっと、ヨトゴォルとの対話の記録、ナダ・アルエイシス」

 彼の青い目がはっと見開かれた。日記帳をつい持ち上げる。

「……っ!? 母さん!?」

 テルの声が震えた。頁をさらにめくると、そこには幾つかの名前が並んでいた。タティオン・ヴォルヴィトゥール、サクラ・ヴォルヴィトゥール、そして勇者存在ユスフの名。レカは赤い瞳を絞るように細めて、食い入るようにその名を見つめた。

「ボス……? ボスの名前がなんでここに?」

 レカがテルが持つページの表面を撫でた。

「サクラって……ボスの奥さんか? リリアとスタヴロのお袋さんだったはずだ。でも何でこんなところに名前が……」

 テルが開き持つページには、非常に古い写本の一部と思われる、装飾された文字と挿絵で構成される二つの世界が描かれていた。一つは明るく豊かな光景、もう一つは暗く乏しい光景。そして、その間に立つ巨大なドラゴンともタコともつかぬ存在──ヨトゴォル。

 テルは息を呑んだ。

「これが……魔王存在ヨトゴォル……絵本と同じ……」

 部屋の静寂がより深まったように思えた。

「母さんはこんなことを研究していたんだ……」

 テルは震える手でページをめくった。解読し切れないが、これは宝の山に見えた。

「そして父さんではなく、タティオンさんと……?」

 レカは黙って、本に描かれた図を見つめていた。その紅い瞳には、複雑な感情が交錯していた。テルは興奮を抑えられないうわずった声で、

「タティオンさんは勇者存在である冒険者、英雄ユスフと旅をしたはず……これが本当だったとしたら……」 

「テル、さっさと持ってくぞ」

 レカが日記帳を素早く手に取る。

「待って、それはダメだよ」

 テルは慌てて制止した。

「父さんが気づくよ。母さんの遺品は厳重に管理してる」

 レカは不満そうな表情を浮かべたが、渋々と頷いた。

「じゃあどうする?」

 テルは思案する様子で部屋を見回した。窓からは月明かりが差し込み、埃の舞う空気の中に銀色の光の道を作っていた。

「写さないと……」

 テルはふと思いついたように言った。彼は持参した小さな革の手帳と鉛筆を取り出し、魔光灯を近づけながら、日記帳の重要な部分をスケッチし始めた。

「さすがテルだな。さっすが」

 レカは肩越しにそのスケッチを覗き込む。

「絵の腕が役に立つな」

 テルの手は素早く動き、ヨトゴォルの姿や世界の構造を描いた図、そして名前のリストを写し取っていく。レカは窓辺に目を光らせ、外を見張っている。だが安全に思える。鉛筆が紙の上を走る音だけがする。大時計塔の形や、魔王存在ヨトゴォルの奇妙なシルエット、そして名前のリストを写していく。

「ヨトゴォル、多元平行世界……うーん、何が書いてあるんだろう」

 テルは眉をひそめながら作業を続けた。レカは警戒を怠らず、部屋の入り口で耳を澄ませていた。しかし、突然彼女は背筋がぞわりと冷たくなるのを感じた。

(あれ?)

 彼女は首を傾げ、耳をさらに澄ました。廊下には何の気配もない。これが普通なら安心するところだが、彼女の暗殺者としての直感が警告を発していた。

(気配がなかった!?  なぜ……? あーしの感覚で捉えきれない人間がボス以外に……)

 振り返る間もなく、部屋のドアが開いた。レカは反射的に本棚の陰に滑り込み、身を潜めた。そこからは、テルが母の机の前で固まった姿が見えた。

「やはりいたか、テル」

 ロドヴィコの表情は厳しく、しかしどこか疲れたようでもあった。振り返った息子の顔は、驚きに凍りついていた。

「この部屋に入ることは禁じていたはずだ」

「申し訳ありません、父さん」

 テルは躊躇なく頭を下げた。しかし身を起こすと、すぐに反論する。

「でも僕には知る権利があると思って……母さんのことを」

「権利?」

 ロドヴィコは冷たく言い放った。

「権利とは責任とセットだ。お前にその責任を負う覚悟があるのか?」

 テルは黙ったまま、父の目をまっすぐ見つめた。

「責任は、それを背負う能力がある者が背負うべきだ。お前にはまだそれは無理だ。そして彼女には……それだけの力はなかった」

 ロドヴィコの目に、一瞬だけ深い痛みが浮かんだ。

「憎しみは精神の主人たらんとし、悲しみは肉体を生贄に欲する。ろくなものではないが……彼女はそれと戦おうとした」

「この街のこと? 何を言って……」

「この『世界』のことだ」

「えっ……?」

 テルはわけがわからないという顔をした。

 ロドヴィコは一瞬だけちらっと床に目を落とした。魔光灯のあかりが闇を払った中に見えるのは、降り積もったホコリの上に、二人分の足跡……。

「拝魔王教のゴミどもが気になるようだな? そこにある情報を欲するということは」

 テルは手帳を握りしめる。ロドヴィコはフッと笑みを浮かべる。

「まあ、禁忌に触れる以外は、自由にすればいいさ。あのスティレットの小娘も、存分に使うがいい。最強の暗殺短剣だよ」

 その言葉は、テルの感情に火をつけるのに、十分だった。テルはくってかかった。

「僕は父さんのマリオネットじゃない! レカとの関係も、僕自身とレカの気持ちがあり方を決める!」

 ほう、と、ロドヴィコが言った。テルに歩み寄る。こうすると、威圧感がある。現役の評議会員で、貴族で、決闘で何度も生き残ってきた、強力な力を持つ、身長も体格も恵まれた男なのだから。

「テル。あの娘は、お前に随分懐いているようだが……お前は決してあいつを愛してやろうとはしなかった。どこか気後れして……あいつが勝手に血で錆びていくままにしている」

 その言葉は、テルに大きな衝撃を与えた。テルは冷静になれないまま言葉を返そうとする。しかし、思いもよらない言い方に、彼は何も言えなかった。本棚の後ろで聞いているレカの反応だけが気になった。

「テル、お前にだって政治的な力はある」

 ロドヴィコの声が低く響く。その声には、街の評議会で幾度となく勝利を収めてきた説得力が宿っていた。

「まだ若いが、才能はある。実際、お前の絵は人々の心を動かしている。救貧院での活動も、貧民街での評判も上々だ。私は評価していないというだけでな」

 テルは黙って父の言葉を聞いていた。普段なら嬉しいはずの父の言葉も、今は胸に重くのしかかる。

「テル。自覚しろ。そしてあのスティレットだって、上手く使えば最強の道具になる」

「レカのことを、そんな……」

 テルの声が震えた。それは怒りなのか、恐れなのか、自分でもわからない。しかし確かなのは、父の言葉に込められた意図への強い拒絶感だった。

「レカは、レカ姉ちゃんは……そんなんじゃないよ」

 言葉を選びながら、しかし芯の通った声で告げる。ロドヴィコは息子の反応を冷静に観察していた。その目には、実験台の反応を見る科学者のような冷徹さがあった。

「じきに正式にお前のものになる」

 ロドヴィコは淡々と続けた。

「お前自身の意思で使える、最強のナイフだ。タティオンとの約束は既にある。お前たち二人の関係は、街の支配にとって重要な意味を持つ」

「は?」

 その言葉に、テルは心の底から寒気を覚えた。レカを道具として見る父の視線。それは権力者としての判断であり、人としての温かみを欠いていた。

「違う……」

 テルは呟くように言った。しかしその声には、これまでにない強い意志が宿っていた。

「違う、違うんだ! レカは……道具なんかじゃない。僕にとって大切な人だ、それに、誰だろうと誰かの道具になっちゃいけない……」

 ロドヴィコは沈黙した。執務室は闇は、濃くも薄くもならず、父と子の持つ魔光灯のあかりで照らされている。二人の間に横たわる深い溝が、その闇の中でより鮮明になっていった。

「愚かな」

 ロドヴィコは憐れむような顔で首を横に振った。

「この奴隷の街で、誰かをマリオネットにしないでいられるはずもない。自覚しろ、テル」

 彼は本棚の方へ歩み寄り、先ほどレカが見ていた本とは別の、さらに古い本を取り出した。

「飢える人を襲う四つの苦しみ。欠乏への悲しみ、無力への怒り、世界への憎しみ、そして自己破壊。それらは貧困という病の症状である」

 彼は本を開きながら言った。

「癒すことができるのは金だけだ。金は必ずしも幸福をもたらさないと人は言う。しかし金がなくても平気だと思う心を養うためには金が必要だ。そして、金がもたらす最大の幸福は、それを施しに費やした時だ。施しによって憎しみが増そうとも、腹が満たされれば暴動は起きない。この街は憎しみの持ち主たちを生かさず殺さず糸を繰って操ってきた……マリオネットのようにな」

 テルはじっと父の顔を見つめた。自分より高いところにある、自分と同じ目の色をした顔は、自分よりもずっと深いレベルでこの街のことを考えている。少しでもそう思っている自分に腹が立った。ロドヴィコはテルの方を見ることなく続ける。魔光灯の青白い灯りが彼の大きな影を作る。

「拝魔王教か。当然のような気もするが、少し作為的だな。憎しみの黒いヘドロは低い方へ流れる。階級のヒエラルキーから滴り落ちて、コミュニティを汚し、教室のカーストを下って、社会の下層へ。そして淀みから炎になって時折吹き上がる。それを利用しようとしている者がいるのか……」

「なんでも知ってるようで、そこはわからないんだね?」

 テルは戸惑いながら精一杯の皮肉を言った。ロドヴィコは相手にせず、本を閉じた。

「お前の母は……やはり人々の憎しみをどうにかしようとしていた。お前と同じようにな。だが……それは生きている人間には荷が勝ちすぎる話だ」

 ロドヴィコの声には珍しく感情がこもっていた。わずかな震えでも、テルにはわかった。

「……お前は感じたはずだ。あの大闘技場の血飛沫の中で。お前がどれだけ施しをしようと、それ以上に自己犠牲として自分の肉や骨を全部差し出そうと、憎しみの大津波は絶対に止まらないと」

 テルは黙って父を見つめた。その目には、理解しようとする意志と、同時に反発する光が宿っていた。しかしロドヴィコはそれを無視するように、魔光灯のランプを持っていない方の手を差し出した。

「さあ、今とったメモを渡せ。お前には過ぎた情報だ」

 テルは父の伸ばされた手を見つめた。彼は一歩後ずさり、メモ帳を胸に抱えるように握りしめた。

「いやだ。お願いだ、父さん。母さんのことを、もっと知りたい」

 ロドヴィコの目が厳しさを増す。

「言うとおりにしろ。お前にとって危険な知識だ」

 震える手を伸ばし、テルはゆっくりとメモ帳を差し出した。父の表情には、勝ち誇りよりも、むしろ複雑な安堵の色が見えた。ロドヴィコはメモ帳を開き、テルの描いたスケッチを確認していく。

「そうか、これだけか」

 ロドヴィコはメモ帳をポケットに入れると、もう一度部屋を見回した。

「さあ、いくぞ。もう夜遅いんだ」

 テルは最後にもう一度、母の日記帳に目を向けた。そこには彼がまだ知らない母の姿が、たくさん詰まっているはずだった。ロドヴィコは息子の腕を掴み、部屋から連れ出した。

「遺品をいたずらにいじると、彼女の魂が安らかでなくなる」

 その言葉には、何か真実ではないものが感じられた。テルはただ黙って頷いた。部屋を出て、ドアが閉まる瞬間。何かが一瞬だけ動いた気配。しかし、ロドヴィコも気づいていない様子だった。


 テルはため息をつき、庭の上を歩く。しばらく逡巡した後、自分のアトリエへと足を向けた。メモ帳を取られてしまったことへの落胆と、母の秘密に触れた興奮が入り混じっていた。

 アトリエのドアを開けると、窓辺に月明かりを浴びて立つレカの姿があった。

「レカ……?」

 驚きに目を見開くテル。レカはしてやったとばかりに笑顔を見せつつ、テルの手帳をひらひらやってみせた

「へへ、おっさんのポケットから抜いてきた」

「えっ!? そんな...いつの間に!?」

 レカは得意げに笑った。その顔には、まるで悪戯を成功させた子どものような誇らしさがあった。彼女はくるりと回り、テルの愛用の椅子に座り込んだ。

「でもさあ、なんか変だったよな。2回目にあの人が戻ってきた時、気配が一切なかった。なのにあーしが手帳をスっても気づきもしねえ。チグハグだぜ」

 レカは腕を組み、考え込むような表情をした。その赤い瞳には懸念の色が浮かんでいた。

「まあ、とにかく成功だ!」

 彼女は気を取り直すように、メモ帳を開いた。

「さすがテル、うまく描けてるな。これで何か手がかりがつかめるはずだ」

 テルはレカから渡されたメモ帳をじっくりと見た。彼の描いた線は正確だったが、それでも母の日記帳の神秘的な雰囲気を完全に捉えることは難しかった。

「レカ、ありがとう。……でも、本当に申し訳ない」

 テルは俯いて言った。レカはよくわからないといった視線を向けた。

「なんでだよ」

「父さんが言ってたこと……聞いてたよね」

 レカはやや沈黙したあと、肩をすくめた。

「ああ、あれか。『スティレットの小娘』とか」

 彼女の口調は明るかったが、どこか無理をしているように感じられた。テルは彼女の側に歩み寄った。

「君は、スティレットなんかじゃないよ」

 テルの声は、いつもより少し低く、強い意志を秘めていた。だがレカはゆっくりと首を横に振る。赤い瞳と無理した笑みが、テルの前で踊る。

「あーしはボスにとってのスティレットだ。それが現実」

 レカはそう言って立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。彼女の背中には、長い影が伸びていた。

「それでいいんだよ、あーしは」

 振り返った彼女の顔には、珍しく柔らかな微笑みが浮かんでいた。強がりと知りながら、テルはその笑顔が好きだった。テルの目には、月光の中の彼女の長い金髪と赤い瞳が、この世で一番美しいもののように映った。

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